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第23代 顕宗天皇。下人にまで落ちた皇子。ほんとうに皇族だったの?

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歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -

顕宗天皇(けんぞう)は、父が雄略天皇に殺された皇子で都から逃亡していました。

天皇になる人がいなくなり呼び戻されて即位しますが、個人的には『本当に皇子だったの?』と疑っています。

だって、幼稚園の年長ぐらいで逃亡が始まり20代後半に帰ってきたんだもん。

先史・古代 古墳時代

  • 皇居
  • 近飛鳥八釣宮
    (ちかつあすかのやつりのみや)

  • 生没年
  • 450年? ~ 487年4月25日
    允恭天皇39 ~ 顕宗天皇3年
    34? 才
  • 在位
  • 485年1月1日 ~ 487年4月25日
    顕宗天皇元年 ~ 顕宗天皇3年
    3? 年
  • 名前
  • 弘計王
    (おけ の みこ)
  • 別名
  • 来目稚子尊
    (くめ の わくご の みこと)

    袁祁之石巣別尊
    (おけ の いわすわけ の みこと)

  • 葛城荑媛
    (かずらき の はえひめ)

    葛城蟻臣の娘
    (かずらき の ありのおみ)

逃亡生活をしながら下人に落ちた皇子

第21代 雄略天皇はライバルの皇子たちを皆殺ししました。

億計王(おけ の みこ。のちの仁賢天皇)と弘計王(をけ の みこ。のちの顕宗天皇)の父・磐坂市辺押磐皇子(いわさか の いちのべ の おしは の みこ) も狩りに誘われて射殺されます。

二人の皇子は命の危険を感じて都をはなれ、播磨国(はりま。兵庫)まで逃げてそこの豪族の家来になり、牛馬のお世話係をしていました。

(丹波国(たんば。兵庫)ともいわれる)

下人(げにん)  

主人に仕える身分の低い人。

第23代 顕宗天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

都に戻ってからグダグダ

古事記と日本書紀では少しちがうのでここでは同じ部分だけいきます。

古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)

第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。

それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。

国記と天皇記

第33代 推古天皇のとき、聖徳太子蘇我馬子(そが の うまこ)が編集長になって作ったと言われる。

国記
(こっき)
国家の歴史書
天皇記天皇の系譜

天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。

そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。

帝紀と旧辞

帝紀
(ていき)
天皇の系譜、功績をまとめたもの。
旧辞
(きゅうじ)
各氏族の系譜をまとめたもの。
氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。
日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。

帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。

当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。

帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。

古事記(こじき。ふことふみ)

帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。

712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。

20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。

(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)

日本書紀(にほんしょき)

完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。

中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。

天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。

古事記倭語を漢字にあてた。
『夜露死苦』(よろしく)みたいに。

国内向け。
国家統一に利用するためか?
日本書紀漢字で書かれた。
(中国人でも読める。)

国外向け。
世界に日本をアピールするために利用か?

どのタイミングで、飯豊女王が先代の清寧天皇のあとを引きついだかは分かれますが、二人の皇子は呼び戻されました。

清寧天皇が亡くなったあと、二人の皇子は皇位のゆずり合いをします。

兄・億計王(のちの仁賢天皇)
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弘計、お前が天皇になるべきだ。
弟・弘計王(のちの顕宗天皇)
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お兄ちゃんだし、皇太子だし、兄上が天皇になるべきだ。
兄・億計王(のちの仁賢天皇)
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いやいや、下人のとき勇気を出して身分を明かしたのはお前だ。お前の方が天皇にふさわしい。

これを永遠とくり返します。結局、飯豊女王の称制がつづいていました。

称制(しょうせい)

天皇がいない状態で代わりの人が政務をとること。

皇太子や皇后が代わりをつとめた。

神功皇后天智天皇など。

飯豊女王は、二人の皇子の姉もしくは叔母といわれます。

二人は本当に皇子?

この二人、都で信用されていたのでしょうか? なりすましを疑われていた可能性だってあります。

二人の皇子は逃亡生活をはじめたときまだ子ども。

(この時代のメチャクチャな天皇の寿命で計算すると、顕宗天皇は6才くらい。)

呼び戻されたときは20代後半になっているので、いくら姉(叔母)の飯豊女王でも分からないでしょう。

(写真も動画もない時代に。ましてや似顔絵を書く技術もない時代に。)

当時の豪族の実力者・平群鮪(へぐり の しび)があまりにナメた態度をするもんだから、二人で相談して攻め殺したという話もあります。

(古事記より。日本書紀では武烈天皇が鮪を殺す。)

(平群氏は葛城氏と同じ武内宿禰の子孫。)

武内宿禰(たけしうち の すくね)

第13代~16代の成務仲哀応神仁徳の4代の天皇に仕えた。

成務天皇と同じ日に生まれ、300才まで生きたという伝説の臣下。

最初の大臣になる。のちに大臣は政治の最高責任者になるが、それをつとめた豪族は宿禰の子孫だといわれる。

隆盛を誇った順に葛城氏(かずらき)、平群氏(へぐり)、蘇我氏(そが)。

大化の改新藤原氏が台頭するまでつづいた。

武内宿禰 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。

大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。

大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。

しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

二人の皇子はゆずり合いだったのか?

