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第56代 清和天皇。初めての幼帝。人臣摂政が初登場。武士の源氏のご先祖様。

清和天皇 肖像画

歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -

第56代 清和天皇(せいわ)は、初めて幼い子どもが即位した天皇です。そしてここで、初めて皇族以外の人臣が摂政になりました。藤原良房(ふじわら よしふさ)です。

清和天皇は最初の摂関政治の天皇で、鎌倉・室町・江戸幕府を開く源氏のご先祖様です。(清和源氏

古代・中世 平安時代 - 初期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 850年3月25日 ~ 881年12月4日
    嘉祥3 ~ 元慶4
    31才
  • 在位
  • 858年11月7日 ~ 876年11月29日
    天安2 ~ 貞観18
    19年
  • 名前
  • 惟仁
    (これひと)
  • 別名
  • 水尾帝
    (みずおてい)

    素真

  • 藤原明子
    (ふじわら あきらけいこ)

    藤原良房の娘
    (ふじわら よしふさ)

  • 女御
  • 藤原高子
    (ふじわら たかいこ)

    藤原長良の娘
    (ふじわら ながら)

  • 女御
  • 藤原多美子
    (ふじわら たみこ)

    藤原良相の娘
    (ふじわら よしみ)

  • その他

清和天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

初の幼少天皇

清和天皇は歴代天皇で初めて子どもで即位した天皇です。そのとき9才。幼少天皇が誕生するのにはいろいろな条件がそろっていました。

天皇の嫁の実家は藤原冬嗣の子孫たち

清和天皇の前の前、お祖父ちゃんの仁明天皇のころから、天皇の妻の実家は藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)の子孫たちで固められていました。

(天皇には他の氏族の側室もいたが。)

冬嗣は仁明天皇に一番信頼されていた部下です。

孫の清和天皇のころには、母もお祖母ちゃんも冬嗣の子孫。冬嗣一家は清和天皇からすればもう一つの家族でした。

政治力があって頼りがいのある家族があるので、子どもでもやっていけるとふんだのでしょう。

冬嗣一家の後継者・藤原良房(ふじわら よしふさ)

藤原冬嗣が亡くなると冬嗣一家の当主は次男の良房がなります。これが藤原北家(ふじわらほっけ)と言われるもの。平安時代のイケイケ藤原氏を作るのは冬嗣一家です。

もちろん、天皇のもう一つの家族の当主・良房は頼りにされていました。

藤原氏はあまりに数が多く、それぞれ家が独立していった。

北家、南家、京家、式家の4つに別れ、そこから名前を変えた藤原氏も出てくる。

もう一つの家族に気を使うのがデフォルトに

父・文徳天皇は、紀氏(きのし)の娘との間に生まれた長男をかわいがり皇太子にしようとしていました。

しかし、もう一つの家族との間に生まれた惟仁親王(これひと。のちの清和天皇)を皇太子にします。

(惟仁は藤原良房の孫。)

ここから後の天皇は、皇太子を選ぶのにもう一つの家族を気にするようになります。

というか、もう一つの家族なので信頼しているところから天皇を出すのが人の気持ちというもの。

藤原北家の野心がありますが、天皇家のほうからすれば利用されてるとは微塵も思っていないでしょう。だってもう家族なんだもん。

史上初の人臣太政大臣から史上初の人臣摂政へ

父・文徳天皇はもう一つの家族を政治でもいちばん頼りにします。

左大臣が亡くなると、藤原北家の当主・藤原良房太政大臣にします。これまで太政大臣は皇族でかつ次期天皇になるような人しかなれなかったもの。

父・文徳天皇はそれだけ、もう一つの家族と一体化していました。

政治ができない子どもが天皇になるのは当然の流れになりました。もう一つの家族がいれば、天皇家は安心だし政治だって任せられるし。

ここで『天皇は政治のリーダーで長老』という常識が完全に無くなります。

飛鳥・奈良時代、それより前の古代の天皇は政治経験が必要で、それなりの年齢にならないと即位しなかった。

35才が適齢期という説があるほど。

じっさい、30才前後でも即位を辞退した人がけっこういる。

(中には先代の皇后を推して女帝擁立をいう人もいた。)

そして清和天皇のときには、太政大臣・藤原良房が皇族以外ではじめて摂政になりました。

(これを前期摂関政治という。)

良房は皇族でないのに『天皇の代理』を務めるまでになります。平安時代の大きな特長が出てきましたね?

