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第33代 推古天皇。天皇暗殺の黒幕の姪っ子が史上初の女帝になる

推古天皇 肖像画

歴代天皇 - 女帝中心の時代 -

推古天皇(すいこ)は、天皇暗殺という大事件の混乱のなか即位した女帝です。聖徳太子摂政にしたことでも有名ですね?

聖徳太子の陰で何もしていないように見えますが、ちょっとしたことで殺される世の中で、37年も君臨した女傑です。というか聖徳太子はいらないくらいの極太の人です。

古代 飛鳥時代

  • 皇居
  • 豊浦宮
    (とゆらのみや)

    小墾田宮
    (おはりだのみや)

  • 生没年
  • 554年 ~ 628年3月7日
    欽明天皇5 ~ 推古天皇36
    75才
  • 在位
  • 592年12月8日 ~ 628年3月7日
    崇峻天皇5 ~ 推古天皇36
    37年
  • 名前
  • 額田部皇女
    (ぬかたべの ひめみこ)
  • 別名
  • 豊御食炊屋姫尊
    (とよみかけしきやひめ の みこと)

  • 蘇我堅塩媛
    (そが の きたしひめ)

    蘇我稲目の娘
    (そが の いなめ)

史上初の女帝はパニックの中誕生した?

推古天皇は、もともと第30代 敏達天皇の皇后です。敏達天皇は推古天皇の母ちがいの兄で、このころは母がちがったらあたりまえのように結婚する時代でした。

推古天皇は18才で皇后になり34才で夫を亡くします。夫の次は兄、弟と皇位を受けついで、そのあと39才で即位しました。

30-33 emperor image
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

推古天皇の即位はハッピーではありませんでした。先代・崇峻天皇は暗殺されています。そして暗殺の黒幕は推古天皇の叔父・蘇我馬子(そが の うまこ)。

推古天皇を即位させたのは黒幕・馬子です。このように、推古天皇の即位にはそれまでの複雑な人間関係、政治状況がありました。

  • 朝鮮半島とのつきあい方
  • 神道と仏教
  • 氏族の対立
  • 蘇我氏の思惑

代表的なものはこの4つです。

これまでをプレイバック

推古天皇の即位はこれまでの流れをみないと分かりません。なにせ史上初の女帝なので、いろいろなことが起きての即位です。

プレイバックします。

朝鮮半島の外交

古代の朝鮮半島は、高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)・(任那)の三国時代です。

韓国・北朝鮮の歴史では、任那の存在をかたくなに認めていない。(歴史的に存在した事実はある。)

だから当時は朝鮮の『三国時代』と言われる。

任那(みまな) 

もともと朝鮮半島中南部に小国家群(馬韓)があり、3~6世紀中ごろは加羅(から)、もしくは伽耶(かや)と呼ばれた。

その一部にあった倭人の支配エリアを任那という。

任那は日本からみた呼び名で、加羅全体を指しているのか、倭人エリアだけを指しているのかよく分からない。

前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。

ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、任那の支配権をめぐって新羅や高句麗と対立したのが原因。

百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。

6世紀の朝鮮半島
6世紀の朝鮮半島(勢力範囲はだいたいです。)

地図はこんな感じです。これがなぜ、日本に影響を与えるのか分かりにくいですね?

かんたんに説明します。日本にとって朝鮮半島の外交は、

玉突き事故の対応。

いきなり、??? ですか?

