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第53代 淳和天皇 民間人になりたかった事務次官経験者

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歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -

第53代 淳和天皇(じゅんな)は、民間人になりたいのに却下されて官僚を経験した珍しい人です。

官僚として優秀だったらしく省の事務次官を歴任しました。

古代・中世 平安時代 - 初期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 786年?月?日 ~ 840年5月8日
    延暦5 ~ 承和7
    55才
  • 在位
  • 823年4月27日 ~ 833年2月28日
    弘仁14 ~ 天長10
    10年
  • 名前
  • 大伴
    (おおとも)
  • 別名
  • 日本根子天高譲弥遠尊
    (やまとねこ あめたかゆずる いやとお の みこと)

    西院帝
    (さいいんてい)

  • 藤原旅子
    (ふじわら たびこ)

    藤原百川の娘
    (ふじわら ももかわ)

  • その他

淳和天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

父の死で民間人になりたがる

806年、父・桓武天皇が亡くなります。そのとき大伴親王(おおとも。のちの淳和天皇)は、臣籍降下して民間人になりたいと言い出しました。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

しかしそこは、皇太子ですぐに即位する予定の兄・安殿親王(あて。平城天皇)に却下されます。

民間人になれなかった大伴は、それを止めた平城天皇のもとで治部卿になりました。いまでいう省庁の事務次官ですね?

治部省(じぶしょう)

律令制の8つの役所のひとつ。

トップは治部卿(じぶきょう。事務次官)。

いまの外務省みたいなもの。そのほか、

戸籍管理

姓氏の訴訟

仏教の監督

雅楽の監督

天皇の墓の管理

があった。なんでも屋?

そして2年後には中務卿に転任しました。天皇のそばで行政全体を見る重要な役職です。

兄の平城天皇は最初から、大伴親王を中務卿にするつもりだったようです。この役職は皇族の中でも位の高い人しかなれないので。

それだけ、弟・大伴親王に期待していたのでしょう。

中務省(なかつかさしょう)

律令制の8つの役所のひとつ。

トップは中務卿(なかつかさきょう。事務次官)。

8省の中でもいちばん重要な省で、ほかに比べて位が高く親王が務めた。適任者がいないと空席にしていたという。

天皇の補佐や詔勅の宣下(天皇の名において命令)まで行い、朝廷全般の事務を担った。

また、後宮女官の人事権も持っていた。

(後宮女官は天皇の世話係の女性。天皇のお妃候補でもある。後宮は大奥みたいなもの。)

平安時代に出てくる関白に近い。

初期の平安時代は、天皇になるような皇族が省の事務次官をするのがふつう。

キャリアアップの王道。

奈良時代の皇親政治の名残り。

天皇と上皇、兄同士の争いで皇太子に

平城天皇は3年で退位して上皇になりました。そのまま平城京へ引っ越してしまいます。

次に即位したのは大伴親王のもうひとりの兄・嵯峨天皇です。嵯峨天皇が即位するとすぐに『平城太上天皇の変』が勃発し、上皇は出家して隠居しました。

嵯峨天皇のときの皇太子は上皇の息子・高岳親王(たかおか)でしたが、上皇の隠居で皇太子をクビになりました。

そして次に皇太子に指名されたのが大伴親王です。

大伴親王は上皇のもとで官僚として出世していましたが、このときは嵯峨天皇に仕えていたようです。でないと皇太子に指名されることはないので。

皇太子をクビになった高岳親王は、真言宗の開祖・空海の弟子になります。十大弟子のひとり、真如(しんにょ)で高僧になりました。

そのあと中国に渡り、仏教弾圧で廃れていた中国から天竺(てんじく。インド)をめざして、そのまま行方不明。

16年後、マレー半島で死んだという情報も出ました。一応、それが事実っぽいということで、マレーシアのジョホールバルの日本人墓地に真如の供養塔があります。

(あくまで伝説のひとつ。それくらい行方が分かっていない。)

ちなみに有名な歌人・在原業平(ありわら の なりひら)は、高岳親王の甥っ子。

大伴親王の皇太子就任は息子の影響?

大伴親王には平城嵯峨天皇の同母妹の妻がいました。高志内親王(こし)です。

(大伴親王は母ちがいの兄妹婚。)

二人の間には皇子も生まれました。恒世親王(つねよ)。

恒世親王は父と母どちらをたどっても桓武天皇の孫。平城天皇と嵯峨天皇の妻は皇族ではないので、血統がこんなにスゴイ皇子はほかにいませんでした。

大伴親王が民間人になりたいと言ったとき許されなかったのは、恒世親王の存在があったと言われます。

血筋がピカイチなので『将来は天皇に』という空気があったみたい。大伴親王の皇太子就任は、恒世親王につなぐための中継ぎの匂いがプンプンします。

大伴の民間人になりたい発言は、息子が権力闘争に巻き込まれるのを防ぐためだったと言われる。

平城天皇の皇后は藤原氏、嵯峨天皇の皇后は橘氏で、激しい権力闘争になるのが目に見えていた。

古代の律令政治が始まってからは妻のランクはきっちり決まっていて、皇族出身は絶対王者だったが、このときはその力がなくなっているのが分かる。

優先順位は気にはしているが。

安定した治世

823年、兄・嵯峨天皇は38才で退位し上皇になり大伴親王が即位しました。淳和天皇です。

嵯峨天皇は平安時代の基礎を作ったと言われるほど優秀な人で、上皇になっても強い影響力をもっていました。

淳和天皇も兄に似て、派手なことは好まず偉ぶることもない優秀な人でした。

地方政治の不正をただしたり、養老律令の解説書『令義解』(りょうぎかい)を作ります。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