幼少の天皇(政治ができない天皇)と摂関政治太政大臣はリンクしている。

完全制覇ならず

それでも、成長した清和天皇には皇后・后妃がいません。まだまだ、天皇の最高ランクの妻の実家として藤原氏は認められていませんでした。

過去のトラウマがあって。

天皇が幼くても務まるということは逆に、天皇の権威が確立したことになります。

子どもでも天皇の威光で百戦錬磨のオッサンたちが動くので。

天皇の権威が確立した。天皇の権威と権力が分離したとも言える。

(このとき権力は藤原北家に任せた。)

皇統も安定した。

応天門の変(おうてんもんのへん)

866年(貞観8)、平安京の応天門が火事で燃えてしまいます。大納言伴善男(とも の よしお)は、左大臣源信(みなもと の まこと)が放火したと言い出しました。

これを太政大臣藤原良房は左大臣ではないと判断し、善男の息子・中庸(なかつね)に罪をなすりつけます。

本当の犯人は分かりません。太政官の権力闘争が原因だから。

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣(令外官)
左大臣
右大臣
内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

伴氏は大伴氏

伴善男は伴氏(とものし)です。伴氏は名前を変えた大伴氏(おおともし)。

大伴氏は古墳時代にはすでに天皇の側で仕えてた有力豪族で、清和天皇の3代前の淳和天皇の名前が大伴(おおとも)だったことから改名しました。

伴善男のお祖父ちゃんや父は、80年前の藤原種継事件にからんで冷や飯を食わされています。

(大伴氏は、事件の犯人一味と見られた。)

善男はそこから這い上がり大納言にまで出世した苦労人です。

(大納言は左大臣・右大臣に次ぐ政権ナンバー3。)

そしてさらに上を目指していた善男は、左大臣・源信を追い落とそうとしていました。

このとき右大臣は藤原良相(ふじわら よしみ)で太政大臣・良房の弟。

伴善男は、右大臣にはケンカを売れなかった。太政大臣まで敵に回すので。

そこで狙われたのが左大臣・源信。藤原氏は止めはしない。源氏の力が無くなるのは都合がいいから。

政治勢力の源氏

左大臣源信(みなもと のまこと)は嵯峨源氏の第1世代で、第52代 嵯峨天皇の皇子。清和天皇のお祖父ちゃんの弟です。

このころの源氏は嵯峨天皇の皇子が健在で、左大臣・右大臣まで輩出する一大勢力でした。

嵯峨天皇の皇子だけではありません。次の仁明天皇、その次の文徳天皇からも源氏は生まれるので源氏勢力はデカイです。

仁明源氏文徳源氏。)

歴史では藤原氏ばかりフューチャーされるので地味ですが。

当時は、藤原良房一派をのぞけば最大の政治勢力でした。左大臣・右大臣は源か藤原かと言ってもいいくらい。

当時の源氏勢力。

嵯峨源氏。

仁明源氏。

文徳源氏。

そこに伴善男が割って入ろうとしたところ起きたのが応天門の大火事です。

大伴氏、紀氏の没落

この大伴氏に加勢したのが紀氏(きのし)です。紀氏は文徳天皇が清和天皇の前に皇太子にしようとしていた皇子の母の実家。

藤原良房の横ヤリがなければ天皇の親戚になれたのに、という恨みがありました。そこで藤原・源の2大勢力に対抗する第3の勢力を狙って大伴氏と組みます。

しかし、良房にカウンターで罪をきせられた大伴氏は一族が左遷や流罪で没落。紀氏も中央政界から追い出されました。

有名な歌人・紀貫之(きの つらゆき)も左遷された紀氏の出身です。歌人として天皇や左大臣右大臣太政大臣にまで尊敬されましたが、仕事は中級貴族のままでした。

文化人としての才能を認められただけ。

藤原良房の陰謀?

