第33代 推古天皇 天皇暗殺の黒幕の姪っ子が史上初の女帝になる

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歴代天皇 - 女帝中心の時代 -

推古天皇(すいこ)は、天皇暗殺という大事件の混乱の中即位した女帝です。聖徳太子を摂政にしたことでも有名ですね?

聖徳太子の陰で何もしていないように見えますが、気に入られなければ殺されるような世の中で37年も君臨した女傑です。というか聖徳太子はいらないくらいの極太の人です。

古代 飛鳥時代

  • 皇居
  • 豊浦宮
    (とゆらのみや)

    小墾田宮
    (おはりだのみや)

  • 生没年
  • 554年 ~ 628年3月7日
    欽明天皇5 ~ 推古天皇36
    75才
  • 在位
  • 592年12月8日 ~ 628年3月7日
    崇峻天皇5 ~ 推古天皇36
    37年
  • 名前
  • 額田部皇女
    (ぬかたべの ひめみこ)
  • 別名
  • 豊御食炊屋姫尊
    (とよみかけしきやひめ の みこと)

  • 蘇我堅塩媛
    (そが の きたしひめ)

    蘇我稲目の娘
    (そが の いなめ)

史上初の女帝はパニックの中誕生した?

推古天皇はもともと第30代 敏達天皇の皇后です。敏達天皇は推古天皇の母親違いの兄でもあります。このころは片親が違ったら当たり前のように結婚する時代でした。

推古天皇は18才で皇后になり34才で夫を亡くします。夫の次は兄、弟と皇位が受け継がれて39才で天皇に即位しました。

30-33 emperor image
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

推古天皇の即位はハッピーではありませんでした。先代・崇峻天皇の死因は暗殺です。そして暗殺の黒幕は推古天皇の伯父・蘇我馬子(そが の うまこ)です。

さらに、推古天皇を即位させたのは暗殺の黒幕・馬子です。このように推古天皇の即位にはそれまでの複雑な人間関係、政治状況がありました。

  • 朝鮮半島とのつきあい方
  • 神道と仏教
  • 氏族の対立
  • 蘇我氏の思惑

代表的なものはこの4つです。

これまでをプレイバック

推古天皇の即位はこれまでの流れが大事です。なにせ史上初の女帝なのでいろいろなことが起きての即位です。

なので、即位するまでの状況をプレイバックします。

朝鮮半島の外交

古代の朝鮮半島は、高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)・(任那)の三国時代です。

韓国・北朝鮮の歴史では任那の存在をかたくなに認めていません。(歴史的に存在した事実はあります。)

だから当時は朝鮮の『三国時代』と言われます。

任那(みまな)

古代の朝鮮半島南東部にあった倭人の支配エリア。伽耶(かや)ともいわれる。

前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。

ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、この任那の支配権をめぐって新羅・高句麗と対立したのが原因。

百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。

地図はこんな感じです。これがなぜ日本に影響を与えるのか分かりずらいですね? かんたんに説明します。

日本にとって朝鮮半島の外交は

玉突き事故の対応

です。いきなり???ですね。

まず、古代の東アジアの最強・最先端国家は中国です。中国ありきの東アジアといってもいいくらいです。

もちろん中国は、まわりの国は自分の子分だと思っています。なんでもかんでもエラそうに上から目線で言ってきます。

朝鮮にとっていいことだったら受け入れられますが、そうじゃないときもあります。

とくに高句麗は中国のとなりなので反発は大きいです。こうして高句麗はことあるごとに中国と敵対します。戦争だってします。

でも圧倒的に力の差があるので高句麗は負けが続きます。そうすると、負けをカバーするために勝てるような相手に戦争をしかけます。

その相手が新羅・百済です。

新羅と百済も仲が良くありません。上の地図では漢城(ソウル)は高句麗になっていますが、新羅と百済もソウルが欲しくてたまりません。

(朝鮮ではこの地域が豊かな土地なのでしょう。だからいまは韓国の首都になっています。)

こうして、高句麗・新羅・百済は三つ巴で争っていました。

そして最後に任那です。任那は倭人の支配エリアで昔はヤマトの飛び地(領土)だと言われていました。いまは、ヤマトに近い倭人たちの小規模国家の集合体だったと言われます。

