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第32代 崇峻天皇。蘇我氏と対立して暗殺される。蘇我系天皇なのに反蘇我だった?

崇峻天皇の陵墓

歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -

崇峻天皇(すしゅん)は、歴代天皇の中で二人しかいない暗殺された天皇のひとりで、歴史の事実として暗殺されたのは崇峻天皇だけです。

また、臣下に殺された唯一の天皇です。

蘇我馬子(そが の うまこ)の甥っ子になるんですが、その叔父さんに殺されました。

先史・古代 古墳時代

  • 皇居
  • 倉梯柴垣宮
    (くらはしのしばがきのみや)

  • 生没年
  • 553年 ~ 592年11月3日
    欽明天皇14 ~ 崇峻天皇5
    40才
  • 在位
  • 587年8月2日 ~ 592年11月3日
    用明天皇2 ~ 崇峻天皇5
    6年
  • 名前
  • 泊瀬部皇子
    (はつせべ の すめらみこと)
  • 別名
  • 長谷部若雀尊
    (はつせべ の わかさざき)

    倉橋天皇
    (くらはし の すめらぎのみこと)

  • 蘇我小姉君
    (そが の おあね の きみ)

    蘇我稲目の娘

  • 皇妃
  • 大伴小手子
    (おおとも の こてこ)

    大伴糠手子の娘
    (おおとも の ぬかでこ)

  • その他

すんなり即位とはいかなかった

先代の兄・用明天皇が亡くなったあと、物部守屋(もののべ の もりや)は蘇我系皇族の問題児・穴穂部皇子(あなほべ の みこ)を天皇にしようとします。

しかし、これに怒った蘇我馬子は穴穂部皇子を殺し物部守屋も滅ぼそうとします。そしてついに蘇我氏 vs 物部氏の最終決戦がはじまりました。

蘇我軍には、泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)や厩戸皇子(うまやど の みこ。聖徳太子)が参加します。

物部軍はとても強く蘇我軍を3度も退却させました。しかし、一矢が守屋をつらぬき射殺されていっきに崩れます。

この戦で物部氏は滅びました。ここから蘇我氏の独壇場です。そして、この戦のあとに崇峻天皇は即位しました。

丁未の乱(ていびのらん)

物部守屋(もののべ の もりや) vs 蘇我馬子(そが の うまこ)の、古代豪族の最終決戦。

物部軍は強く3度も蘇我軍を退却させるが、一矢が守屋を射抜くと一気に守屋軍は崩れる。

物部氏が滅んだことで蘇我氏の1強が始まる。

崇峻天皇厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我軍に参加。

蘇我系天皇なのに反蘇我?

崇峻天皇は蘇我系天皇です。そして、蘇我氏が権力闘争に勝って単独で力をもった最初の天皇です。

でも崇峻天皇は蘇我馬子とは距離を取っていたように見えます。

后を蘇我氏から迎えていません。迎えたのは100年も前に没落した大伴氏(おおとも)から。

一応、蘇我氏からも妻を迎えたようですが身分が(ひん)で、嬪は妻の身分の中では下の方です。蘇我氏としては納得できないでしょう。

嬪の生んだ皇子は、皇位継承順位がかなり下になるので、天皇になる可能性は絶望的。

蘇我馬子に暗殺される

崇峻天皇は、朝鮮半島の外交で任那の復興を目指していたようですが結果は出ませんでした。

任那(みまな) 

もともと朝鮮半島中南部に小国家群(馬韓)があり、3~6世紀中ごろは加羅(から)、もしくは伽耶(かや)と呼ばれた。

その一部にあった倭人の支配エリアを任那という。

任那は日本からみた呼び名で、加羅全体を指しているのか、倭人エリアだけを指しているのかよく分からない。

前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。

ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、任那の支配権をめぐって新羅や高句麗と対立したのが原因。

百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。

そして馬子と対立していきます。馬子は腹心の東漢直駒(やまと の あや の あたいこま)に崇峻天皇を殺させました。

歴代天皇で暗殺された天皇は崇峻天皇と第20代 安康天皇の二人だけで、部下に殺された天皇は崇峻天皇だけ。

安康天皇殺害は年代が古すぎて事実かどうか分からない。

それに安康天皇のときは、かんちがいで殺してしまった皇子の息子に恨まれて殺された。事故みたいなもの。

天皇を殺すほどの対立って何?

蘇我氏が崇峻天皇を殺した動機ははっきりとわかっていません。ひとつの説として言われるのが外交路線の対立です。

天皇を中心としたヤマトはずっと朝鮮の百済(くだら)を支援してきました。ヤマトが朝鮮で戦争するときは百済が他国に攻められたときだけと言ってもいいほど。

(本当の目的は任那の防衛だが任那はずっと百済と連合を組んでた。)

ですが、権力を掌握した蘇我氏は百済・任那連合を攻める側の新羅(しらぎ)に付こうとしていたという話があります。

崇峻天皇の時代は朝鮮の三国時代が終わる目前で、りごろで約70年後には新羅が朝鮮を統一します。

負け戦になるのをわかっていて参戦するほど馬鹿なことはないと蘇我氏が考えても不思議はありません。

むしろ蘇我氏は朝鮮情勢には先見の明がありました。

じっさい70年後に白村江の戦いに敗れたヤマトは朝鮮半島で戦争しなくなる。

代わりに統一した新羅と交流をはじめた。

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)

663年(天智2)8月27日の新羅・唐連合軍と百済残党・倭連合軍の最終決戦。

倭(日本)は大惨敗して、唐・新羅に占領されるほどの危機感をもった。

天智天皇が律令国家建設を急ピッチで進めたのもビビっていたため。

天智天皇は内陸部に都を移した。(近江の大津宮)

大津宮は当時から不評で

なんであんなド田舎の山奥に?

という意見が多かった。相当ビビってた?

崇峻天皇は蘇我馬子のなにが嫌いだったのか?

崇峻天皇は蘇我馬子のなにが嫌いだったのでしょうか?

馬子は天皇の叔父さんです。なのに自分の妃に蘇我の血を入れたくないほど嫌い、対立して殺されました。

蘇我氏の横暴は蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)が有名ですが、ぼくはこの時点ではじまっていたとみています。しかも天皇がガマンできないほど。

じっさい馬子は、穴穂部皇子と崇峻天皇の2人の皇族を自分の都合で殺しました。

ひとりは王位継承権をもった天皇の弟。もうひとりは現役の天皇です。ほかにもガマンならないことをやっていたのでしょう。

物部氏がいなくなったので蘇我氏は有頂天になりました。まぁ分かりやすいといえば分かりやすいですが。

トラブルメーカー・穴穂部皇子と崇峻天皇は両親が同じ実の兄弟。

丁未の乱は弟が兄を殺したことになる。)

もしかすると、蘇我系皇族の中でも権力闘争があったのかもしれない。

(馬子は妹・小姉皇女(二人の母)が嫌いだった?)

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第33代 推古天皇。天皇暗殺の黒幕の姪っ子が史上初の女帝になる
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天皇・皇室の本

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