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第38代 天智天皇。なかなか天皇にならない中大兄皇子。慎重な名君か?ただのダダっ子か?

emperor tenji image

歴代天皇 - 政治闘争で殺しあうアグレッシブな天皇たち -

天智天皇は(てんじ)は、あの中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)です。

4代の天皇の皇太子なのに即位せず、先代の斉明天皇が亡くなったのに7年間も即位しませんでした。

中大兄は『天皇になりたくなったのでは?』とも言われ、超絶慎重な性格だったとも言われる。

古代 飛鳥時代

  • 皇居
  • 近江大津宮
    (おおみのおおつのみや)

  • 生没年
  • 626年 ~ 671年12月3日
    推古天皇34 ~ 天智天皇10
    46才
  • 称制
  • 661年7月24日 ~ 668年1月2日
    斉明天皇7 ~ 天智天皇7
    7年
  • 在位
  • 668年1月3日 ~ 671年12月3日
    天智天皇7 ~ 天智天皇10
    4年
  • 名前
  • 葛城
    (かづらき)
  • 別名
  • 中大兄
    (なか の おおえ)

    天命開別尊
    (あめみことひらかすわけのみこと)

  • 皇后
  • 倭姫王
    (やまとひめ の おおきみ)

    古人大兄皇子の娘
    (ふるひと の おおえ の みこ)

称制(しょうせい)

天皇がいない状態で代わりの人が政務をとること。

皇太子や皇后が代わりをつとめた。

神功皇后天智天皇など。

天智天皇 image
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

中大兄皇子は有名なわりにはナゾの人です。なかなか天皇にならないのもそう。そもそも、『中大兄』は名前じゃありません。

なんでそんな呼び方するの?

という意味でもナゾ。

『中大兄』は名前じゃない

まず、中大兄(なか の おおえ)は名前じゃありません。『大兄』は長兄のことで『アニキ』のようなものです。

そこに、『中』(真ん中)をつけて『真ん中のアニキ』『2番目のアニキ』の意味になります。

ぼくらはいつも、『皇位継承順位第2位の皇子』って呼んでるんですね?

どうみても名前じゃないです。

名前を呼ぶのが怖かった?

ここからぜんぶ、ぼくの想像です。

ほんの十数年前まで、『○○さん』と呼ぶとガン無視して、『課長』と呼ばないと返事しない人いました。

お前に名前呼ばれる筋合いは無ぇー!

って人ですね? 今でもいるのかな? 意味不明のマウンティングをとる人。

『○○課長』ですら返事しない人いました。まちがいなく裏でボロクソに言われている人です。

こういうことがあるので、怖い先輩、近寄りがたい上司には、ふわ~っと話しかけることもありました。『あのー』からはじめたりして。

(それはそれで『はっきりしろ! しゃきっとしろ!』と怒られたが。その人を7回殺した。自分の心の中で。)

中大兄はそんなタイプの上司だったんじゃないかと思います。なにせ、敵と判断した人はあっさり殺してしまう人だったので。

だからといって『2番目の皇子』はもっと怒られそうですが。

皮肉?謙遜?

ぼくの想像パート2。

中大兄には、乙巳の変の直後、襲撃して殺してしまった兄・古人大兄皇子(ふるひと の おおえ の みこ)がいました。

乙巳の変(いっしのへん)

645年、第35代 皇極天皇(こうぎょく)の目の前で、息子で皇太子の中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)が蘇我入鹿(そがの いるか)を殺害した事件。

これで蘇我氏は一気に衰退する。

これをきっかけに、天皇中心の国家建設を目指す政治運動が始まる。

大化の改新(たいかのかいしん)

ひとつ考えられるのは皮肉です。

あなたはあくまで2番目の人なんだからね?

と考えられていること。これはまわりの評価です。もうひとつ考えられるのは謙遜です。

ほんとは2番目だけど、しょうがなくトップになってるんです。

これは、天智天皇サイドから見た解釈です。

合ってるかどうかは分かりません。次はどうして天皇に即位しなかったのか? ひとつひとつ見ていきましょう。

舒明天皇のあと。若すぎた

第34代 舒明天皇は4代前の天皇で中大兄の父です。このときはじめて皇太子になりました。

舒明天皇が亡くなったとき16才。当時の天皇は35才くらいじゃないと天皇になれなかったともいわれます。

政治のリーダーシップがいるし、すぐ殺し合う権力闘争があったので大人じゃないとダメだったのでしょう。

若すぎて即位せず。

納得できる。

皇極天皇のあと。暗殺の実行犯はさすがになれない?

若すぎた中大兄の代わりに即位したのは、第35代 皇極天皇で中大兄の母です。

中大兄は2回目の皇太子就任。このとき古代史最大の権力闘争、乙巳の変が起きます。

乙巳の変(いっしのへん)

645年、第35代 皇極天皇(こうぎょく)の目の前で、息子で皇太子の中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)が蘇我入鹿(そがの いるか)を殺害した事件。

これで蘇我氏は一気に衰退する。

これをきっかけに、天皇中心の国家建設を目指す政治運動が始まる。

大化の改新(たいかのかいしん)

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

中大兄は、母・皇極天皇の目の前で蘇我入鹿(そが の いるか)を暗殺しました。

しかも、自分の手で。

皇極天皇はこれがきっかけで退位します。中大兄20才。

皇極天皇は皇位を中大兄にゆずろうとしますが中大兄は、

中大兄
飛鳥時代の人 image
自分よりも叔父さんの軽皇子(かる の おうじ)がいいっす。

断ったうえにほかの人におしつけます。やれといわれて断るナゾの辞退。

(まわりには、若さが暴走して危なっかしくてムリって思われたかも。)

やれと言われて断るナゾ。

まわりのダメだろうという声に警戒したか?

