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第11代 垂仁天皇。ヤマト王権・2代目リーダー奮闘記。伊勢神宮を建て出雲大社を改装する。

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歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -

垂仁天皇(すいにん)は、父・崇神天皇が作ったヤマト王権を引きつぎます。

その道はかんたんではなく、皇后を殺してしまった悲しい天皇でした。

一番の功績は伊勢神宮の創建でしょう。アマテラスを祀る場所が三重の伊勢にあるのはこの人のおかげ。また、出雲大社の大掛かりな改装もしました。

先史・古代 古墳時代

  • 皇居
  • 纏向珠城宮
    (まきむくのたまきのみや)

  • 生没年
  • 紀元前69年1月1日 ~ 70年7月14日
    崇神天皇29年 ~ 垂仁天皇99年
    153?, 140? 才
  • 在位
  • 紀元前29年1月2日 ~ 70年7月14日
    垂仁天皇元年 ~ 垂仁天皇99年
    99? 年
  • 名前
  • 活目入彦五十狭茅尊
    (いくめいりびこ い さち の みこと)
  • 御間城姫命
    (みまきひめ の みこと)

    大彦命のむすめ
    (おおびこ の みこと)

  • 皇后
  • 狭穂姫命
    (さほびめ の みこと)

    彦坐王のむすめ
    (ひこいます の おう)

  • 皇后
  • 日葉酢媛命
    (ひばすひめ の みこと)

    丹波道主命のむすめ
    (たには の みちぬし の みこと)

兄をさしおいて後継者に指名される

先代で父・崇神天皇は元気なうちから、たくさんいる息子の中から二人を後継者候補にしていました。

そこで、きっちり後継者を決めることにします。

崇神天皇
崇神天皇 image
夢を見なさい。そしてその内容を知らせるように。

と皇子に命令しました。崇神天皇は夢占いで決めようとしたんですね?

兄・豊城入彦命
古墳時代の人
御諸山にのぼって東に向いて、8回槍をつきだし、8回刀を空にふりかざしました。
弟・活目入彦五十狭茅尊
古墳時代の人
御諸山にのぼって、四方に縄をはり、クリを食べようとするスズメを追い払いました。

兄弟はちがう答えを言いました。

崇神天皇
崇神天皇 image
兄は東を向いたので東国を治めるのがいいだろう。弟は四方に目配りしたので、わが位を継ぐのがいいだろう。

弟の活目入彦五十狭茅尊を選びます。

弟は崇神天皇が亡くなると即位しました。垂仁天皇です。

ストーリー調になってますが弟が即位するのは当然でした。弟は皇后の子どもで兄は妃の子ども。皇后はもともと皇族、妃は臣下の娘。

母の身分の差で決めました。

11代 垂仁天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

垂仁天皇は第3皇子。もうひとりの兄はどうなってるのか分からない。

父に似ていい人

垂仁天皇は幼いころからしっかり者で、大人になると超人的な心の広さをもっていたそうです。

3世紀後半(西暦200年代)に活躍したといわれます。

あれ? と思うでしょう。日本書紀では、さらに300年くらい前のはず。

おそらく正解は3世紀後半です。これは考古学の研究の結果で、日本書紀は初代・神武天皇の生まれた年に合わせてるから。

神武天皇の生まれた年が合っているかはだれにも分かりません。

垂仁2年、垂仁天皇は都を纏向(まきむく)の珠城宮(たまきのみや)にうつしました。

纏向遺跡って有名ですよね? そのころの人です。

皇后の禁断の恋。悲しい結末

都をうつした年(垂仁2年)、垂仁天皇は、お祖父ちゃん・開化天皇の孫娘・狭穂姫命(さほびめ の みこと)を皇后に迎えます。

狭穂姫には兄・狭穂彦王(さほひこ の きみ)がいました。この兄ちゃんがやらかす。

天皇暗殺を皇后に命令

狭穂彦と狭穂姫は両親が同じ兄妹でした。でもこの二人、禁断の恋仲だったといわれます。

あるとき兄は、

狭穂彦
古墳時代の人
オレと旦那のどっちを愛してるんだ?

妹に問いつめます。

狭穂姫
empress image
兄さまです...

天皇を愛しながら、思わず答えてしまいました。

すると兄は、天皇を暗殺しろといって妹にナイフをわたします。自分が天皇の地位と妹の両方を奪おうとしたんですね?

むかしの皇族は母ちがいの兄妹の結婚はあたりまえ。でも、両親が同じはタブー。

皇后が天皇を暗殺する?

皇后は、となりで寝ている天皇を殺そうとします。3回ナイフをふり上げましたができませんでした。

そして涙を流します。

その涙が天皇のほっぺに落ち、天皇は目が覚めました。

皇后は正直に話します。

垂仁天皇は何人も妻がいましたが皇后のことをいちばん愛してたので、正直に言ってくれた皇后を慰めました。

垂仁天皇は目覚めがいいですね? 個人の感想ですが、目が覚めていきなりこんなこと言われたら『???』しかないでしょう。理解するのに30分はかかります。

天皇の怒り爆発!

