承久の乱 官軍が賊軍にボコボコにされた唯一の出来事

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鶴岡八幡宮画像

日本の歴史上で官軍が賊軍にコテンパンにやられる例は承久の乱(じょうきゅうのらん)以外にありません。

後鳥羽土御門順徳の3人の上皇が島流しの刑に処され、仲恭天皇が退位させられるという異例の結果となりました。

中世 鎌倉時代

承久の乱以前は三者三様の思惑が働いていた

承久の乱がおきる前は主な政治勢力が3つありました。

  • 源頼朝(みなもとの よりとも)が作り上げた鎌倉武士の集団
  • 鎌倉と協調しようとする朝廷の勢力(九条兼実など)
  • 鎌倉はあくまで朝廷を助ける存在であるべきと考えた朝廷の勢力(後白河上皇後鳥羽天皇

です。このとき、朝廷のトップは後白河法皇ですが、法皇の考えは、自分が院政を敷き政治を行うことでした。法皇は、源頼朝に朝廷を補佐することを求めていて、決して頼朝が独断で行動することを許していませんでした。

太上天皇(だじょうてんのう)

退位した天皇のこと。

上皇(じょうこう)

太上天皇の短縮した言い方。

太上法皇(だじょうほうおう)

出家した上皇のこと。たんに法皇という。

院(いん)

上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。

詳しくは『太上天皇とは何か?』

いろいろな権限を頼朝に渡していたのは、敵に回すと自分の身が危ないのでアメを小出しにして懐柔しようとしていたからです。

逆に、頼朝と距離を縮めなければ朝廷の未来はないと考える人もいました。摂政関白・太政大臣を務めた 九条兼実(くじょう かねざね)です。

兼実は、頼朝の求めるものを最大限実現することで良好な関係を築こうとします。後白河法皇は、頼朝の力が増大するだけで逆に朝廷の立場を危うくすると思っていました。

一方鎌倉では、朝廷の影響力から離れて、鎌倉武士を中心とした社会を作ることを目指していました。できれば鎌倉のすることに朝廷は関わってほしくないと考えていたのです。

この3者の微妙なバランスの中で1183~1192年まで続きます。

(1183~1185年はまだ平家政権だったので勢力図はさらに複雑です。)

1192年、三つ巴のバランスが崩れる

1192年、後白河法皇が亡くなります。あとを継いだのは後鳥羽天皇で当時まだ12才でした。

法皇が亡くなったことで、幕府を朝廷の下に置こうとする勢力(後鳥羽天皇派)の力は弱まっていました。

そこで九条兼実と源頼朝が動きます。九条兼実の後押しで源頼朝が征夷大将軍に任命されます。当時、上皇・天皇が中心となって政治を行う路線が主流にもかかわらず、兼実がそれと反する行動をしました。

”征夷大将軍”を手に入れた源頼朝は、朝廷の力を超えるチャンスをつかみます。勝手な行動をした朝廷内では兼実に対する不満がたまっていました。

九条兼実は用無しとなって捨てられる

征夷大将軍となって力を得た頼朝は、ますます朝廷に圧力をかけます。

まず、協力者であったはずの九条兼実を切り捨てます。

勝手な行動をして朝廷内での信頼を失っていた兼実は、後鳥羽天皇に嫁がせていた娘に子供ができないことでさらに朝廷内での力を失いました。

朝廷内の影響力がなくなった兼実は、鎌倉にとっても邪魔な存在になっていたのでしょう。

1196年ついに関白の任を解かれ失脚します。

後鳥羽天皇も負けてはいない

兼実がいなくなったことで、1197年、19才になった後鳥羽天皇も動きます。退位して、自分の息子を天皇(土御門天皇)に即位させました。

後鳥羽天皇はあくまで上皇・天皇中心の政治を目指していました。

後鳥羽上皇 vs 鎌倉幕府の構図が出来上がる

このように、3者の一人がいなくなったことで朝廷と幕府の並立状態となりました。この当時、鎌倉幕府は西日本、四国、九州に影響力を持ち始めましたが、朝廷を超えるものではありませんでした。

京都を境にして西日本は朝廷、東日本は幕府が勢力を持っていて、力は拮抗していたのです。この均衡状態がしばらく続くことになりました。

3代将軍 源実朝暗殺で均衡状態が崩れる

後鳥羽上皇院政を始めてから22年後の1219年、鎌倉幕府3代将軍 源実朝(みなもとの さねとも)が甥の公卿(くぎょう)に暗殺されます。

実朝は暗殺される前、朝廷との融和を図るためある約束をしていました。実朝には後継者がいないのでその後継者を朝廷から迎え入れるという約束です。

その候補は頼仁親王(よりひと)です。後鳥羽上皇の息子で、土御門上皇順徳天皇の兄弟でした。

朝廷と幕府は限りなく近い家族関係になろうとしていました。これには、朝廷、幕府の双方から強い反対意見がありました。

鎌倉の御家人たち(幕府)は、朝廷と距離が近付くことに強く反対していました。彼らは朝廷からいろいろ言われるのが嫌だったからです。

御家人(ごけにん)