応天門の変は、藤原良房の他氏を追い出すための陰謀説があります。本当の犯人が分かってないのもそう。

太政大臣のツルの一声で大伴氏に罪を着せたのも、良房が他の氏族を追い落とそうとしたためとか。じっさい、藤原氏の勢力がますます大きくなります。

個人的にはどっちも本当、どっちもウソだと思ってます。

藤原氏、源氏、大伴氏、紀氏。それぞれが誰かを追い落とそうとしていたので、藤原氏以外の陰謀もあるでしょう。

結果的に太政大臣がいた藤原氏の力がいちばん強かっただけ。

2代目人臣摂政・藤原基経(ふじわら もとつね)登場

872年(貞観14)、清和天皇が23才のとき摂政・藤原良房が亡くなります。

良房には跡継ぎの息子がいませんでした。そこで、良房の兄・長良(ながら)の息子・基経を養子にもらっていました。

この基経が次の摂政になって清和天皇を支えます。

(基経は右大臣になっていた。)

基経も良房に負けず劣らずの優秀な政治家です。藤原氏の中でも有名な方でしょう。なにせ次の陽成天皇に天皇クビを言い渡し、その次の光孝天皇を即位させた剛腕だから。

藤原基経は、清和天皇の女御・高子(たかいこ)の実兄。

女御(にょうご)

の高い朝廷の女官。天皇の側室候補でもあったので、天皇の側室という意味もある。

摂政になる前から天皇の義理の兄という立場だった。

藤原良房は次男で長男は長良。

長男・長良の出世は弟・良房のつねにあとで、うだつが上がらないアニキみたいになっていた。

基経が藤原北家・長者になったので面目がたったかたち。良房は兄思いだったのかもしれない。

ちなみに長良の子孫には、平安時代の最大の反乱と言ってもいい、藤原純友の乱を起こした藤原純友(ふじわら すみとも)がいる。

史上初の20代で譲位

譲位(じょうい)

天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。

第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。

はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。

大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇

持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。

(制度化されてから2/3が譲位)

なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。

それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。

譲位の理由はいろいろ。

次世代が育つ。
そのときの権力者の都合。
自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。
(権力闘争に利用される)
病気。
仏教徒になりたい。
幕府に抗議するため。
天皇の意思。
理由なし。
あたりまえだと思っていた。

清和天皇は27才で退位します。次の天皇は息子の陽成天皇。陽成天皇もまた、即位したとき9才でした。

前例のない若い退位なので藤原基経に辞めさせられたように思えますが、自分で決めたのでしょう。即位してから19年も経っていました。

子どものころから大人たちの中で天皇をやってきたので、もっと自由になりたかったのかもしれません。

清和上皇は879年(元慶3)、出家して法皇になり次の年に亡くなりました。31才でした。

源頼朝のご先祖さま

曾お祖父ちゃんの嵯峨天皇から始まり、仁明文徳天皇とつづいてきた『子孫を臣籍降下させて源氏を作る』を清和天皇も習い、清和源氏が生まれました。

清和源氏は鎌倉幕府を開いたあの源頼朝(みなもと の よりとも)を生んだ系統です。政治家というより武士として有名な氏族になりました。

源氏二十一流のひとつ。)

源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)

天皇の子孫の氏族の源氏には21の系統がある。その総称。

天皇の息子・孫を臣籍降下して民間人にするのに源(みなもと)姓は多く使われ、第52代 嵯峨天皇の息子から始まる。

平安時代の初期から中期にかけて、天皇は源氏を作るのが常識なほど一番多く作られた。

ペースは徐々に落ちていくが、戦国時代の第106代 正親町天皇の系統が江戸時代初期に作られたのが最後。

1第52代 嵯峨天皇嵯峨源氏
(さが)
最初は、左大臣・右大臣など、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。
徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなる。

渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など知る人ぞ知る武士に残った程度。
2第54代 仁明天皇仁明源氏
(にんみょう)
嵯峨源氏と同じく、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。