大丈夫です。ちゃんと着地します。

玉突きのスタートは中国

古代の東アジアの最強・最先端国家は中国です。中国ありきの東アジアといってもいいくらい。

もちろん中国は、まわりの国は自分の子分だと思っています。なんでもかんでもエラそうに上から目線で言ってきます。

朝鮮は良いことだったら受け入れられますが、そうじゃないこともあります。

玉突きセカンド。中国に押されるのは高句麗

とくに高句麗は中国のとなりで反発は大きく、ことあるごとに中国と敵対しました。戦争だってします。

でも、圧倒的に力の差があるので高句麗は負けることが多く、それをカバーするために勝てるような相手に戦争をしかけます。

その相手が新羅・百済です。

玉突きサード。高句麗に押されるのは新羅・百済

高句麗に攻められる者同士の新羅と百済は、団結するかと思いきや犬猿の仲でした。上の地図では漢城(ソウル)は高句麗になっていますが、新羅と百済もソウルが欲しくてたまりません。

こうして、高句麗・新羅・百済は三つ巴で争っていました。

朝鮮ではこの地域が豊かな土地なのでしょう。だからいま、韓国の首都になっています。

百済は狙われやすかった

百済はいちばんいい土地をもっていました。海はおだやかで気候は温暖、そして農業しやすい。

高句麗は、いまの北朝鮮のイメージのままです。もともと農業に適さなくて冬は極寒で。だから南下して百済・新羅、とくに土地がいい百済を攻めました。

ソウルはその最前線なので、高句麗と百済の領土の取り合いの連続です。

新羅は、平昌(ピョンチャン)オリンピックのイメージのまま。山に囲まれた極寒地域で風も強く農業には適さないです。海も日本海に面しているので荒いです。

もちろん、いい土地をもっている百済を攻めます。

玉突きラスト。任那・ヤマト

そして最後に任那です。任那は、倭人の支配エリアで昔はヤマトの飛び地・領土だと言われていました。

いまは、ヤマトに近い倭人たちの小規模国家の集合体だったと言われます。

任那は新羅からしょっちゅう攻められていました。百済とは仲が良くて連合を組んでいます。

(任那も温暖ないい地域。)

古代の朝鮮半島の外交は『任那に何かあったらヤマトが助けに行く』です。

中国が高句麗を攻める
  ↓
高句麗が新羅を攻める
  ↓
新羅が百済・任那を攻める
  ↓
ヤマトが百済・任那を助けるために兵を送る

これが玉突き事故の正体です。この事故が、古代の東アジアではけっこうな頻度で起きていました。そのたびにヤマトは『朝鮮半島(任那)をどうするか?』で悩まされます。

古代の朝鮮半島はもっと複雑。その犯人は中国。

古代の中国は朝鮮半島を抑え込むために、

あるときは高句麗を支援して新羅・百済を攻める

あるときは新羅を支援して高句麗・百済を攻める

あるときは百済を支援して高句麗・新羅を攻める

をくり返して、わざと朝鮮半島を混乱させていた。

朝鮮半島が内部で混乱していれば中国は攻められないし、朝鮮半島に必ず中国の言いなりになる国ができるので、いいことしかないから。

この、『朝鮮半島が混乱していることが中国の国益』は、いまの東アジアの情勢も同じ。

仏教伝来

玉突き事故はめんどうなことだけではありませんでした。玉突きついでに仏教が日本に入ってきます。

仏教伝来のルートは、

戦争で鍛えられた新羅が強くなる
  ↓
任那が滅ぼされる
  ↓
百済がビビッてヤマトに助けを求める
  ↓
ただで助けを求めるのは申し訳ないので、仏像・仏具・経論を献上する。
  ↓
仏教伝来

