歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第58代 光孝天皇(こうこう)は55才で即位したお爺ちゃん天皇です。3年後に病気で亡くなったので何もしていません。
しいて言えば、自分の子供を全員、民間人にしたことくらい。
光孝天皇は親王なのにみんなに雑に扱われたり、40人以上とも言われる子どもがいたりで掴みどころがない人でした。
古代・中世 平安時代 - 初期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 830年?月?日 ~ 887年8月26日
天長7 ~ 仁和3
58才
- 在位
- 884年2月23日 ~ 887年8月26日
元慶8 ~ 仁和3
4年
- 名前
- 時康
(ときやす)
- 別名
小松帝
- 父
第54代 仁明天皇
(にんみょう)
- 母
藤原沢子
(ふじわら たくし)藤原総継の娘
(ふじわら ふさつぐ)
- 女御
班子女王
(なかこ)第50代 桓武天皇の孫
(かんむ)
- 妻
その他
お爺ちゃん天皇は直系がダメだったとき
高齢で即位した天皇には共通点があります。それは、
先代のときに何かあって直系で継承できなかった。
第26代 継体天皇のときは先代に子どもがいませんでした。古代最後の第49代 光仁天皇のときは先代が女帝で、これまた子どもがいませんでした。
これ以外にも高齢で即位した天皇はいます。その天皇も、先代から引き継ぐべき直系に後継者がいなかったときです。
光孝天皇も同じです。なにせ先代は殺人の罪で天皇をクビになってるので。
緊急事態、前代未聞の即位
先代・陽成天皇は、奇行・乱行が目立つ少年天皇でした。15才のとき宮中殺人事件が起きて、関白・藤原基経(ふじわら もとつね)に天皇をクビにされます。
そこで基経が白羽の矢をたてたのが、時康親王(ときやす)。光孝天皇です。
光孝天皇は陽成天皇のお祖父ちゃんの弟。大叔父です。3代もさかのぼった即位でした。
(光孝天皇55才。先代・陽成天皇との年齢差40才!)
これだけ見ると『どんだけ人材がいないんだ?』と思いますが、光孝天皇の即位は順当とも言えます。
老人でも天皇になるべくしてなった
光孝天皇は先代・陽成天皇のお祖父ちゃんの弟ですが、じつは天皇の義理の父。陽成天皇の皇后・綏子内親王(やすこ)の父です。
また、親王が官僚・政治家としてキャリアを積む役職のほとんどを歴任していました。
(親王は皇族の中でも次期天皇になる可能性がある。)
中務卿
式部卿
相撲司別当(すもうのつかさべっとう)
太宰師(だざいのそち)
etc...
式部省(しきぶしょう)
律令制の8つの役所のひとつ。
トップは式部卿(しきぶきょう。事務次官)。
いまの人事院、文部省みたいなもの。
位階や官職を決めたり官僚養成機関を管理したので2番目に重要な省だった。
(律令制は役職の序列(官僚組織)が核。)
相撲司は当時、宮中行事だった奉納相撲を仕切る人。別当は親王だけがなれるその上の最高顧問。
太宰師は太宰府の長官。ただし、福岡には赴任していない。
(当時の大宰府の長官は京都にいることが多かった。)
宮中殺人事件が起きたときは親王の筆頭になっていました。世代が古くて年寄りですが、緊急登板にはもってこいの人。
藤原基経はかなり前から一目置いていた
藤原基経は、時康親王(のちの光孝天皇)のことをかなり前から知っていました。
あるとき、父・藤原良房(ふじわら よしふさ)がパーティを開きます。基経と時康親王もそこにいました。
ここでアクシデントが。
パーティの主賓、良房のお膳に雉(きじ)の足の料理を出し忘れます。
(雉は縁起のいい動物。ここでは料理のメインディッシュだった。)
そこで配膳係は、時康親王のお膳から雉の足をとって良房のところに移しました。
(なんちゅう雑な仕事。デリカシーがなさすぎる。)
時康親王はブチ切れてもいいのに、配膳係の失態をかくすためにその場の灯火(部屋のライト)を吹き消しました。
このときから基経は『この人ナメられてるけど、器のデカさが一味ちがうぞ』と思ったようです。
頭ひとつ抜けてた時康親王の器
話は戻って、藤原基経は陽成天皇をクビにしたあと次の天皇を探します。多くの親王のところにいって説得していました。しかし親王たちは大騒ぎするだけで引き受けようとしません。
そんななか、時康親王だけはでーんと構えて静かに話を聞いていたそうです。縁がボロボロの畳に座り、これまたボロボロの御簾(みす)のなかで。
(御簾は、天皇やそれに準ずる人が人前に出るとき面前にある、カーテンみたいなもの。)
『襤褸(ぼろ)を着てても心は錦』はこの人のためにあるんじゃないかと思うくらいの絵が浮かびます。
基経もそう感じたのでしょう。昔のことを覚えていた基経は『やっぱりこの人しかいない』と思ったとか。
自分の子どもを大量リストラ
関白・太政大臣の藤原基経の打診を引き受け即位した光孝天皇は、政治を基経に任せました。
天皇の仕事を唯一したのは自分の子どもの大量リストラ。
光孝天皇には40人、いやそれ以上か? 分からないくらいの数の子どもがいましたが、その子どもたちのほとんどを臣籍降下させます。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
その姓は源(みなもと)。源氏の大量投下。即位したときから自分の子どもには継がせないという意思表示です。
『自分は傍流だ。正当な流れではない。』
『先々代・清和天皇の流れに返すのが筋だろう。』
と思ったのでしょう。
器のでかい光孝天皇は、『自分の息子を天皇に!』という野心を自分から捨てました。
(だからといって大量リストラはやりすぎに見えるが。)
結果を言うと、そのリストラされた皇子の中から次の天皇(宇多天皇)が出ます。
パワフル? スマート? どっち?
光仁天皇は即位して3年後、皇太子を指名しないまま病気で伏せってしまい、そのまま亡くなりました。(58才)
大量リストラまでしたのに次の後継者を指名しない中途半端な状態で。
昔の天皇には子どもがたくさんいましたが、その中でも光仁天皇は数が多いです。
ボロボロの畳はなんだったのか? スマートさアピール?
性格の良さがぶっ飛びすぎてて、金と地位がなくても異常にモテた?
平安の大家族スペシャル?
上半身と下半身の落差が大きすぎて、とても気になる人です。在位期間が短く天皇像が見えないのでよけいに。