仁明源氏の中から平氏に枝分かれしたのもいる。
仁明平氏

徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。
3第54代 文徳天皇文徳源氏
(もんとく)
前例と同じく藤原氏と並ぶ政治家一門だった。
徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。
4第56代 清和天皇清和源氏
(せいわ)
政治家としてはパッとしない。
国司や軍事専門の地方役人などに多くの人を輩出する。

それらが武士となり、日本最高の武家一門に成長する。
源頼朝、足利高氏など有力武将は数知れず。

貴族としては公卿にギリギリ滑り込んだ程度。
唯一残っていた竹内家がつづき明治に華族になった。

21の源氏の中でもっとも有名になった家。

村上源氏以外でただひとり、足利義満が太政大臣になった。
5代57代 陽成天皇陽成源氏
(ようぜい)
多くの公卿を輩出する政治家一門だったが、これまでの源氏と比べ見劣りする。
その後も目立った貴族、武士などはいない。
6代58代 光孝天皇光孝源氏
(こうこう)
最初は、中納言を輩出するなど政治家一門だったがフェードアウト。

その中でひとり、康尚(こうしょう)が仏師になり日本仏教彫刻の最大勢力、慶派(けいは)を作っていく。
鎌倉時代の有名な彫刻家、運慶湛慶(うんけい・たんけい)もその子孫。

その他、数々の天才彫刻家は数知れず。
慶派は幕末の動乱まで仏師の主流だった。
(日本の彫刻界の中心だったと言ってもいい。)
7第59代 宇多天皇宇多源氏
(うだ)
最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。

鎌倉時代には綾小路家・大原家など公卿の中堅に多くを出した。
明治になると多くが華族になる。

佐々木氏など有力武士も多いが天下取りを争うほどではない。
8第60 醍醐天皇醍醐源氏
(だいご)
最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。
その後、貴族ではあったが地下家(じげけ)で上流貴族になれていない。

地方に散らばり武士になった人も多いがメジャーではない。
9第62代 村上天皇村上源氏
(むらかみ)
多くの源氏が朝廷でフェードアウトする中、最後まで上流貴族を保った。
(天皇の子孫の意地を見せた。)

藤原氏にかくれているが、貴族の源氏と言えば村上源氏というくらいの勢力。

源氏で最大の3人の太政大臣を出す。

明治維新の岩倉具視(いわくら ともみ)を出した。
武士では北畠氏(きたばたけ)を出した。
10第63代 冷泉天皇冷泉源氏
(れいぜい)
作られた当初から存在感がない。
本当にあったのか? と思うほど。
11第65代 花山天皇花山源氏
(かざん)
ギリギリ上流貴族の半家に白川伯王家(しらかわはくおう)が残っただけ。
1家で頑張ってきたが昭和になって断絶した。
12第67代 三条天皇三条源氏
(さんじょう)
貴族では最初からパッとしない。
僧侶や天皇の妻などになり目立たない。
13第71代 後三条天皇後三条源氏
(ごさんじょう)
ひとりだけ源氏になった源有仁(みなもと の ありひと)は左大臣までなったが後継者がいなくて断絶。

武士の中には後三条源氏を名乗るものがいたが自称の可能性が高い。
14第77代 後白河天皇後白河源氏
(ごしらかわ)
反平家の挙兵をした以仁王(もちひとおう)ひとりだけ。

皇籍を剥奪され懲罰で源氏になった。
討伐軍に追われて戦死。
15第84代 順徳天皇順徳源氏
(じゅんとく)
ひとり左大臣を出した。
室町幕府 第3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)のときに最後の一人が出家してしまい断絶。
16第88代 後嵯峨天皇後嵯峨源氏
(ごさが)
源惟康(みなもと の これやす)ひとりだけ。
鎌倉幕府 第7代 征夷大将軍になる。

親王のままの将軍は都合が悪いから源氏になった可能性が高い。
17第89代 後深草天皇後深草源氏
(ごふかくさ)
鎌倉幕府 第8代 将軍・久明親王(ひさあきら)の孫が源氏になる。

大納言にまでなったがあとが続いていない。
18代90代 亀山天皇亀山源氏
(かめやま)
特筆する人はない。
19第84代 後二条天皇後二条源氏
(ごにじょう)
特筆する人はいない。
20第96代 後醍醐天皇後醍醐源氏
(ごだいご)
後醍醐天皇の孫が源氏になったと言われるが、詳細がない。
(信憑性はないかも?)