推古天皇の父・欽明天皇のころの話。そして玉突き事故がとうとうヤマトの内部抗争にまで発展します。

仏教受け入れ派の蘇我氏 vs 仏教拒否派の物部氏

物部氏と蘇我氏。ついでに大伴氏

ヤマトは、大王(のちの天皇)を中心にした中央集権国家でしたが、豪族の助けなしでは運営できませんでした。

ヤマトの抗争は、『皇族同士の皇位継承争い』と『だれが影響力のある豪族になるか?』の二つしかないといっていいくらい。

推古天皇の父・欽明天皇の時代では3つの豪族が争っていました。

大連大伴金村
(おおとも の かねむら)
100年以上まえから大王の近くにいる名門中の名
門。
軍事専門。
ヤマト王権の初期から大王に仕えていた豪族の子
孫。
大連物部尾輿
(もののべ の おこし)
大伴氏と並ぶ豪族。
もともとは武器を製造する専門集団だったことか
ら軍事を担当する。
初代・神武天皇がヤマトに入る前からヤマトを拠
点にしていた豪族の子孫。
大臣蘇我稲目
(そが の いなめ)
家柄は名門だが大伴・物部に比べると新興勢力。
稲目から重要なポジションについた。
武内宿禰からつづく天皇の子孫。
武内宿禰(たけしうち の すくね)

第13代~16代の成務仲哀応神仁徳の4代の天皇に仕えた。

成務天皇と同じ日に生まれ、300才まで生きたという伝説の臣下。

最初の大臣になる。のちに大臣は政治の最高責任者になるが、それをつとめた豪族は宿禰の子孫だといわれる。

隆盛を誇った順に葛城氏(かずらき)、平群氏(へぐり)、蘇我氏(そが)。

大化の改新藤原氏が台頭するまでつづいた。

武内宿禰 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。

大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。

大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。

しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

2大巨頭(大伴・物部)+ 新鋭(蘇我)

これが、欽明天皇のとき大伴氏が失脚して、

旧勢力(物部)vs 新勢力(蘇我)

に変わります。そして、推古天皇が即位する5年前に、物部氏と蘇我氏が戦争して物部氏が滅んで、

新勢力が勝ち残り、蘇我氏1強

になりました。

推古天皇は母が蘇我馬子の妹なので『蘇我の息のかかった』天皇です。

物部氏は蘇我氏の何が許せなかったのか?

氏族の対立には仏教と神道がからんでいました。

旧勢力物部氏ヤマトの土着宗教(神道)を守る立場。
新しい宗教を受け入れられない。
新勢力蘇我氏積極的に仏教を取り入れる。

当時の仏教は最新技術です。AIを使って急成長しようとするIT企業みたいなもん。

蘇我氏の影響が大きくなるにつれて、天皇にまで仏教が浸透したので物部氏は許せませんでした。天皇は神道の祭主だから。

『神道の祭主が仏教なんて!』と思うのも当然でしょう。天皇がキリストの洗礼を受けるようなものです。

でも、天皇も徐々に仏教を信奉していきます。推古天皇の先々代で兄・用明天皇は『仏教徒になりたい』とまで言いました。

これが原因で物部氏が滅んだ最終決戦にまで発展します。

丁未の乱(ていびのらん)

物部守屋(もののべ の もりや) vs 蘇我馬子(そが の うまこ)の、古代豪族の最終決戦。

物部軍は強く3度も蘇我軍を退却させるが、一矢が守屋を射抜くと一気に守屋軍は崩れる。

物部氏が滅んだことで蘇我氏の1強が始まる。

崇峻天皇厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我軍に参加。

あとは、新勢力なのに天皇や皇子の妃に蘇我氏の娘がどんどん嫁いだので、物部氏の力が小さくなっているのがつらかったのでしょう。

これだけでなく、推古天皇の即位前はショッキングな事件の連続です。

推古天皇即位まえの事件簿

推古天皇の即位前は、皇族のまわりでサスペンスばかり起きてます。

映画ならできるでしょうが、テレビでは放送できないんじゃないかというくらい。

事件簿1 レイプ未遂事件

推古天皇は、即位前に物部 vs 蘇我の抗争に巻き込まれます。

推古天皇の旦那さんの第30代 敏達天皇が亡くなった後、敏達天皇の弟・第31代 用明天皇が即位しました。

このとき、不満をもったもうひとりの敏達天皇の弟がいました。穴穂部皇子です。

穴穂部皇子は、敏達天皇の皇后(のちの推古天皇)をレイプして皇位を奪おうとします。

レイプして、むりやり妻にしたら天皇になれるという発想が信じられないが、当時の権力争いではあたりまえのことだった。

(でもそんなに多く起きたわけではないし、当時でも良いことではない。)

