歴代天皇 - 女帝中心の時代 -
斉明天皇(さいめい)は、一度退位してからまた天皇に即位する重祚(ちょうそ)を初めてした人です。
前は災難つづきで何もできず4年で終わってしまいましたが、今度は持ち前? の剛腕をふるい勇ましい天皇として帰ってきました。
歴代で最後の戦地に向かった軍の総司令官の天皇です。
古代 飛鳥時代
- 皇居
飛鳥板蓋宮
(あすかのいたぶきのみや)
- 生没年
- 594年 ~ 661年7月24日
推古天皇2 ~ 斉明天皇7
68才
- 在位
- 655年1月3日 ~ 661年7月24日
斉明天皇元 ~ 斉明天皇7
7年
- 名前
- 宝
(たから)
- 別名
天豊財思日足姫尊
(あめとよたからいかしひたらしひめ の みこと)第35代 皇極天皇と同一人物
(こうぎょく)
- 父
茅渟王
(ちぬ の おおきみ)
- 母
吉備姫王
(きびつひめ の おおきみ)第29代 欽明天皇の孫
(きんめい)
- 夫
- 第35代 舒明天皇
(じょめい)
またまた中大兄皇子、即位せず
先代の孝徳天皇の政権は、中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)と中臣鎌足(なかとみ の かまたり)のツートップ政治です。
中大兄は皇太子でもありました。30才。
ここで中大兄、なぞの即位辞退がおきます。理由はわかりません。
当時の天皇は35才前後にならないと即位できないといわれてますが、中大兄は母の皇極天皇が退位するときも即位を打診されたのに断りました。
ほんとうにナゾ。
孝徳天皇の政権では事実上のトップを務めました。政治の経験はありすぎるくらいです。
孝徳天皇は中大兄に天皇をやめさせられたようなものです。それなのに中大兄は天皇になりませんでした。
これで中大兄の即位辞退は3回目。皇太子なのに。
即位できた? | 即位できない理由 |
---|---|
舒明天皇(父)が亡くなる | 16才。 年齢が若すぎた。 当時の即位の適齢期は35才前後。 即位できなかったのは当然といえば当然。 |
皇極天皇(母)が退位 | 20才。 乙巳の変での蘇我入鹿殺害の実行犯。 さすがに殺人犯から天皇はムリだった。 年齢が若すぎた。 でも皇極天皇は、中大兄の即位を打診して いる。 |
孝徳天皇(叔父)が亡くなる | 30才。 年齢が若かったか? でも欽明天皇は30才で即位しているので、 ムリという年でもない。 天皇即位辞退から10年たっているので年齢 による即位辞退は考えにくい。 そもそも孝徳天皇が亡くなったのは、中大 兄が原因。 孝徳天皇政権では事実上のトップで、摂政 みたいなものだった。 政治経験は豊富。 |
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
息子の代わりに母が即位
そこで即位したのは皇極上皇です。先々代の天皇。
乙巳の変で、息子・皇太子の中大兄が自分の目の前で蘇我入鹿(そが の いるか)を殺害した責任をとって退位しました。
そして今回は、自分が天皇になるつもりはなかったでしょう。10年前に息子に譲ろうとしていたくらいですから。
斉明天皇です。61才の即位。
歴代天皇のなかでも遅い即位で、本来なら即位しないはずだったのがわかります。当時ではもう死んでもおかしいくらいの年齢。
それくらいナゾの遅い即位。
一度天皇を退位して、ふたたび即位することを重祚(ちょうそ)といいます。
皇極・斉明天皇は史上初の重祚をした人。
重祚(ちょうそ)
一度退位した天皇が再び天皇になること。二度目のときの名前は新しくつけられる。
男性天皇は1人も重祚していない。女帝だけ。