この任那は、新羅からしょっちゅう攻められていました。百済とは仲が良くて連合を組んでいます。

古代の朝鮮半島の外交は『任那になにかあったらヤマトが助けに行く』です。

中国が高句麗を攻める
  ↓
高句麗が新羅を攻める
  ↓
新羅が百済・任那を攻める
  ↓
ヤマトが百済・任那を助けるために兵を送る

これが玉突き事故の正体です。この事故が古代の東アジアではけっこうな頻度で起きていました。そのたびにヤマトは『朝鮮半島(任那)をどうするか?』悩まされます。

古代の朝鮮半島はもっと複雑です。その犯人は中国です。

古代の中国は朝鮮半島を抑え込むために

あるときは高句麗を支援して新羅・百済を攻める

あるときは新羅を支援して高句麗・百済を攻める

あるときは百済を支援して高句麗・新羅を攻める

を繰り返して、わざと朝鮮半島を混乱させていました。

朝鮮半島が内部で混乱していれば、中国は攻められないし必ず中国の言いなりになる国が朝鮮半島にできるので、いいことしかないからです。

この、『朝鮮半島が混乱していることが中国の国益』は、いまの東アジアの情勢も同じです。

仏教伝来

玉突き事故は面倒なことだけではありませんでした。玉突きついでに仏教が日本に入ってきます。

仏教伝来のルートは、

戦争を繰り返すことで鍛えられた新羅が強くなる
  ↓
任那が滅ぼされる
  ↓
百済がびびってヤマトに助けを求める
  ↓
ただで助けを求めるのは申し訳ないので、仏像・仏具・経論を献上する。
  ↓
仏教伝来

これは、推古天皇の父親の欽明天皇の時代の話です。そして玉突き事故がとうとうヤマトの内部抗争にまで発展します。

仏教受け入れ派の蘇我氏 vs 仏教拒否派の物部氏

の抗争です。

物部氏と蘇我氏ついでに大伴氏

ヤマトは大王(のちの天皇)を中心にした中央集権国家でしたが、豪族の助けなしでは運営できませんでした。

ヤマトの抗争は、『皇族同士の皇位継承争い』と『だれが影響力のある豪族になるか』の2つしかないといってもいいくらいです。

推古天皇の父親・欽明天皇の時代までは3つの豪族が争っていました。

大連大伴金村
(おおとも の かねむら)
100年以上まえから大王の近くにいる名門中の名門。
軍事専門。
大連物部尾輿
(もののべ の おこし)
大伴氏と並ぶ豪族。
もともとは武器を製造する専門集団だったことから軍事を担当する。
大臣蘇我稲目
(そが の いなめ)
家柄は名門だが大伴・物部に比べると新興勢力。
稲目から重要なポジションについた。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は、300年5代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけうちのすくね)の子孫たちで占められる。

大連は、ヤマト王権では軍事・警察を担当した。

よく、大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰が伝説の臣下なのであてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないとの説で説明される。

しかしこれは、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかどうかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

2代巨頭(大伴・物部)+ 新鋭(蘇我)

です。これが、欽明天皇のとき大伴氏が失脚して、

旧勢力(物部)vs 新勢力(蘇我)

に変わります。そして、推古天皇が即位する5年前に物部氏と蘇我氏が戦争して物部氏が滅んで、

新勢力が勝ち残り蘇我氏1強

になりました。

推古天皇は母親が蘇我馬子の妹なので『蘇我の息のかかった』天皇です。

物部氏は蘇我氏の何が許せなかったのか?

氏族の対立には仏教と神道がからんでいました。

旧勢力の物部氏は、ヤマトの土着宗教(神道)を守る立場でもあったので、新しい宗教の仏教を受け入れられません。新勢力の蘇我氏は積極的に仏教を取り入れていました。

当時の仏教は最新技術です。いまでいうとAIを使って急成長しようとするIT企業みたいな感じです。

蘇我氏の影響力が大きくなるにつれて天皇にまで仏教が浸透していったので、物部氏は許せませんでした。天皇は神道の祭主だからです。

『神道の祭主が仏教なんて!』と思うのも当然でしょう。天皇が『キリストの洗礼を受ける』ようなものです。

でも、天皇も徐々に仏教を信奉していきます。推古天皇の先々代・兄の用明天皇は『仏教徒になりたい』とまで言っていました。

これが原因で物部氏が滅んだ最終決戦にまで発展します。

丁未の乱(ていびのらん)

物部守屋(もののべ の もりや) vs 蘇我馬子(そが の うまこ)の、古代豪族の最終決戦。

物部軍は強く3度も蘇我軍を退却させるが、一矢が守屋を射抜くと一気に守屋軍は崩れる。

物部氏が滅んだことで蘇我氏の1強が始まる。

崇峻天皇や厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我軍に参加。

あとは、新勢力なのに天皇や皇子の妃に蘇我氏の娘がどんどん嫁いでいったので、物部氏の力が小さくなっているのがつらかったのでしょう。

このように、推古天皇の即位前はショッキングな事件の連続です。

推古天皇即位まえの事件簿

事件簿1 レイプ未遂事件

推古天皇は即位前にこの抗争に巻き込まれます。推古天皇の旦那さんの第30代 敏達天皇が亡くなった後、敏達天皇の弟・第31代 用明天皇が即位しました。

このとき、これに不満をもったもうひとりの敏達天皇の弟がいました。穴穂部皇子です。

穴穂部皇子は、敏達天皇の皇后(のちの推古天皇)をレイプして皇位を奪おうとします。

レイプしてむりやり妻にしたら天皇になれるという発想が信じられませんが、当時の権力争いではあたりまえのことでした。

(あたりまえでもそんなに多く起きていたわけではない)

