歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
安康天皇(あんこう)は、臣下にだまされて叔父さんを殺してしまい、その復讐で暗殺されます。
歴代天皇で暗殺された最初の天皇で、歴代でも暗殺されたのはたった二人。悪い意味で貴重な天皇になってしまいました。
皇后が一番やるせなかったかもしれない。息子が夫を殺したんだから。
先史・古代 古墳時代
- 皇居
石上穴穂宮
(いそのかみのあなほのみや)
- 生没年
- 401年 ~ 456年8月9日
履中天皇2 ~ 安康天皇3年
56? 才
- 在位
- 454年12月14日 ~ 456年8月9日
允恭天皇42 ~ 安康天皇3年
3? 年
- 名前
- 穴穂尊
(あなほ の みこと)
- 父
第19代 允恭天皇
(いんぎょう)
- 母
忍坂大中姫命
(おしさか の おおなかつひめ の みこと)稚野毛二派皇子の娘
(わかぬけふたまた の みこ)
- 皇后
中蒂姫命
(なかし の ひめ の みこと)第17代 履中天皇の娘
(りちゅう)
許されぬ皇太子の恋
穴穂尊(あなほ の みこと。のちの安康天皇)の父・允恭天皇は、第1皇子の木梨軽皇子(きなし の かる の みこ)を皇太子にしていました。穴穂の兄です。
でもこのアニキ、やっちゃいます。母もおなじ妹・軽大娘皇女(かるのおおいらつめ の ひめみこ)と恋仲になってしまいます。
当時、母がちがえば兄妹で結婚できました。でも同母兄妹はタブーです。皇太子は臣下たちから見放されてしまいました。
皇太子の伊予心中
允恭天皇が亡くなると臣下たちは穴穂に期待します。反発した皇太子は大臣・大前小前宿禰(おおまえおまえ の すくね。物部氏)をたより、武器を集めました。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
穴穂は宿禰の屋敷をかこんで阻止すると皇太子は降伏し、伊予(愛媛。松山の道後温泉)に島流しされました。
軽大娘は皇太子を追って伊予に行きます。そして二人は心中しました。
臣下たちにかつがれて即位
穴穂は自分の意思だったのか、臣下たちの意見だったのか分かりませんが即位します。安康天皇です。
安康天皇は5世紀後半に活躍したと考えられ、倭の五王のひとり倭国王・興ともいわれます。
それが正しければ、462年までには即位し中国・宋に使者をおくって倭国王・興の称号をもらい安東将軍に任命されました。
倭の五王(わのごおう)
中国の『宋書』に書かれた日本の5人の王のこと。
5世紀のおよそ100年間、日本が中国に貢ぎ物をして、その見返りに王の称号をもらっていた。
それが5人の天皇だったといわれている。(確定していない。)
また、中国の将軍にも任命されていた。
宋書の王 | 与えられた将軍 | 天皇 |
---|---|---|
倭国王・讃 (さん) | ??? | 第16代 仁徳天皇 |
倭国王・珍 (ちん) | 安東将軍 | 第18代 反正天皇 |
倭国王・済 (せい) | 安東将軍 | 第19代 允恭天皇 |
倭国王・興 (こう) | 安東将軍 | 第20代 安康天皇 |
倭国王・武 (ぶ) | 安東大将軍 ↓ 鎮東大将軍 ↓ 征東大将軍? | 第21代 雄略天皇 |
ランク | 将軍 | ランクイメージ |
---|---|---|
1 | 車騎将軍 | 皇帝直属の将軍。 中国軍本体。 戦車・騎馬隊? |
2 | 征東大将軍 | 東部方面司令の大将 |
3 | 鎮東大将軍 | 東部方面司令の中将 |
4 | 安東大将軍 | 東部方面司令の少将 |
5 | 征東将軍 | 東部方面司令の大佐 |
6 | 鎮東将軍 | 東部方面司令の中佐 |
7 | 安東将軍 | 東部方面司令の少佐 |
※ 中国からみた東国を担当する将軍。
※ 『東を征服する』『東を鎮圧する』『東を安定させる』の順にランク付け。
これが日本と中国の本格的な外交のはじまりで、将軍は中国皇帝の部下なので中国の属国になる。安東将軍はランクが低い。
(日本は朝鮮王より低いランクから始まった。それからランクアップしていく。最終的に朝鮮に並んだとかいないとか。このへんは微妙。)
天皇のまわりの豪族たちにも欲しいと日本から要求したので、称号は天皇以外ももらっていた。
九州などの豪族たちも、ヤマトを無視して称号をもらっていたとされる。
損をしているように見えるが、中国の世界最先端の技術・文明が日本に入ってきた。
このとき、母系社会の日本に男尊女卑・男系思想が入ってきたと言われる。
当時の中国は南北朝時代で、日本は南朝の宋(劉宋)と国交を結んでいた。
(北朝はすぐに東西に分裂し南朝よりも不安定だった。)
臣下のウソで叔父さんを殺してしまう
即位した年(安康元年)、安康天皇は弟の大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたける の みこと。のちの雄略天皇)に妻を迎えたいと考えます。
そういって、金の冠をわたしました。
安康天皇は大草香皇子を殺してしまいます。そして、大草香の妃・中蒂姫命(なかし の ひめ の みこと)を奪って皇后にしました。
(なんで? 話がぶっ飛びすぎ。)
中蒂姫は大草香の正妃で、いくら古代でも人の正妻をぶんどることはめずらしい。それだけ天皇の怒りが収まらなかったのでしょう。
中蒂姫には大草香とのあいだに皇子がいました。眉輪王(まよわ の おおきみ)です。
安康天皇は皇子を引きとって育てることにしました。
真実を知った皇子が復讐に燃える
安康天皇は眉輪王のことが心配でした。父を殺したのが自分だと知ったらどうなるんだろうと。
こんな話を寝室で皇后・中蒂姫にしているところを、眉輪王は聞いてしまいました。それから皇子は復讐のチャンスをうかがう毎日を過ごします。
あるとき、天皇はパーティーを開き疲れて昼寝をしていたところ、眉輪王は『この日を待っていました』とばかりに天皇を襲い、安康天皇は死んでしまいました。
安康天皇は何才で亡くなったのか記録がありません。この時代は異常に長生きしたりして記録があってもメチャクチャですが。
歴代天皇で暗殺されたのは二人だけで、もうひとりは第32代 崇峻天皇です。
安康天皇はそれだけめずらしい天皇。
これから起きる殺戮のプロローグ
安康天皇は二人の皇子を殺しました。禁断の恋や臣下のウソなどストーリーは面白いですが、血なまぐさい権力闘争がかくれていると考えられます。
次の雄略天皇は、のちのち皇位継承者がいなくなるくらい皆殺しをはじめます。
雄略天皇だけが権力闘争をしていたとは考えられません。殺し合いは安康天皇からはじまっていたのでしょう。