これを敏達天皇の側近だった三輪君逆(みわ の きみ さかう)が防ぎます。そして、それに怒った穴穂部皇子は大連の物部守屋に三輪君逆を殺させます。

事件簿2 物部氏滅亡

用明天皇が亡くなったとき、物部守屋穴穂部皇子を天皇にしようとします。これに怒った大臣の蘇我馬子は兵を送って穴穂部皇子を殺しました。

このとき、馬子が皇子殺害の許可を取りに行ったのが皇太后・炊屋姫(のちの推古天皇)です。

(旦那さんが死んで未亡人になったので皇太后になっていた。)

もちろん止めるわけがありません。そしてそのあと、物部守屋の討伐に動きます。(丁未の乱

物部軍は軍事・警察を担当していたのでとても強く、蘇我軍を3度も追い返しましたが、守屋が矢で射抜かれたので一気に後退しました。

これで物部氏は滅亡して、物部 vs 蘇我の対立が終わります。

事件簿3 天皇暗殺事件

用明天皇の後を継いだのは穴穂部皇子と母が同じ弟・第32代 崇峻天皇です。

崇峻天皇は蘇我馬子の甥っ子ですが、蘇我氏とは距離を取ろうとしていました。

あたりまえですが馬子と対立します。馬子は腹心の東漢直駒(やまと の あや の あたいこま)に崇峻天皇を殺させました。

なぜ聖徳太子は摂政になったのか?

このように推古天皇は、蘇我馬子に嫌われると殺されるという状況で即位します。

馬子の思い通りに動かされる人で、相応の年齢の皇族を探してもいなかったのでしょう。

そもそも嫌われたら殺されるので、辞退する人が続出した可能性もあります。そこで、3代前の敏達天皇の皇后で馬子の姪っ子で、すでに皇太后になっていた推古天皇が天皇になりました。

もちろん、推古朝は馬子の傀儡(かいらい)です。

敏達天皇と皇后との間に生まれた第1皇子・押坂彦人大兄皇子がいるが、天皇になっていない。

皇后の生んだ皇子でしかも長男なので天皇になれる候補ナンバー1だった。

それなのにこの皇子は、敏達天皇が亡くなったとき天皇にならなかったナゾの人。

皇后でも推古天皇のことではなくもうひとりの皇后の子で、少数派になっていた非蘇我系の皇族。

殺されるくらいなら陰にかくれておこうと思ったのかもしれない。

馬子に干された可能性もある。

大兄(おおえ) 