武家の大橋氏、神社を代々守る社家の氷室氏など末裔を名乗る氏族はいる。
21第106代 正親町天皇正親町源氏
(おおぎまち)
正親町天皇は織田信長・豊臣秀吉のころの天皇だが、江戸時代にその子孫が源氏になる。
広幡家(ひろはた)

摂関家に次ぐ清華家になるなど格別の待遇を受けた。
明治になると華族になる。

源氏として活躍したのは平安中期までに作られた源氏で、村上源氏で勢いは止まる。

その後は活躍する人が出ていない。鎌倉時代は幕府の将軍が大きく関係している。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。

貴族の家格(かかく)

平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。

(主に藤原氏と天皇の子孫の源氏

鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。

1摂関家
(せっかんけ)
摂政関白太政大臣になる。
五摂家。
すべて藤原北家の流れ。
2清華家
(せいがけ)
摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。

江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。
(江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。)

三条(さんじょう)
西園寺(さいおんじ)
徳大寺(とくだいじ)
久我(こが)
花山院(かざんいん)
大炊御門(おおいのみかど)
菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ)
の7家。

久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。
村上源氏

ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。

江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。
広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏
醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。
3大臣家
(だいじんけ)
清華家の分家。
摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。
大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。
(まれに右大臣になる人もいた。)

太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。

正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが)
-> 三条家の分家。藤原氏。

三条西(さんじょうにし)
-> 正親町三条の分家。藤原氏。

中院(なかのいん)
-> 久我の分家。村上源氏。

の3家。
4羽林家
(うりんけ)
近衛少将・中将になる。
参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。

軍事を担当する。
江戸時代には大名家に与えられた。

藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家)
藤原南家: 4家
村上源氏: 8家(久我の分家)
宇多源氏: 3家

数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。
4名家
(めいけ / めいか)
序列は羽林家と同じ。
最高位も同じで大納言
(例外で左大臣になる人もいた。)

天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。
羽林家は武門に対して名家は文官。

藤原北家: 25家
桓武平氏: 3家

平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。
5半家
(はんけ)
大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。
(上流貴族でも政権中枢に入れない)

特殊技能を使って朝廷の仕事をした。

藤原北家: 2家
清和源氏: 1家
宇多源氏: 2家
花山源氏: 1家
桓武平氏: 2家
菅原氏(すがわら): 6家
清原氏(きよはら): 3家
大中臣氏(おおなかとみ): 1家
卜部氏(うらべ): 4家
安倍氏(あべ): 2家
丹波氏(たんば): 1家
大江氏(おおえ): 1家

いろいろな氏族が入っている。
菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。

清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。

大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。
古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。

卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。

安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。
(神話の話で信憑性も薄い。)

安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。
陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。

丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。
医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。

大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。
土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。
(ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。)

上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。
堂上家

表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。

堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。

堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。

また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。

これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。

正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
堂上家無条件に清涼殿への出入りが許される。
政権中枢の人しかいない。

今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
殿上人本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。
実態は堂上家が認め天皇が追認。

この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。

今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。

正六位上
以下
地下家清涼殿への出入りが許されない。
位階と家柄

朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。

位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

なぜ清和源氏は武士が多いのか?

嵯峨源氏左大臣・右大臣を多く出しています。仁明文徳源氏も大納言などを出した有力な政治家一門でした。

しかし、清和源氏までなると政権に人を出せてません。源氏は21も系統があるのに時代が経ってくると中央政界に人が出せなくなります。

(じっさいは出せているが地味。個人でのし上がる人はいたが一族としては目立った活躍は少ない。)

藤原氏がどんどん大きくなってそのポストが無くなってきたから。

(藤原氏でさえ人が多くポストがなくて地方役人になる人が出ていた。)

清和源氏の武士の祖先は国司です。国司は県知事みたいなもの。中央政界でポストが無くなって地方に飛ばされた人たちの中から有力な武士は生まれました。

それが数百年後には藤原氏からも権力を取ることになります。長いスパンをかけたリベンジ。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

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