歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
反正天皇(はんぜい)は倭の五王の珍といわれます。
これがほんとうなら、反正天皇は中国(宋)の将軍になったことになり、日本は中国の属国になりました。
また反正天皇にはある特長がありました。名前がそのまんまなんですが、ほんとうだったらおマヌケちゃんになる。
先史・古代 古墳時代
- 皇居
丹比柴籬宮
(たじひのしばかきのみや)
- 生没年
- 336年 ~ 410年1月23日
仁徳天皇24 ~ 反正天皇5年
60? 才
- 在位
- 406年1月2日 ~ 410年1月23日
反正天皇元年 ~ 反正天皇5年
5? 年
- 名前
- 多遅比瑞歯別尊
(たじひ の みつはわけ の みこと)
- 父
第16代 仁徳天皇
(にんとく)
- 母
磐之媛命
(いわ の ひめ の みこと)葛城襲津彦の娘
(かずらき の そつひこ)
- 皇夫人
津野媛
(つのひめ)木事命の娘
(こごと の みこと)和邇氏
(わに)
- 妻
その他
一本歯の皇子
反正天皇は生まれたとき、歯が一本に見えるくらい歯並びが美しかったそうで、体を洗われた井戸の中に多遅の花(イタドリ)が咲いていたので、
多遅比 瑞歯 別尊
と名づけられました。
生まれたときから歯がそろっているところがスゴイですが、一本歯のワケないです。マヌケ面になっちゃいます。
皇太子の兄を助け別の兄を殺す
父・仁徳天皇の皇太子は兄でのちの履中天皇でした。でも父が亡くなると、もうひとりの兄・住吉仲皇子(すみのえ の なかつみこ)が皇太子を殺そうとします。
瑞歯別は皇太子といっしょに奈良の旧都へ逃げました。そして皇太子と協力して反撃し住吉仲を殺します。
このとき皇太子は旧都にドーンとかまえていて、じっさいに軍を率いて戦ったのは瑞歯別だと言われます。
それもあってか、履中天皇は息子がいたのに瑞歯別を皇太弟にしました。
皇太弟(こうたいてい)
天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。
皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。
そして履中天皇が亡くなると即位します。反正天皇です。反正天皇は5世紀前半に活躍したと考えられています。
反正天皇は中国の将軍?
反正天皇の時代は、父・仁徳天皇と兄・履中天皇の政治が良かったので、民は豊かで平和がつづいていました。
また反正天皇は、中国の『宋書』に書かれた倭の五王のひとりと言われます。
倭の五王(わのごおう)
中国の『宋書』に書かれた日本の5人の王のこと。
5世紀のおよそ100年間、日本が中国に貢ぎ物をして、その見返りに王の称号をもらっていた。
それが5人の天皇だったといわれている。(確定していない。)
また、中国の将軍にも任命されていた。
宋書の王 | 与えられた将軍 | 天皇 |
---|---|---|
倭国王・讃 (さん) | ??? | 第16代 仁徳天皇 |
倭国王・珍 (ちん) | 安東将軍 | 第18代 反正天皇 |
倭国王・済 (せい) | 安東将軍 | 第19代 允恭天皇 |
倭国王・興 (こう) | 安東将軍 | 第20代 安康天皇 |
倭国王・武 (ぶ) | 安東大将軍 ↓ 鎮東大将軍 ↓ 征東大将軍? | 第21代 雄略天皇 |
ランク | 将軍 | ランクイメージ |
---|---|---|
1 | 車騎将軍 | 皇帝直属の将軍。 中国軍本体。 戦車・騎馬隊? |
2 | 征東大将軍 | 東部方面司令の大将 |
3 | 鎮東大将軍 | 東部方面司令の中将 |
4 | 安東大将軍 | 東部方面司令の少将 |
5 | 征東将軍 | 東部方面司令の大佐 |
6 | 鎮東将軍 | 東部方面司令の中佐 |
7 | 安東将軍 | 東部方面司令の少佐 |
※ 中国からみた東国を担当する将軍。
※ 『東を征服する』『東を鎮圧する』『東を安定させる』の順にランク付け。
これが日本と中国の本格的な外交のはじまりで、将軍は中国皇帝の部下なので中国の属国になる。安東将軍はランクが低い。
(日本は朝鮮王より低いランクから始まった。それからランクアップしていく。最終的に朝鮮に並んだとかいないとか。このへんは微妙。)
天皇のまわりの豪族たちにも欲しいと日本から要求したので、称号は天皇以外ももらっていた。
九州などの豪族たちも、ヤマトを無視して称号をもらっていたとされる。
損をしているように見えるが、中国の世界最先端の技術・文明が日本に入ってきた。
このとき、母系社会の日本に男尊女卑・男系思想が入ってきたと言われる。
当時の中国は南北朝時代で、日本は南朝の宋(劉宋)と国交を結んでいた。
(北朝はすぐに東西に分裂し南朝よりも不安定だった。)
これが正しければ、反正天皇は日本の王の称号と朝鮮半島南部の軍事指揮権を中国の宋王朝に求めています。
ぜんぶは認められませんでしたが、中国から『安東将軍・倭国王』の称号をもらいました。
ぼくはこのころの日本は属国だったと思います。当時の東アジアは、
中国が親分でまわりの国は子分
が国際ルールでした。いまなら国連に加盟するようなもので、その証しが『王』。
朝鮮国王(高句麗王・新羅王・百済王)、倭国王は中国皇帝の部下です。
下から出るような外交でナメられなかったのか?
『そんな奴隷根性でナメられなかったの?』と思うでしょうが、ナメられてます。一本歯のマヌケ面じゃなくても。
ただし、当時の日本はそれでも得られるメリットのほうがかなりありました。当時の中国と日本は今のアメリカとサモア独立国か、それ以上の想像を絶する国力の差があったから。
8代前の第10代 崇神天皇の時代から、日本には東アジアの外国人が渡来していろんな技術を取り入れられていましたが、それが最先端だったかは分かりません。
最先端を導入するには舎弟になるのが一番です。『親ビ~ン』と猫みたいに近づいたらナデナデしていろんな情報をくれるから。
銀座のママのような賢さで行こうと腹をくくったのでしょう。
(クラブのママをディスってるわけではない。むしろ凄さで例えてる。)
反正天皇は、古事記では60才で亡くなったとされ在位は5年くらいです。死因は分かっていません。
倭国王は朝鮮国王よりランクが下だった。中国から与えられた将軍のランクが朝鮮が上位のことが多いから。
(百済王は鎮東大将軍。高句麗王は車騎将軍や征東大将軍。)
中国皇帝 > 朝鮮国王 > 倭国王
いまでも韓国ではこのランクにこだわる。天皇のことを『日王』(イルワン)と呼ぶのがそう。
日本に王より上位ランクの『天皇』がいるのが許せません。潜在的に。
反正天皇は有名な肖像画がありません。
『この人は本当にいたの?』と思われてきたのでしょう。