これを敏達天皇の側近だった三輪君逆(みわ の きみ さかう)が防ぎます。そして、それに怒った穴穂部皇子は、大連の物部守屋に三輪君逆を殺させます。

事件簿2 物部氏滅亡

用明天皇が亡くなったとき、物部守屋は穴穂部皇子を天皇にしようとします。これに怒った大臣の蘇我馬子は兵を送って穴穂部皇子を殺しました。

このとき、馬子が皇子殺害の許可を取りに行ったのが炊屋姫(のちの推古天皇)です。

(もちろんレイプされそうになっているので止めるわけがありません。)

そしてそのあと物部守屋の討伐に動きます。(丁未の乱)

物部軍は軍事・警察を担当していたのでとても強く、蘇我軍を3度も追い返しましたが、守屋が矢で射抜かれたので一気に後退しましました。

これで物部氏は滅亡して、物部 vs 蘇我の対立が終わります。

事件簿3 天皇暗殺事件

用明天皇の後を継いだのは穴穂部皇子の実の弟の第32代 崇峻天皇です。

崇峻天皇は蘇我馬子の甥っ子ですが、蘇我氏とは距離を取ろうとしていました。

あたりまえですが馬子とは対立していきます。蘇我馬子は腹心の東漢直駒(やまと の あや の あたいこま)に崇峻天皇を殺させました。

-> くわしくは崇峻天皇のところに書きました。

なぜ聖徳太子は摂政になったのか?

このように推古天皇は、蘇我馬子に嫌われると殺されるという状況の中で即位します。

馬子の思い通りに動かされる人でそれ相応の年齢の皇族を探してもいなかったのでしょう。

そもそも嫌われたら殺されるので辞退する人が続出した可能性もあります。そこで3代前の敏達天皇の皇后・馬子の姪っ子で、このときすでに皇太后になっていた推古天皇が天皇になることになりました。

もちろん推古朝は馬子の傀儡(かいらい)です。

敏達天皇と皇后との間に生まれた第1皇子・押坂彦人大兄皇子がいますが、天皇になっていません。

皇后の生んだ皇子でしかも長男なので、もちろん天皇になれる候補ナンバー1です。

それなのにこの皇子は、敏達天皇が亡くなったときも天皇にならなかった謎の人物です。

立場的には、少数派になっていた非蘇我系の皇族で、このときも殺されるくらいなら陰にかくれておこうと思ったのかもしれません。

非蘇我系なので馬子に干された可能性もあります。

30-33 emperor image
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

馬子もさすがに、皇太后で姪っ子に天皇に即位させたのはむりがあると思ったのでしょう。用明天皇の皇子の厩戸皇子(うまやど の みこ。聖徳太子)を皇太子にして摂政として政治に参加させます。

推古天皇だけだと蘇我氏の勝手でやっているのがもろバレなので、聖徳太子の摂政はカモフラージュです。

このとき太子は20才なので、馬子は裏から思い通りに動かせると思っていたはずです。

傀儡で終わらなかった推古・聖徳太子

推古朝では蘇我馬子はやりたい放題でしたが計算違いがありました。聖徳太子と推古天皇の政治家としての能力の高さです。

聖徳太子は、歴史に教科書に書いてあるようにたくさんの功績があります。

  • 冠位十二階の制定
  • 十七条憲法

この2つの内容はとても重要です。冠位十二階は臣下の官位をはっきりと決めることです。身分に関係なく能力がある人は上に行ける道が開けました。

十七条憲法は日本ではじめて制定された成文法です。成文法は法律をきちんと文書に書き留めることです。

これは馬子にとっていいことではありません。臣下の官位をルールで決めるということは、『蘇我だからずっといい身分でいられる』とはならないからです。

十七条憲法も同じです。成文法は全員に守らせるものなので、馬子も守らなければいけないので好き勝手にできません。

聖徳太子の政治理念は『天皇が法律で治める国家』です。そこに蘇我氏の特別扱いはありません。

推古朝は太子と馬子の協力体制と言われますが、その一方で後半は太子と馬子は対立していたと言われます。

推古天皇も傀儡で終わりませんでした。葛城県(かずらきあがた)を蘇我氏に譲ってくれという馬子の要望に、

推古天皇
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いままで伯父さんの言うとおりに何でもしてきました。
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でもいま県を失えば、後世の帝が『愚かな女が天下を治めたから県が滅んだ』というでしょう。
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そうなれば、じぶんだけでなく大臣(馬子のこと)も不忠とされ、後世に悪名を残すでしょう。