単にやりたくなかったか?

孝徳天皇のあと。政治経験ばっちり。天皇を退位させる

第36代 孝徳天皇は皇極天皇の弟で中大兄の叔父さんです。中大兄3回目の皇太子就任。

中大兄は、孝徳政権で中臣鎌足(なかとみ の かまたり)と二人で仕切っていました。

あの有名な大化の改新をおしすすめます。

大化の改新(たいかのかいしん)

645年の乙巳の変からはじまった政治改革。

第36代 孝徳天皇の時代に、中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)と中臣鎌足(なかとみ の かまたり)を中心に行った。

その後、斉明天智天皇へと引きつがれ、天武持統文武天皇のとき律令国家として完成する。

そして、リーダーらしくなってきた孝徳天皇をひとり残して都を奈良へ移しました。

全員引き連れて。孝徳天皇の皇后や皇極上皇も。ただのイジメですね?

それなのに、孝徳天皇が亡くなったあと中大兄は即位しません。政治経験は豊富で30才になっていました。

自分でイジメて辞めさせておきながら、また即位しませんでした。

ナゾの即位辞退です。代わりに即位したのは、退位した母・皇極天皇のカムバック。

叔父さんをイジメて辞めさせたのに即位しない。

政治経験は十分。即位しない理由はない。

30才は少し若すぎるか?

斉明天皇のあと。7年間の天皇不在

第37代 斉明天皇は退位した皇極天皇と同一人物です。中大兄は4回目の皇太子に就任。

斉明天皇が九州北部で亡くなったあと、なぜか中大兄は即位しません。天皇の代わりに政務をとりつづけましたが即位しませんでした。

けっきょく7年間天皇がいない状態でした。天皇がいない状態でだれかが代わりを務めることを称制といいます。

称制(しょうせい)

天皇がいない状態で代わりの人が政務をとること。

皇太子や皇后が代わりをつとめた。

神功皇后天智天皇など。

中大兄の即位しない理由がまったく分かりません。斉明天皇が亡くなったとき中大兄は35才です。

年齢はちょうどいいし、政治経験は孝徳・斉明政権で事実上のトップだったのでありすぎるくらい。

それでも中大兄は即位しませんでした。中大兄の即位辞退の最大のナゾです。

35才。即位するには丁度いい。

政治キャリア15年。ありすぎるくらい。

時間がたって乙巳の変の殺人犯の汚名は消えてるはず。

それでも7年即位しない。なんでや?

中大兄はダダっ子ボンボンでは?

中大兄は『天皇に一番近い男』なのに、なかなか天皇になりませんでした。

やっと即位したのは42才です。4年後亡くなるので人生のほとんどを皇太子としてすごしました。

(皇太子は30年。)

天智天皇は、ただ天皇になりたくないとダダをこねたんじゃないかと疑います。

そのわりには歴史の功績は大きいです。天智天皇をそばで補佐した中臣鎌足がスーパー優秀な人だったのでしょう。

天智天皇は織田信長のようなクールさがあり、敵・味方を殺している。

人に恨まれているのを自覚して、矢面に立ちたくなかったのかもしれない。

もしくは人望がないのが分かっていたのかも。かんちがいして殺したりしてるから。

即位しなかった一番の理由を探すと

即位しなかった理由を探してこれかなーというのはなくはないです。中大兄は安定する政権を作るために必要な味方を品定めしてたということ。

中大兄は、皇太子時代から権力闘争で色んな人を殺してます。はっきりいって敵が多い。

すぐに即位しても、暗殺される、政権が潰されるのを警戒していたようです。とくに母・斉明天皇が亡くなったときはあえて天皇不在を選びました。

母は朝鮮出兵のために九州に遠征して、白村江の戦いで惨敗しました。だれがどう見ても外交の大失敗。

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)

663年(天智2)8月27日の新羅・唐連合軍と百済残党・倭連合軍の最終決戦。

倭(日本)は大惨敗して、唐・新羅に占領されるほどの危機感をもった。

天智天皇が律令国家建設を急ピッチで進めたのもビビっていたため。

天智天皇は内陸部に都を移した。(近江の大津宮)

大津宮は当時から不評で

なんであんなド田舎の山奥に?

という意見が多かった。相当ビビってた?

しかも、九州で亡くなったので失敗の責任も取っていません。

中大兄はその責任を丸ごと引き受けると、そのまま引きずり降ろされるのを恐れたのでしょう。

じっさい天皇の即位までの7年間、敗戦処理をすすめます。

防衛の整備太宰府(だざいふ。福岡)に水城
(みずき)を作る。
防衛隊の防人(さきもり)を配備し
た。
遷都都を飛鳥(あすか。奈良)から近
江・大津(おうみ・おおつ。滋賀)
へ移す。
近江大津京。

内陸部に移して本土決戦に備えた。
敗戦処理

即位したのは敗戦処理が終わって新しい都で落ち着いたあとです。

朝鮮出兵のための九州遠征には中大兄も一緒に行っている。事実上の総司令官。

この遠征は総動員で、都をガラ空きにした政権全員での大勝負。それに負けた責任は中大兄が一番大きかったかもしれない。

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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。

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