歴代天皇 - 政治闘争で殺しあうアグレッシブな天皇たち -
これまで、天智天皇の怪しげな人物像ばかり言ってきましたが、重要なことをたくさんしています。
外交しかり。内政もしかり。
いちばんは近江令(おうみりょう)の制定・施行でしょう。近江令は日本最古の本格的な律令とも言われ、のちの律令国家建設のベースになりました。
古代 飛鳥時代
- 皇居
近江大津宮
(おおみのおおつのみや)
- 生没年
- 626年 ~ 671年12月3日
推古天皇34 ~ 天智天皇10
46才
- 称制
- 661年7月24日 ~ 668年1月2日
斉明天皇7 ~ 天智天皇7
7年
- 在位
- 668年1月3日 ~ 671年12月3日
天智天皇7 ~ 天智天皇10
4年
- 名前
- 葛城
(かづらき)
- 別名
中大兄
(なか の おおえ)天命開別尊
(あめみことひらかすわけのみこと)
- 父
第35代 舒明天皇
(じょめい)
- 母
第37代 斉明天皇
(さいめい)第35代 皇極天皇と同一人物
(こうぎょく)
- 皇后
倭姫王
(やまとひめ の おおきみ)古人大兄皇子の娘
(ふるひと の おおえ の みこ)
天智天皇はかなり怪しい人です。4代の天皇の皇太子なのに、なかなか天皇にならなかったり、いともかんたんに身内・仲間を殺したり。
でも、リーダーとしての功績は絶大です。法治国家・日本をスタートさせる地ならしをしたので。
今回は、天智天皇の怪しさよりも功績をみていきます。
歴史に残る外交の大失敗
天智天皇は、先代で母の斉明天皇が朝鮮半島の百済遠征中に筑紫(福岡県)で亡くなったので、それをおさめる必要がありました。
663年(天智2)、百済王・義慈王(ぎじおう)の息子・扶余豊璋(ふよ ほうしょう)が、滅亡した百済の抵抗軍のリーダー・鬼室福信(きしつ ふくしん)を殺してしまいます。
(義慈王は百済の最後の王。)
チャンスと見た新羅はトドメをさそうと百済に大軍を送りました。天智天皇もこれに対抗して大軍を朝鮮半島に送ります。
これが白村江の戦い。
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)
663年(天智2)8月27日の新羅・唐連合軍と百済残党・倭連合軍の最終決戦。
倭(日本)は大惨敗して、唐・新羅に占領されるほどの危機感をもった。
天智天皇が律令国家建設を急ピッチで進めたのもビビっていたため。
天智天皇は内陸部に都を移した。(近江の大津宮)
大津宮は当時から不評で
なんであんなド田舎の山奥に?
という意見が多かった。相当ビビってた?
日本軍は大惨敗しました。この外交の失敗は日本の長い歴史でも稀に見る大失敗です。後片付けが大変。
豊璋は百済滅亡前から日本に亡命していた。人質だったともいわれる。
鬼室福信は豊璋のおじいちゃんの甥っ子で親戚のオジさん。
豊璋はオジさんに百済再興の王になれといわれて帰ったのに、そのオジさんを殺した。
福信が豊璋を殺そうとしたからだという。豊璋が帰国してたった1年後の出来事。
百済抵抗軍の内紛ですね?
百済と連合を組んでいた日本は踏んだり蹴ったり。
斉明天皇は遠征中に亡くなるし、支援した百済軍は内紛起こすし。
国家が滅びかけるくらいの対外戦争は、1945年の敗戦まで日本の歴史にありません。
日本の歴史では、朝鮮半島・大陸の有事に深くかかわって、いい結果になったことがない。
白村江の戦い。
豊臣秀吉の朝鮮出兵。
日韓併合、大東亜戦争敗戦。
朝鮮半島とは『近すぎず、離れすぎず』のときが一番いい関係を保ててる。たとえば江戸時代とか。
ビビりの天智天皇、守りを固める
大惨敗の翌年の664年、唐(中国)の百済占領軍司令官・劉仁願(りゅう じんがん)が、友好の使者を倭(わ。日本)に送ります。
唐は倭と和解したかったようです。でも、素直に乗らない天智天皇は唐との戦争に備えて国内を整えました。
対馬・壱岐・筑紫など北九州を中心に防人、烽を設置。
筑紫に水城をつくる。
防人(さきもり)は最前線の防衛隊です。烽(とぶひ)はのろし台。何か起きたら煙をたく通信塔です。
水城(みずき)は防波堤つくってその近くに水をためたもの。城というより細長いダムに近い。
天智天皇は唐の友好の使者がきた664年に急ピッチで作っちゃいます。また667年には、都を山奥の近江・大津宮(おおつのみや。滋賀県)に移します。
唐に攻められて都が陥落しないように内陸部にかくしました。天智天皇のビビり方はハンパではありません。
天智天皇は若いころから身内の殺し合いを生き抜いてきた強者。唐の使者も油断させるためのワナだと思ったのだろう。
ビビりというよりも嗅覚がはたらいたかも?
