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橘氏ってなんだ? どうして源、平、藤原と並んで四姓に入っているのか?

橘氏

世代を超えて復活!

光明子や孝謙天皇が絶対の信頼を寄せていた藤原仲麻呂の最後も処刑です。

孝謙天皇は退位して上皇になると、あれだけ重宝していた仲麻呂よりも弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)を頼るようになりました。

自分が皇位をゆずった第47代 淳仁天皇はクビ。

それにブチ切れた仲麻呂は反乱を画策したのがバレてTHE・END。(藤原仲麻呂の乱

仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝(えみ の おしかつ)という名前をもらっていたので、恵美押勝の乱とも言います。

回り回ってお鉢が回る。

ここで藤原氏の勢力図が変わり、南家から式家へ権力が移りました。その式家も藤原薬子(ふじわら くすこ)が反乱を計画して自害。

平城上皇も加わっていたので上皇が隠居するはめになりました。(平城太上天皇の変

それを抑え込んだのが第52代 嵯峨天皇。平安時代の基礎を作ったとも言われる人です。嵯峨天皇は皇后を出す家としての藤原氏を毛嫌いしました。そうでしょうね? 薬子を見てれば。

そこで迎えたのが、橘奈良麻呂の孫・橘嘉智子(たちばな の かちこ)。

橘氏の系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

橘氏は氏族として浮上できなかった

皇后を出したんだから最強でしょ? と思いがちですが、橘氏は知る人ぞ知る名家として残り歴史上はほぼ無名に近い存在になります。

皇后・嘉智子の父・橘清友(たちばな の きよとも)は、橘奈良麻呂の息子なんですが、奈良麻呂が亡くなったあとに生まれました。

清友も32才の若さで亡くなっています。娘が皇后になる姿を見ていません。

藤原氏の復活。源氏の登場。

嘉智子の夫・第52代 嵯峨天皇は、政権のすべてを藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)に任せました。

(皇后の実家としての信頼はゼロだったが、政治家としては必要とされてた。冬嗣は式家ではなく北家だったのが大きい。橘氏と因縁のある南家でもない。)

そして、冬嗣の子孫たちが平安最強の藤原氏を作っていきます。また嵯峨天皇は上皇になると自分の子どもたちに源(みなもと)姓を与えて源氏を作り始めました。

このときの源氏は武士ではなく、藤原氏に匹敵する貴族。左大臣を多く輩出します。

嘉智子には兄弟がいましたが、彼らには藤原氏、源氏に対抗できる後ろ盾がありません。つねに2つの氏族のワンランク下に甘んじることになります。

歌人として優秀な人もいたし、中級貴族として生き残りました。

承和の変で失脚

文化人では橘逸勢(たちばな はやなり)がいます。平安初期の貴族で、空海(くうかい)・嵯峨天皇と並んで三筆(さんぴつ)と称される。

(逸勢も奈良麻呂の孫。嘉智子皇后のいとこ。)

承和の変で皇太子の交代劇が起きたんですが、その直前、命の危険すら感じていた皇太子・恒貞親王(つねさだ)の東国逃亡計画が発覚しました。

逸勢も加わっていたとして逮捕されます。逸勢は官位と姓の剥奪、非人に落とされて島流しの刑。護送中に病死しました。

非人(ひにん)  

身分階層の中で最下層の人たち。

『人に非ず(あらず)』のとおり、人間扱いすらしないということ。

罪人としてペナルティを受けた人、特定の職能の人(死者を扱う人、芸人など)、ホームレスなどがこの階層に当てられた。のちに被差別部落になっていく。

842年の『承和の変』で天皇からもらった姓を剥奪され、非人の姓にされたうえ島流しになった、伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(たちばな の はやなり)が文献で最初に見られるとも言われる。

橘氏の長者が姓を奪われたので、橘氏の浮上の目は完全に潰されました。

官位剥奪、姓の剥奪は当時では死刑と同じ意味をもつ。

安土桃山時代に消滅

細々と生き残っていた橘氏ですが、豊臣秀吉に罰を与えられて、当主が非業の死を遂げて消滅します。

江戸時代に醍醐源氏が改名して橘氏を名乗りましたがつながりはありません。醍醐源氏は橘氏の子孫の仁明天皇の系統とつながっているので、全く無縁とも言えませんが。

ちなみに、鎌倉末期に足利高氏(あしかが たかうじ)のライバルとして活躍した楠木正成(くすのき まさしげ)は橘氏を自称しています。本当かどうかは分かりません。

次はなぜ四大氏族に数えられるのか?
前は橘氏は2代でフェードアウト

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