また土地の開墾をすすめ税収を上げる政策もしました。淳和天皇の時代は文化も花開き政治も安定して良い世の中でした。

嵯峨上皇がいたのでその影響もあったでしょう。

検非違使庁(けびいしちょう。首都警護の官庁)を作ったのは淳和天皇。

検非違使は警護隊として存在していたが天皇直属で所轄官庁がなかった。

伝統の大伴氏、名前を変える

大伴親王が即位したことでとばっちりを受けた氏族がいます。大伴氏(おおとも)です。

大伴氏は、第21代 雄略天皇のころに大連になった何百年も天皇に仕えてきた有力豪族でした。

大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。

大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。

大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰が伝説の臣下なのであてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。

しかしこれは、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかどうかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

が、天皇の名前と同じなのでもう使えないと気を使います。伴氏(ともうじ / ばんし)に変えました。

嵯峨上皇の影響? 皇后と皇太子選び

即位した淳和天皇の皇后に高志内親王はなりませんでした。嵯峨上皇の皇女・正子内親王(まさこ)が新しい妻として嫁ぎます。

高志内親王は皇后のひとつランク下、皇妃というあつかいになってしまいました。悔しかったでしょうね? ずっと夫婦でやってきたのに。

それなら、皇太子はいよいよ恒世親王か? といえばそうもなりませんでした。恒世親王は皇太子の打診に即辞退。

辞退したその日に、嵯峨上皇の皇子・正良親王(まさら。のちの仁明天皇)が皇太子なります。

(出来レースじゃないか? 淳和天皇には、ほかにも皇子がたくさんいるのに。)

嵯峨上皇に遠慮した淳和天皇の配慮があったと言われます。もともと民間人になりたいほど皇位争いを嫌っている人なので。

新しく迎えた皇后・正子内親王と正良親王は同母の兄妹です。そして生まれた年も同じ。

双子説がある。

淳和天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

恒世親王のその後

皇太子を辞退したハイスペック血統の恒世親王は、官僚になり父と同じく治部卿・中務卿を歴任しました。

父の右腕としてがんばっていたのでしょう。しかし、淳和天皇が在任中に22才の若さで亡くなります。

その後、親王が治部卿 -> 中務卿をつとめる暗黙のルールができるが、平安時代は律令政治がくずれていき形だけのものになっていく。

(親王の実務経験を積むという名目だけになる。)

歴代天皇でただひとり散骨される

833年、淳和天皇は在位11年で退位し上皇になりました。退位した年齢が二人の兄より高いのは皇太子・正良親王の成長を待っていたから。

(淳和天皇44才で退位。正良親王24才で即位。)

そして兄・嵯峨上皇よりも先に亡くなります。

淳和天皇には優秀な兄・嵯峨上皇がついていました。世の中も安定しているしその安定を作ったのが嵯峨上皇なので、安心して仕事ができたでしょう。

淳和上皇は自分の死後のことも気にしていました。

『派手な葬式はしないでくれ。』

『遺体があるとたたって災いが起きる。骨をくだいて山中に撒くべし。』

臣下たちは、墓がないとどこに手を合わせていいか分からないと反対したそうですが、結局、淳和上皇の遺言どおり散骨しました。

歴代天皇で散骨された天皇は淳和天皇だけ。質素倹約で即位のときですら神事だけと徹底した淳和天皇らしい最後です。

嵯峨上皇のお返し? 次の皇太子

淳和天皇が退位したあと仁明天皇が即位しました。

そのとき嵯峨上皇が皇太子に指名したのが、淳和天皇と皇后・正子内親王の間に生まれた恒貞親王(つねさだ)。

(弟・淳和上皇よりも兄・嵯峨上皇が影響力をもっていたのが出ている。)

(恒世親王はすでに亡くなっていた。)

仁明天皇には皇子が生まれていましたがまだ7才。(道康親王(みちやす))

順当な選択に見えますが、自分に気を使って皇后を迎え皇太子選びにも気を使った心優しい弟に対する兄の優しさにも見えます。

結果を言うと、天皇になったのは道康親王(文徳天皇)です。

道康親王は母が藤原氏出身で、力をつけた藤原良房(ふじわら よしふさ)に恒貞親王は皇太子をクビにされました。

圧倒的な影響力をもっていた嵯峨上皇が亡くなってすぐに起きたことです。

おまけ。平氏を作る

825年(天長2)、父・桓武天皇の孫、淳和天皇の甥っ子・高棟王(たかむねおう)に『平朝臣』(たいら の あそん)の姓を与えて臣籍降下させます。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

これが平氏の始まり。桓武平氏と言います。平清盛(たいら の きよもり)も桓武平氏の流れ。

源氏は21もの流れがありますが平氏は4つしかありません。

桓武平氏
仁明平氏
文徳平氏
光孝平氏
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第54代 仁明天皇 『承和の変』で藤原一強がはじまる。
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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

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