『いちばん上の兄ちゃん。将来のいちばん偉い人』の意味。名前に大兄がつく人は将来の天皇候補ナンバーワンになる。

身近な人のあいだでは『○○のアニキ』といったところ。

『兄』は目上の尊敬する人に使う『様』みたいなもので『大兄』の威力は絶大。

歴史の教科書に出てくる中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)は皇太子で天智天皇になった。

ちなみに、中大兄は名前ではなく『真ん中のアニキ』『2番目のアニキ』のこと。

30-33 emperor image
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

馬子もさすがに、皇太后の姪っ子を天皇に即位させたのはムリがあると思ったのでしょう。

用明天皇の皇子・厩戸皇子(うまやど の みこ。聖徳太子)を皇太子にして、摂政として政治に参加させます。

推古天皇だけだと蘇我氏の勝手でやっているのがもろバレなので、聖徳太子の摂政はカモフラージュです。

このとき太子は20才なので、馬子は裏から思い通りに動かせると思っていたはず。

傀儡で終わらなかった推古・聖徳太子

推古朝では、蘇我馬子はやりたい放題でしたが計算ちがいがありました。聖徳太子と推古天皇の政治家としての能力の高さです。

聖徳太子は、歴史に教科書に書いてあるようなたくさんの功績があります。

  • 冠位十二階の制定
  • 十七条憲法

この2つはとても重要です。冠位十二階は臣下の官位をはっきり決めることで、身分に関係なく能力がある人は上に行ける道が開けました。

十七条憲法は日本ではじめて制定された成文法です。成文法は法律をきちんと文書に書くこと。

聖徳太子の政治理念は『天皇が法律で治める国家』です。そこに蘇我氏の特別扱いはありません。

推古朝は太子と馬子の協力体制と言われますが、その一方で後半は太子と馬子は対立していたと言われます。

Noと言える推古

推古天皇は傀儡で終わりませんでした。葛城県(かずらきあがた)を蘇我氏に譲ってくれという馬子の要求に、

推古天皇
empress image
いままで叔父さんの言うとおりに何でもしてきました。
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でもいま県を失えば、後世の帝が『愚かな女が天下を治めたから県が滅んだ』というでしょう。
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そうなれば、自分だけでなく大臣(馬子のこと)も不忠とされ、後世に悪名を残すでしょう。

きっぱり断っています。

葛城地方はもともと蘇我氏が本拠地としていた土地で、それを返してくれと言っていてそこまで勝手を言っているようには見えません。

それでも推古天皇ははっきり拒否しています。推古天皇も『天皇が法律で治める国家』を目指していたことがわかります。

推古天皇も聖徳太子も、いつでも殺される状態で意思を貫いたのは重要。

馬子は過去に2人の皇族・天皇を殺しています。もちろん推古天皇も太子もそれを見ています。

推古天皇・聖徳太子の極太スピリッツは想像以上です。

聖徳太子の妃は馬子の娘で、母は馬子の姪っ子。聖徳太子はだれよりも蘇我色が強い皇族でした。それからみてもビックリです。

なにより馬子がビックリしたでしょう。お婿さんに『違う!』と言われたのだから。

なぜ聖徳太子は天皇にならなかったのか?

聖徳太子は推古天皇より8年も早く50才で亡くなります。結局、皇太子のまま30年も過ごしました。

どうして太子は天皇にならなかったのでしょうか? あれだけの功績を残しているのでいつでも天皇になれたはずです。

ぼくは、太子が天皇になると蘇我馬子の暴走を止められなかったので、推古・太子体制をつづけたと見ています。

馬子から見てもあれだけの能力のある人なので、天皇になってより大きな力をもたれると自分の居場所がなくなると思ったのではないでしょうか?

三つ巴がちょうどいいバランスだったのかもしれません。

天皇は国家(日本)の独立の象徴

推古天皇は日本の歴史で最大の重要なことをしました。それは、

国家としての独立宣言

607年、小野妹子(おの の いもこ)を派遣した第2回 遣隋使で、隋の皇帝・煬帝にあてた有名な親書です。

日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや。

(日が昇るところの天子が、日が沈むところの天子に親書をお渡しします。ごきげんいかが?)

当時の中国は日本のことを独立国家として認めていません。日本は中国皇帝が任命した王が治める国で属国だと思っています。

倭の五王の時代は、中国軍の将軍に任命されていました。

倭の五王(わのごおう)

中国の『宋書』に書かれた日本の5人の王のこと。

5世紀のおよそ100年間、日本が中国に貢ぎ物をして、その見返りに王の称号をもらっていた。

それが5人の天皇だったといわれている。(確定していない。)

また、中国の将軍にも任命されていた。

宋書の王与えられた将軍天皇
倭国王・讃
(さん)
???第16代 仁徳天皇
倭国王・珍
(ちん)
安東将軍第18代 反正天皇
倭国王・済
(せい)
安東将軍第19代 允恭天皇
倭国王・興
(こう)
安東将軍第20代 安康天皇
倭国王・武
(ぶ)
安東大将軍