中大兄のオラオラはつづく
皇太子・中大兄は、敵になったものは殺すという性格があります。斉明天皇のもとでもやっちゃいました。
先代の孝徳天皇には息子がいました。有馬皇子(ありま の みこ)です。
有間皇子はこんな感じで処刑されました。
孝徳天皇が亡くなると、有間皇子は皇位争いをさけるため病気を理由に白浜温泉(和歌山)に引っ込みました。
そのあと都に戻って、斉明天皇に白浜がいいところだったと伝えます。
斉明天皇は白浜温泉へ旅行に行くことになりました。
天皇がいない都では、有間皇子に蘇我赤兄(そが の あかえ)が近づき、
といい、皇子は、
といって喜びました。でも赤兄は中大兄に、
とチクります。
有馬皇子の反乱を聞いた中大兄は、有馬皇子をとらえて天皇のいる白浜に送り尋問しました。
有間皇子は、
と答えましたが、処刑されてしまいました。
赤兄は最悪です。何がしたかったのかよく分かりません。
天皇の留守を利用して中大兄皇子が有馬皇子にワナを仕掛けたともいわれる。
キライな奴は殺してしまえの中大兄ならやりそうなことです。
朝鮮半島の混乱に手を出す
このころ、朝鮮半島では大きな変化がおきます。
百済(くだら)滅亡
新羅(しらぎ)が朝鮮半島の統一にむかって強大になったころで、660年、中国(唐。とう)と連合を組んで百済に攻め込んできました。
百済と友好関係にあった倭(わ。日本)は、百済からのヘルプの要請に兵を送ることを決めます。
斉明天皇は本気度100%でした。天皇自身が兵を率いて出陣します。皇太子も一緒。
これで負けたらどうするんだ? というくらい、全員で出陣しました。
日本には、百済最後の王・義慈王(ぎじおう)の息子・扶余豊璋(ふよ ほうしょう)が亡命していた。
(人質だったともいわれる。)
朝鮮半島のヘルプは、豊璋を朝鮮半島に帰して百済を再興させるのが狙い。
遠征先で死ぬ
遠征軍は筑紫(福岡県)の朝倉宮にうつります。しかし斉明天皇はそこで亡くなりました。67才。
病気なのかよく分かりません。暗殺されたという話もあります。天皇が亡くなったので、百済遠征は中途半端に終わりました。
(寿命だったというのが順当だと思うが。)
斉明天皇は歴代天皇の中で最後の軍の総司令官として戦地に遠征した天皇です。このあとから明治になるまで、天皇は軍の総司令官をするのを辞めたから。
斉明天皇が亡くなり今度こそ中大兄の時代がやってくるんですが、それでも中大兄は天皇になりませんでした。
皇極・斉明天皇ってどんな人?
皇極・斉明天皇は、どんな人だったのかよく分かりません。
皇極天皇時代は存在感がありませんでした。蘇我入鹿があまりにもキャラが強くてよく見えませんでした。
かと思ったらその後は、弟・孝徳天皇を置き去りにして中大兄と一緒にヤマト(奈良)に帰ったり、百済に兵を送るために九州まで遠征するアグレッシブさもあります。
歴代の天皇には、わけが分からない人がたくさんいますが、皇極・斉明天皇ほど人間性がつかめない人はなかなかいません。
蘇我入鹿や中大兄の陰に隠れて自分がない?
中大兄じゃなくて、皇極・斉明天皇がオラオラだった?
中大兄はお母ちゃんのいうことを聞いていただけ?
乙巳の変で没落する蘇我氏本家の外交は消極的だった。
皇極天皇の時代は蘇我氏が中心だったので外交的にはおとなしく目立った動きはない。
一方、大化の改新で蘇我氏がいなくなった新政権の外交は積極外交に戻っていた。
また、朝鮮の新羅の勢力拡大、中国が隋から唐へ変わるなど、おとなしい外交を許さい東アジアの状況があった。
皇極・斉明天皇の二重人格のような大きな政策転換は、激動の世界情勢が影響している。