このゆずり合い、本当だったのだろうかと思います。

億計王は皇太子です。それが弟に絶対にゆずると折れないところが不自然です。皇太子になった時点で天皇になるのは分かっていたのに。

(結局、弟の次に即位して仁賢天皇になる。)

ゆずり合いというより、なすりつけ合いだったのではないでしょうか? いきなり現われた、うさんくさい自称・皇子に見られてたかもしれないから。

ちょっとしたことでも殺される時代なので、命がけのなすりつけ合いだったと想像します。

平群鮪が殺されたのも、鮪が二人の正体を怪しんで皇族として受け入れてなかったとも取れる。

自称?皇子暗殺計画の返り討ちだったのかもしれない。

なんだかんだで弟が即位

日本書紀では飯豊女王が亡くなると、いよいよだれかが天皇にならないといけなくなり、兄と臣下たちに説得されて弟が即位します。顕宗天皇です。

顕宗天皇は5世紀後半に活躍したといわれます。長いあいだ下人として生活していたので、民のことをよく知っていました。

顕宗天皇の政治は弱い人を助けるものでした。夫を失った未亡人を引き受けたともいいます。

民に慕われた天皇で世の中も平和でした。

顕宗天皇の時代は3年と短く子どもがいないまま亡くなり、そのあと兄が天皇(仁賢天皇)になり引きついでいきます。

(古事記では34才。日本書紀では不明。)

どうしても許せないヤツがいた

心やさしい顕宗天皇でも絶対に許せない人がいました。父を殺した雄略天皇です。

顕宗2年、雄略天皇の墓をメチャクチャに破壊しろと兄・億計王に命令します。

億計王
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墓を壊してきました。

じっさいは、墓のはしっこをちょっと削っただけで帰ってきます。それが顕宗天皇にバレてしまいました。

顕宗天皇
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どうして命令どおりにしないんだ!父のカタキだぞ!
億計王
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器の小さい天皇だと思われます。民に信用されません。これだけで済ましたほうが良いでしょう。

小さな復讐で済ました心の広い天皇ということで落ち着きました。

婿入り天皇ではないか?

顕宗天皇は、あれだけ憎んでいた雄略天皇のひ孫だといわれる難波小野王(なにわ の おの の みこ)を皇后にむかえます。

雄略系の皇后がいないと自分の正統性がなかったのでしょう。マスオさん天皇じゃないとダメだったのではないか?

ボクはこれを第1マスオさん期と呼んでいます。

顕宗天皇はやるせなかったでしょう。墓を壊して遺骨を投げすてたいほど恨んでいる雄略天皇の血統に頼らないといけなかったので。

第23代 顕宗天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

次に即位した兄・仁賢天皇の息子・武烈天皇で、また皇統は断絶しかかる。このとき、福井から連れてきて即位した3人の天皇は、仁賢天皇の娘を皇后にむかえた。

3人とも。(第26代 継体。第27代 安閑。第28代 宣化

顕宗天皇から50年以上、6人の天皇のうち武烈天皇以外すべて、嫁の血統に頼らないといけないマスオさん天皇。

古代史の終わり

古事記は第40代 天武天皇が命令して作りはじめ、第43代 元明天皇のときに完成しました。(和銅5年。712年。200年くらい後。)

神々の神話から初代 神武天皇 ~ 第33代 推古天皇まで書かれています。

でも古事記では顕宗天皇で具体的な内容は終わり、第24代 仁賢天皇から推古天皇までの9人の天皇についてはサラッと流しています。

ダイジェストですね?

古代の人にとって顕宗天皇までが古代史で、それからは現代史に入ったと言われます。

(『古代の人にとっての古代史・現代史』がややこしい。)

現代史はだれもが知っているので書き残す必要がなかったのでしょう。

次の仁賢天皇から当時の現代がはじまりました。顕宗天皇は時代のひとつの区切りとして貴重な天皇です。

後半はバテてしまってグダグダになったのかも。夏休みの宿題の最後のほうみたいに。

(ボクは夏休みの宿題を最後の3日間で一気にやる、計画性のない子でした。)

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第24代 仁賢天皇。即位する前からナゾの人。弟の嫁から陰湿なイジメにあう。
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天皇・皇室の本

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