ときっぱり断っています。葛城地方はもともと蘇我氏が本拠地としていた土地です。

それを返してくれと言っているので、そこまで勝手を言っているようには見えませんが、それでも推古天皇ははっきりと拒否しています。

推古天皇も『天皇が法律で治める国家』を目指していたことがわかります。

推古天皇も聖徳太子も、いつでも殺される状態で意思を貫いたことは重要です。

しかも馬子は、過去に2人の皇族・天皇を殺しています。もちろん推古天皇も太子もそれを見ています。

推古天皇・聖徳太子の極太スピリッツは想像以上です。

聖徳太子の妃は馬子の娘です。母親は馬子の姪っ子です。聖徳太子はだれよりも蘇我色が強い皇族でした。それからみてもビックリです。

なにより馬子がビックリしたでしょう。お婿さんに『違う!』と言われたのだから。

なぜ聖徳太子は天皇にならなかったのか?

聖徳太子は推古天皇より8年も早く50才で亡くなります。結局、皇太子のまま30年も過ごしてしまいました。

どうして太子は天皇にならなかったのでしょうか? あれだけの功績を残しているのでいつでも天皇になれたはずです。

ぼくは、太子が天皇になると蘇我馬子の暴走を止められなかったので、推古・太子体制を続けたと見ています。

馬子から見ても、あれだけの能力のある人なので、天皇になってより大きな力をもたれると自分の思い通りにできないと思ったのではないでしょうか。

三つ巴がちょうどいいバランスだったのかもしれません。

天皇は国家(日本)の独立の象徴

推古天皇は日本の歴史で最大の重要なことをしました。それは

国家としての独立宣言

です。

607年、小野妹子(おの の いもこ)を派遣した第2回 遣隋使で、隋の皇帝・煬帝にあてた有名な親書があります。

日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや。

(日が昇るところの天子が、日が沈むところの天子に親書をお渡しします。ごきげんいかが?)

当時の中国は日本のことを独立国家として認めていません。日本は中国皇帝が任命した王が治めている国で属国だと思っています。

それを、日出処の天子(日本の王より上の最高位の皇帝)と表現して、日本は王が治める国ではなく、中国皇帝と同格の天子が治める国と言っています。

これは国家の独立宣言です。

そして最後の『つつがなきや』はタメ口です。『よぉ!元気?』くらいの感じです。完全に地元のツレ扱いです。

これには煬帝は怒りまくりました。『兵を送って潰してやる』とまで言います。

608年、第3回 遣隋使でまた小野妹子を派遣します。今度は

東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。

と親書に書きます。ここではじめて『天皇』を使います。日本の君主のことに天皇を初めて使いました。それが推古天皇です。

この言葉は絶妙です。同じ天子で怒られたので今度は『天皇と皇帝』と中国に気を使っています。丁寧な言葉にも出ています。『日の沈む天子』という見ようによってはディスってるかのような表現もしていません。ただし、天皇と皇帝は同格とも言っています。

要は、『あなたが天皇を認めるかどうかは分かりませんが、私は天皇と皇帝は同格だと見ています』ということです。

この内容を見た煬帝は、『もういい! 勝手にすれば』と言います。もちろん日本は『分かりました。勝手にします』です。

属国からの脱出、独立の成功です。

  • 天皇を初めて使ったのは推古天皇
  • 『天皇』は日本独立の象徴

この中国とのやりとりはとても凄いことです。

最初のタメ口は中国皇帝が怒ることを分かってやっています。でも攻められないことは分かっていました。

当時の隋は高句麗と戦争中で日本と戦う余裕がなかったからです。それが分かってやっています。

(日本が敵にまわって高句麗に援軍を送るかもしれないというプレッシャーをかけています。)

そして、『同じ天子で怒られるなら次は天皇と皇帝』と絶妙な微妙な論理で皇帝と同格の天皇を名乗ることを認めさせます。

これを『外交の勝利』と言います。

小野妹子は、煬帝にキレられたときの返書を帰る途中で無くしたとされます。

でもこれは、内容があまりにも日本にとって不都合すぎて、親書を持ち帰るとダメな方向にいってしまうから無くしたことにしたという話があります。

本当のところは分かりませんが、そうだとしたらファインプレーです。

623年、新羅が任那を討伐すると天皇は新羅に兵を送りました。そして新羅は降伏したそうです。

任那は、592年、欽明朝のときに滅亡しています。でもそのあとにも任那についての話はよく出てきます。

ヤマトは、任那が事実上滅亡してもあきらめていなかったのかもしれません。

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天皇・皇室の本
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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。


天皇の本10選

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