大津宮への遷都は当時から、
なんであんなド田舎の山奥に?
と不評だった。天智天皇の警戒心が分かってもらえなかったみたい。
今の人は都のイメージが京都にあるので内陸部にあるのに違和感がないが、古代の都は大阪や大阪寄りの奈良に集中したので、海沿いに都があるのが当たり前だった。
やっと天皇に即位する
大津宮に遷都して1年後(668年。天智7)、中大兄皇子(なかのおおえ の みこ)はやっと天皇になります。
(じつは都を移すまで天智天皇は即位していない。皇太子だった。)
母・斉明天皇が戦争の遠征中に亡くなったあとをひきついだら大惨敗して、国防をあわてて整備しました。
やっと落ちついたのが大津宮遷都だったのでしょう。これで即位できると思ったのかもしれません。
ここからもうひとつの宿題、内政の整備に力を入れはじめます。
大側近・中臣鎌足死す
即位の翌年669年(天智8)、乙巳の変から25年ちかく天智天皇を支えつづけた中臣鎌足(なかとみ の かまたり)が亡くなります。
『外交が一区切りついたから次は内政だ!』になった矢先でした。
天皇は鎌足に『大織冠』(だいしきのこうぶり, たいしょくかん)を与えました。これは最高の官位で古代では鎌足だけです。
また『藤原』の姓も与えました。平安時代にイケイケになる藤原氏のはじまりです。
律令国家の産声をあげる
天智天皇が即位した同じ年(668年)、『近江令』(おうみりょう)の22巻が完成しました。671年に施行します。
日本初の本格的な令で、行政法、民法など刑法以外の法律です。
近江令は飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)と並んで、あとで作られる大宝律令・養老律令の基礎になったといわれます。
また、670年(天智9)に庚午年籍(こうごねんじゃく)という日本初の全国規模の戸籍制度を作りました。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
大友皇子の太政大臣就任が戦乱をまねく
天智天皇は弟の大海人皇子(おおあま の みこ。のちの天武天皇)を皇太弟にしていました。
皇太弟(こうたいてい)
天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。
皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。
671年(天智10)、息子・大友皇子(おおとも の みこ。のちの弘文天皇)を太政大臣にします。
太政大臣は近江令ではじめて作られた役職で、天皇に代わって政治を仕切るトップです。総理大臣みたいな左大臣の上の天上人。
しばらくして天智天皇は病になり大海人皇子にあとをたくしますが、皇子は断ります。
それを天智天皇が許したので大海人皇子は出家して吉野(和歌山)に引っ込んでしまいました。
そして天智天皇は亡くなりました。これが古代最大の戦乱・壬申の乱に発展します。
太政大臣はよっぽどの人じゃないとなれなくなり、必ずいるものではなくなる。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
壬申の乱(じんしんのらん)
天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。
古代最大の内乱。
両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。
大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。
天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。
672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。
どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。
古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。
(ここに書いた内容も日本書紀から。)
大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。
いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。
時計職人? 中大兄
671年(天智10)、天智天皇は時計台を設置します。漏剋(ろこく)という水時計でした。
これは日本ではじめてのことで人民に時を知らせたのもはじめて。
また天智天皇は斉明天皇の皇太子時代に、自分で漏剋を作ったという記録もあります。
細かい仕事が得意だったみたいですね?