第30代 敏達天皇 疫病でなにもできず。でも嫁は最強

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歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -

敏達天皇(びだつ)はあまり有名ではありません。敏達天皇の時代は疫病が流行って何かをすることができず、敏達天皇が疫病にかかった死んでしまったからです。

ただ嫁は最強です。だってあの史上初の女帝・推古天皇ですから。

先史・古代 古墳時代

  • 皇居
  • 百済大井宮
    (くだらのおおいのみや)

    訳語田幸玉宮
    (おさださきたまのみや)

  • 生没年
  • 538年 ~ 585年8月15日
    宣化天皇3 ~ 敏達天皇14
    48才
  • 在位
  • 572年4月3日 ~ 585年8月15日
    敏達天皇元 ~ 敏達天皇14
    14年
  • 名前
  • 訳語田渟中倉珠敷尊
    (おさだ の ぬなくら の たましき の みこと)
  • 石姫皇女
    (いしひめ の ひめみこ)

    宣化天皇の皇女

  • 皇后
  • 息長広姫
    (おきなが の ひろひめ)

    息長眞手王の娘
    (おきなが の まて の おおきみ)

  • 皇后
  • 豊御食炊屋姫
    (とよみけかしきやひめ)

    額田部皇女
    (ぬかたべ の ひめみこ)

    第33代 推古天皇
    (すいこ)

新世代政権発足

敏達天皇は先代・欽明天皇の第2皇子で、先代から『新羅を必ず討て。そして任那を再興せよ。』と言われて始まります。

政権も新世代に一新しました。

大連物部尾輿(父)-> 物部守屋(子。もののべ の もりや)
大臣蘇我稲目(父)-> 蘇我馬子(子。そが の うまこ)
任那(みまな)

古代の朝鮮半島南東部にあった倭人の支配エリア。伽耶(かや)ともいわれる。

前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。

ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、この任那の支配権をめぐって新羅・高句麗と対立したのが原因。

百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。

大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は、300年5代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけうちのすくね)の子孫たちで占められる。

大連は、ヤマト王権では軍事・警察を担当した。

よく、大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰が伝説の臣下なのであてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないとの説で説明される。

しかしこれは、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかどうかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

ただこの二人、仏教をめぐって対立します。犬猿の仲です。

敏達天皇は、仏教を信じてはいませんでしたが、歴史などの教養として興味を持っていたようです。そして、馬子が仏教を信じることを許していました。

新政権の不運

敏達天皇は運のない人です。政権を一新してやる気を出したのはよいですが、いきなり疫病が流行って多くの死者が出てしまいます。

そして、反仏教派の物部守屋などは『仏教のせいだ!』と天皇に直談判します。

敏達天皇がそれを受け入れたことで、守屋は仏像や寺を焼くだけでなく坊主を捕まえてむち打ちにしたりもしました。たんなる逆恨みの虐待です。

すると今度は同じ年に、天皇と守屋が疱瘡にかかってしまいました。

疱瘡(ほうそう)

天然痘(てんねんとう)のこと。ウィルス感染する病気で昔は大量の死者を出した。

じんましんみたいに発疹が出る。昔はもっとも恐れられていた病気の1つ。

これがきっかけで、任那再興のために朝鮮半島に使者を送る予定がなくなってしまいます。

また今度は、『仏教のせいにしていろんなものを壊したり人を殺したりしたからバチが当たったのではないか?』とまで言われてしまいます。

敏達天皇はその年に疱瘡が重くなり亡くなります。48才でした。

敏達天皇には有名な肖像画がありません。このページのトップ画像が肖像画でないのもそのためです。

疫病が蔓延した世の中で疫病で死んでしまったので、後世の人間があまり触れたくなかったのかもしれません。

2人の皇后をもつ

敏達天皇には2人の皇后がいます。500年くらいさかのぼらないと例がない珍しいことでした。

これには蘇我氏の強引な割込みがあったと思われます。額田部皇女(のちの推古天皇)は蘇我馬子の姉の娘なので、馬子の姪っ子になります。

蘇我氏にとっては、蘇我の血筋をもつ皇后を出すことで権力を掌握したかったのでしょう。その最初の蘇我系皇后が額田部皇女です。

皇后が生んだ皇子は、天皇候補の筆頭になるのでほかの妃とは別格です。

蘇我系皇后の目的は蘇我系天皇を産むことです。

なぜ、敏達天皇の長男は天皇にならなかったのか?

敏達天皇には長男がいました。押坂彦人大兄皇子(おしさか の ひこひと の おおえ の みこ)です。

しかし、皇子は天皇になっていません。理由は2つ考えられます。

  • 年齢が若かった。
  • 非蘇我系

まずは年齢が若かったこと。敏達天皇は48才で亡くなっているので、20才のときに生まれた息子だとすると28才です。

欽明天皇のときもそうでしたが、28才は『天皇になるには若すぎる』年齢です。欽明天皇は30才で即位しましたが、はじめは若いことを理由に即位を拒否しています。

そして、一番の理由は『非蘇我系』だったこと。系図にあるように、敏達天皇のあとは兄弟たちでリレーしています。

このリレーはすべて蘇我系天皇です。

天皇
用明天皇蘇我堅塩媛
崇峻天皇蘇我小姉君
推古天皇蘇我堅塩媛
30-33 emperor image
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

押坂彦人大兄皇子の母親は皇后・息長広姫で額田部皇女(のちの推古天皇)ではありません。

これが、蘇我系天皇を即位させたい蘇我馬子からすると皇子は邪魔な存在です。殺したかったでしょう。

蘇我馬子は、気に入らない人は皇族だろうが誰だろうが殺していました。じっさい、のちに即位する崇峻天皇は馬子に暗殺されます。

皇子も目立った活躍はしていません。本人が命の危険を感じてそうしていたのか、馬子に干されていたのかはなぞです。

ただ孫たちの活躍を見ると、それなりの人物だったと思われます。

押坂彦人大兄皇子は天皇になれませんでしたが、皇子の子孫たちが天皇になり中央集権国家を作っていきます。

そして、古代の有名な事件の乙巳の変を起こすのも皇子のひ孫・中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)です。

乙巳の変(いっしのへん)

645年、第35代 皇極天皇(こうぎょく)の目の前で、息子で皇太子の中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)が蘇我入鹿(そがの いるか)を殺害した事件。これで蘇我氏は一気に衰退する。

-> くわしくは皇極天皇のところで

これをきっかけに、天皇中心の国家建設を目指す政治運動が始まる(大化の改新(たいかのかいしん))。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

推古天皇は、敏達天皇の皇后ですが腹違いの妹です。

敏達天皇と推古天皇は兄妹婚です。

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第31代 用明天皇 蘇我 vs 物部の抗争のバランスを取ろうとするが事態は激化
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天皇・皇室の本
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天皇の本10選

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