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橘氏は2代でフェードアウト
第46代 孝謙天皇の時代になると、ますます藤原不比等の孫たちが政権を占めるようになりました。
橘諸兄の同世代は根こそぎ疫病で死んでしまい、唯一の救いの鈴鹿王も亡くなっています。
左大臣・諸兄以外は、次世代の若い布陣。たったひとり老体に鞭打つ諸兄は大変です。もちろん光明子の影響もありました。
左大臣 | 橘諸兄 | 政権トップ。 |
右大臣 | 藤原豊成 (ふじわら とよなり) | 藤原武智麻呂(ふじわら むちまろ)の長男。 藤原南家のトップで藤原氏全体のトップ。 |
内臣 (うちつおみ) | 空席。 | |
大納言 | 藤原仲麻呂 (ふじわら なかまろ) | 藤原武智麻呂の次男。 豊成の弟。 |
中納言 | ??? | |
参議 | 藤原真楯 (ふじわら またて) | 藤原房前(ふじわら ふささき)の3男。 藤原北家でいちばんの出世頭。 |
参議 | 藤原清河 (ふじわら きよかわ) | 藤原房前の4男。 孝謙天皇即位時に新規参入。 |
参議 | 橘奈良麻呂 (たちばな ならまろ) | 橘諸兄の長男。 孝謙天皇即位時に新規参入。 |
橘氏のビッグニュースは、諸兄の長男・奈良麻呂が政権に入ったこと。
光明子から見ると兄がトップで残りは甥っ子で独占。奈良麻呂も光明子からすればほかの藤原氏と同じです。
このころの光明子は、孝謙天皇の後見人で天皇を凌ぐほどの存在だったと言われます。政権の人たちも頭が上がらなかったでしょう。
奈良麻呂のお祖父ちゃんは美努王と不比等。お祖母ちゃんは三千代ひとり
橘諸兄は、正室に藤原多比能(たびの)を迎えました。多比能の母は橘三千代。諸兄は父ちがいの兄妹婚です。
自分の息子をなんとかいいポジションに置こうと母の三千代が考えたのでしょう。
その間に生まれたのが奈良麻呂。
奈良麻呂は、政権に入った他の藤原氏と同じ不比等の孫。姓がちがうけどファミリーです。
光明子のお気に入り。藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)
光明子が甥っ子たちの中で一番かわいがったのは藤原仲麻呂でした。
仲麻呂は野心家で上司の橘諸兄の失脚を狙うほど。兄の藤原豊成(とよなり)の失脚すら狙ってました。
めちゃくちゃです。
いち参議の仲麻呂が政権をコントロールするまでになっていました。それでも光明子は止めなかったらしい。かわいすぎてしょうがなかったのか、内心では仲麻呂を政権トップにしたかったのか分かりませんが。
そんな中、イチャモンをつけられた諸兄は左大臣を辞職します。翌年には亡くなりました。
同じ年に、橘諸兄の最大の理解者の聖武上皇も亡くなります。これで橘氏は大きな後ろ盾を失いました。
(光明子は仲麻呂にゾッコンなので期待できない。)
橘奈良麻呂の乱(たちばな の ならまろ の らん)
橘諸兄の長男・奈良麻呂は、藤原仲麻呂の暗殺を計画します。しかし事前にバレて失敗。次々に仲間が逮捕されました。
その中には孝謙天皇から皇太子をクビにされた道祖王(ふなど おう)もいて、拷問を受けて死亡。そのほかの天皇になってもおかしくない王たちも同じような目に合います。
奈良麻呂はどうなったのか記録がありません。同じようにボコボコにされて死んだとも。
また、あとの平安時代に奈良麻呂の孫が第54代 仁明天皇を産んだので記録が抹消されたという説もあります。
橘奈良麻呂は女性皇太子を認めてなかった?
橘奈良麻呂は、聖武天皇の時代からどの王を天皇にするか積極的に活動していたそう。
最初、聖武天皇の皇太子は、安積親王(あさか しんのう)でしたが幼くして亡くなりました。奈良麻呂も安積を推していた一人で、次の皇太子になったのちの孝謙天皇を認めてなかったらしい。
長屋王の息子を推す活動を積極的にしていました。孝謙天皇と対立するのも当たり前。
この話は、乱のあと『奈良麻呂は先帝のころから反乱の計画を練っていた』と仲間が自供してバレました。
奈良麻呂はお祖母ちゃんの三千代と似ています。野心を隠さないところが。この辺が藤原氏に嫌われたのでしょう。光明子にも孝謙天皇にも。
(じゃないと諸兄を攻撃する仲麻呂を放置しない。)
藤原氏のはずなのに天皇から姓をもらって独立したジェラシーがあったのかもしれない。
(天皇から姓をもらうことは臣下にとって最大の栄誉だった。)
- P1 天皇から姓を下賜されたのは女性
- P2 女性の成り上がりの物語
- P3 橘氏の祖は息子の橘諸兄(たちばな の もろえ)
- P4 橘氏は2代でフェードアウト
- P5 世代を超えて復活!
- P6 なぜ四大氏族に数えられるのか?