鎌倉時代の幕府に従う武士のこと。

家人を丁寧な言い方にしたもの。家人は、『主人の家の人』という意味で、主人に従う人という意味。

鎌倉の力が圧倒的だったので、家人にも『御』をつけるくらい気を使った。

御家人の主人は、鎌倉の将軍ではなく、鎌倉という武士の組織だった。そのため、鎌倉幕府が消滅すると御家人もほとんど消滅する。

今でも、鎌倉時代の言葉として使われることが多く、ほかは、『家臣』と同じ意味で使われることがあるくらい。

一方朝廷は、皇族を幕府の将軍にすることで、関東武士が不釣り合いの高位を得ることが嫌でした。関東の田舎者に自分の同僚・上司になってほしくなかったからです。

これを調整するのが実朝の役割でした。幕府内では新将軍を猶子(ゆうし)として迎え入れ、実朝が後見人となって幕府の御家人たちを抑えます。

朝廷では実朝と連携した後鳥羽上皇が不満分子を抑えていました。しかし、この融和政策は実朝が暗殺されることで崩壊します。

実朝の暗殺後、幕府から約束通り後鳥羽上皇の息子の将軍就任が打診されます。しかし、後鳥羽上皇はそれを拒否しました。後鳥羽上皇は、実朝がいるから実現できると思っていたみたいです。

ここでは詳しくは書きませんが、当時の鎌倉は暗殺や謀略が横行して崩壊寸前の状態でした。誰がリーダーになるのかさえ分かりません。あの北条氏でも油断するとつぶされそうなほどです。

後鳥羽上皇には、実朝がいない鎌倉で、御家人に自分の息子が殺されるかもしれないという不安があったのかもしれません。

ここで朝廷と幕府の和平が決裂しました。

朝廷と幕府の完全決裂

将軍就任を拒否した後鳥羽上皇は幕府にいろいろな要求をします。これを幕府ははねつけます。逆に朝廷に要求をつきつけました。

これに後鳥羽上皇は激怒します。ついに幕府の執権 北条義時(ほうじょう よしとき)追討の宣下を出しました。

  • 上皇は幕府の追討を命令していない。
  • 悪いのは北条氏で幕府が悪いとは言っていない。
  • 後鳥羽上皇は、幕府をつぶすと言うと、朝廷に武士があつまるかどうかわからないと思っていた。
  • あくまで北条氏をつぶすと言って、味方になる武士を集めやすいようにした。

これに朝廷内では、”義時は朝敵になったのだから、彼に味方をするものは千人もいないはず”という意見が大勢でした。

もう戦争以外解決策はないところまできました。

ついに承久の乱 勃発!

1221年5月15日、義時追討宣下を出した直後に、上皇軍は京都守護職の伊賀光季(いが みつすえ)を討ちます。これには幕府に動揺が走りました。

しかし、北条義時の姉で源頼朝の妻の北条政子(ほうじょう まさこが、頼朝以来の恩顧を説く名演説を行って幕府軍の結束を固めます。あれだけ身内でつぶし合いをしていたのをまとめた政子はとんでもない人なのでしょう。

そして、義時の息子の北条泰時(ほうじょう やすとき)を総大将とする北条軍が京に攻め込みました。戦は北条の圧勝でたった1か月で終わります。

戦後処理での朝廷の処分はとてつもなく厳しいものだった

北条氏の朝廷への処分は厳しいものでした。

後鳥羽上皇は隠岐に配流となり、後鳥羽上皇に呼応するため天皇を退位していた順徳上皇は佐渡に配流となりました。また、土御門上皇も土佐(のちに阿波)に配流となります。

すべての上皇が島流しの刑になりました。そして仲恭天皇を退位させ、新たに後堀河天皇を即位させます。また、後鳥羽上皇軍に関与した公家、武士の多くは死罪となりました。

承久の乱のおかしいところ

承久の乱はおかしいところがあります。なぜか、北条氏が朝廷を厳しく罰しています。
”戦争に勝ったのだから当たり前でしょ?”と思うかもしれませんがそうではありません。

そもそも、北条氏は幕府の有力御家人で、鎌倉幕府将軍の部下です。その将軍の地位を保証しているのは天皇・上皇です。北条氏からすれば上司の上司で、会社で言えば社長・会長です。

北条氏は戦をして勝つところまではできますが、本来は朝廷の人を罰することはできません。また、天皇の即位、退位に口を出せる立場でもありません。

朝廷にいろいろな有利な要求はできるでしょうが...

北条氏は、上皇を京都から追い出し、天皇を無理やり交代させ関係者を殺しました。こんなことは日本の歴史上例がありません。

足利尊氏も、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康でもしていません。

北条氏の行動が日本の歴史を一変させた

本当の武士の世界の始まり

北条氏のこの行動が日本の歴史の中でも一大転機となりました。

これを機に、京都には六波羅探題(ろくはらたんだい)が置かれて、幕府がつねに朝廷を監視するようになります。朝廷と幕府の力関係の逆転が800年後の幕末まで変わることがありませんでした。

日本全体に武家社会が浸透する

北条氏は、処分した公家や僧侶から没収した3000か所の所領を、関東武士に分け与えます。これらのほとんどは西日本にある所領でした。

これで、武家社会が浸透していなかった西日本にも浸透するようになります。”日本は侍の国”になりました。

承久の乱は日本の歴史にとって一番の転換期でしょう。世界に行っても”SAMURAI”は通用するぐらいですから。

 

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