鎮東大将軍

征東大将軍?
第21代 雄略天皇
ランク将軍ランクイメージ
1車騎将軍皇帝直属の将軍。
中国軍本体。
戦車・騎馬隊?
2征東大将軍東部方面司令の大将
3鎮東大将軍東部方面司令の中将
4安東大将軍東部方面司令の少将
5征東将軍東部方面司令の大佐
6鎮東将軍東部方面司令の中佐
7安東将軍東部方面司令の少佐
『今風に言うと』の勝手なまとめ

※ 中国からみた東国を担当する将軍。
※ 『服する』『圧する』『定させる』の順にランク付け。

これが日本と中国の本格的な外交のはじまりで、将軍は中国皇帝の部下なので中国の属国になる。安東将軍はランクが低い。

(日本は朝鮮王より低いランクから始まった。それからランクアップしていく。最終的に朝鮮に並んだとかいないとか。このへんは微妙。)

天皇のまわりの豪族たちにも欲しいと日本から要求したので、称号は天皇以外ももらっていた。

九州などの豪族たちも、ヤマトを無視して称号をもらっていたとされる。

損をしているように見えるが、中国の世界最先端の技術・文明が日本に入ってきた。

このとき、母系社会の日本に男尊女卑・男系思想が入ってきたと言われる。

当時の中国は南北朝時代で、日本は南朝の宋(劉宋)と国交を結んでいた。

(北朝はすぐに東西に分裂し南朝よりも不安定だった。)

それを、日出処の天子(日本の王より上の最高位の皇帝)と表現して、日本は王が治める国ではなく、中国皇帝と同格の天子が治める国と言っています。

これが国家の独立宣言です。

そして最後の『つつがなきや』はタメ口です。『よぉ!元気?』くらいの感じ。完全に地元のツレ扱い。

キレられてもあきらめない

これに中国・随の2代目皇帝・煬帝(ようだい)はブチ切れました。『兵を送って潰してやる』とまで言います。

608年、第3回 遣隋使でまた小野妹子を派遣します。今度の親書は、

東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。

ここではじめて、日本の君主に『天皇』を使います。それが推古天皇です。

絶妙です。同じ天子で怒られたので、『天皇と皇帝』と中国に気を使っています。丁寧な言葉にも出ています。

『日の沈む天子』と見ようによってはディスってるかのような表現もしていません。ただし、天皇と皇帝は同格とも言っています。

『あなたが天皇を認めるかは分かりませんが、私は天皇と皇帝は同格だと見ています。』と言ったんですね?

これを見た煬帝は、『もういい! 勝手にすれば?』と言います。もちろん日本は『分かりました。勝手にします』です。

属国からの脱出、独立の成功です。

  • 天皇を初めて使ったのは推古天皇
  • 『天皇』は日本独立の象徴

この中国とのやりとりはとても凄い。

最初のタメ口は、中国皇帝が怒るのを分かってやっている。でも攻められないのも分かっていた。

当時の隋は高句麗と戦争中で日本と戦う余裕がない。それを計算している。

(日本が敵にまわって、高句麗に援軍を送るかもしれないというプレッシャーをかけた。)

そして、『同じ天子で怒られるなら次は天皇と皇帝』と、絶妙な微妙な論理で、皇帝と同格の天皇を名乗るのを認めさせる。

これを『外交の勝利』と言います。

小野妹子は、煬帝にキレられたときの返書を帰る途中で無くしたとされる。

でもこれは内容があまりにも日本にとって不都合すぎて、親書をもち帰るとダメな方向にいってしまうから無くしたことにしたという話がある。

中国の日本に対する最後通牒だったのでは?と言われ、要は何が何でも日本をぶっ潰すという宣戦布告。

それを受けると降伏するしかないので、妹子は見せなかったという話。

本当のところは分からないが、そうだとしたらファインプレー。

無くしたことにすれば、『聞いてないよ~。』でごまかせると思ったか? この戦法は時間稼ぎにしかならないが、当時では効果があった。

あの時代は、外交で国と国との約束事を交わすのに数年かかったりする。生きて着くかどうかわからない長い船旅を往復するから。

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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。

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