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第17代 履中天皇。ヤバい事件をのり越えて即位。初めて地方に役人を置く。

履中天皇 肖像画

歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -

履中天皇(りちゅう)は一度、弟に殺されかけて都落ちした天皇です。

またショッキングな事件をのり越えて、天皇の理想像と言われる父・仁徳天皇から引きついだ仕事を見事にやりとげました。

また履中天皇は、日本ではじめて中央政府が地方に役人を置きました。

(このとき派遣されたのは書記官で連絡係程度だった。)

先史・古代 古墳時代

  • 皇居
  • 磐余稚桜宮
    (いわれのわかざくらのみや)

  • 生没年
  • ? ~ 405年3月15日
    ? ~ 履中天皇6年
    70?, 64? 才
  • 在位
  • 400年2月1日 ~ 405年3月15日
    履中天皇元年 ~ 履中天皇6年
    6年
  • 名前
  • 大兄去来穂別尊
    (おおえ の いざほわけ の みこと)
  • 磐之媛命
    (いわ の ひめ の みこと)

    葛城襲津彦の娘
    (かずらき の そつひこ)

  • 皇妃
  • 黒媛
    (くろひめ)

    羽田八代宿禰の娘
    (はた の やしろ の すくね)

  • その他

悪い弟・住吉仲皇子

大兄去来穂別尊(おおえ の いざほわけ の みこと。のちの履中天皇)は皇太子でした。

先代で父・仁徳天皇が亡くなると次に天皇になるはずですが、衝撃の事件ですんなりといきません。

レイプ。暗殺。ガチの極悪非道

そんな皇太子・大兄去来穂は、父・仁徳天皇が亡くなると羽田八代宿禰(はた の やしろ の すくね)の娘・黒媛を妃に迎えることにしました。

しかし、皇太子の弟・住吉仲皇子(すみのえ の なかつみこ)が、自分が皇太子だとウソをついて黒媛を犯します。

(サラッとすごいことになってる。)

これだけでもヒドイですが、それがバレるまえに皇太子を殺そうと宮殿に火をつけました。

(自分が皇太子になりきって天皇になろうとする。)

皇太子はギリギリのところで都を脱出して、かつて都だった磐余稚桜宮へ逃げます。

(大阪市内から奈良・桜井市まで)

皇太子が反撃して即位

奈良の旧都に逃げた皇太子は、弟・多遅比瑞歯別尊(たじひ の みつはわけ の みこと。のちの反正天皇)と協力して住吉仲皇子を殺します。

そして、旧都・磐余稚桜宮でそのまま即位しました。履中天皇です。

第17代 履中天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

黒媛は最大の被害者だが、無事、履中天皇の妃になる。そして、孫が第23代 顕宗天皇になり皇統がつづく。

国史を置いて地方統治を発展させる

履中天皇は5世紀前半に活躍したと考えられ、政治は木菟宿禰(つく の すくね)や蘇我満智宿禰(そが の まち の すくね)などにまかせました。

履中4年、はじめて地方に書記官を置いて、中央と地方のあいだを文書でやりとりするようになります。これを国史(ふみひと)といい、古代の地方官の国司へ発展していきます。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

武内宿禰の登場以来、天皇のそばには武内宿禰の子孫たちがいるようになり、政治を仕切って天皇の妃に娘を出すようになった。

武内宿禰 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

こんなことをしたのは蘇我氏が有名ですが、蘇我氏は先祖代々つづいてきたことをしただけなんですね?

在位は短いのに意外におじいちゃん

履中天皇は日本書紀で70才、古事記で64才で亡くなります。でも在位期間はたった6年。

おじいちゃんになってから天皇になりました。

この時代はとくにおかしくありません。天皇は長老みたいなもので若い人はなれませんでした。

ただ在位期間の短さはめずらしいです。病気で亡くなったのでしかたがないですが。

履中天皇は、有名な肖像画がありません。

『この人は本当にいたの?』と思われてきたのでしょう。

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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。

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