垂仁天皇は討伐するために狭穂彦の城を囲みます。兄をかばおうと皇后は城の中に入ってしまいました。

このとき皇后のお腹のなかには天皇の子どもがいました。そして、城の中で出産します。

天皇は攻めることができません。皇后と子どもを城から出すために何度も説得しますが、皇后はすでに心を決めていました。

息子だけを城から出すと。

息子を救出した天皇は泣く泣く城を攻めます。狭穂彦王・狭穂姫の兄妹はいっしょに死んでしまいました。

天皇はこの息子を大事に育てることにしました。

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炎に包まれる狭穂姫命(月岡芳年画)by Wikipedia

出雲大社の神殿を新しく作り直す

垂仁天皇と狭穂姫命のあいだには誉津別命(ほむつわけ の みこと)という皇子がいました。

兵に囲まれた城で生まれた、あの皇子です。でも大人になってもまったくしゃべりません。

『古事記』では、垂仁天皇の夢に出雲のカミ(オオクニヌシ)があらわれ、

古墳時代の人
わたしの御殿を天皇の宮殿のように立派なものにすれば、その子はしゃべるようになるだろう。

と言います。

天皇は、使いを出雲に行かせて拝ませました。すると、誉津別はしゃべるようになりました。

これに喜んだ垂仁天皇は、お告げのとおり出雲大社を作り直します。

日本書紀にも同じようなエピソードがある。

垂仁天皇には、奇病なのか分からないけれど、しゃべれない息子がいたのだろう。

伊勢神宮を建てる

垂仁天皇は、神道の祭主の役割も父から受けつぎます。父・崇神天皇と同じように天のカミと地上のカミを大事にしました。

天神地祇(あまつかみくにつかみ)

日本のカミは大きく天界のカミと地上(国土)のカミに分かれる。

天のカミあまつかみ。
てんじん。
天津神。
天神。
天上界で生まれたカミ。
地のカミくにつかみ。
ちぎ。
国津神。
地祇。
地上界で生まれたカミ。

天のカミの代表はアマテラス(天照大神)。地のカミの代表はオオクニヌシ(大国主大神)。

アマテラスは伊勢神宮の内宮、オオクニヌシは出雲大社に祀られている。

オオクニヌシの先祖はスサノオで、アマテラスとスサノオは姉弟。

ふたりはケンカ別れをしているので天津神と国津神は系統がちがう。

この分別は、日本列島に国が作られていく過程と関係が深く、天津神は天皇とそのまわりの氏族、国津神はそれぞれの地域で独立していた豪族をあらわす。

天津神の子孫、初代・神武天皇は、国津神の子孫の豪族たちを味方につけながら、戦争して討伐しながら天下統一を目指し、ヤマト(奈良)に都を作った。

垂仁25年、新しい皇后・日葉酢媛命(ひばすひめ の みこと)を迎えていた天皇は、皇后との娘・倭姫命(やまとひめ の みこと)にアマテラスを祀る場所を探させました。

倭姫は全国を探し回り、アマテラスの声にしたがって五十鈴川のほとりに祠を建てます。

これが伊勢神宮のはじまり。

伊勢神宮は、最初から女性が中心になってはじまりました。

アマテラスも女性神だし。

いまでも、伊勢神宮のトップは女性皇族(だった人)。しかも天皇陛下の娘がつとめます。

いまは上皇陛下の娘で天皇陛下の妹・黒田清子さま。

伊勢神宮には別に宮司(男性)がいてツートップ制。明治維新までは中臣氏が代々務めてきた。

出雲大社と伊勢神宮の両方を大事にしたというエピソードには、

天皇の系統とか地方の豪族とか関係なく、みんなで一丸となって国づくりしようぜ!

というメッセージがある。

天のカミ = 天皇の系統

地のカミ = 豪族

を表すので。

カミサマを系統関係なく大事にするのが『神道』。国づくりの中でよく出てくるので、日本国と神道は切りはなせない。

神道は犬猿の仲のカミを仲直りさせてきたと言い換えてもいい。

相撲の力士が埴輪の生みの親

当時の墓は古墳ですが、完成したときエライ人の遺体といっしょに部下など何人もの人を生き埋めにしました。

墓の主の威厳がなくならないように。さみしくないように。

これを天皇は、

垂仁天皇 image
昔からのしきたりといっても、良くないものはやらなくていい。

といって殉死(じゅんし)を禁止します。

代わりに、野見宿禰(のみ の すくね)に土偶を作らせて、それを埋めました。

これが埴輪(はにわ)のはじまりです。

野見宿禰は、相撲の元祖ともいわれます。

NHKからすると『神さま 仏さま 野見さま』です。『おーい!はに丸』『大相撲』の二つのキラーコンテンツの生みの親ですから。

(『おーい!はに丸』は30年前(1989年)に終わってるが。)

野見宿禰はもともとモノづくりが得意な人で、土師氏(はじし)の祖。

だから埴輪も作れたんですね?

これが天皇に気に入られ、土師氏は古墳の造営や葬儀関係の仕事を担当していた。

外交に力を入れる国際派

垂仁天皇は、外国と活発に交流しました。

先代・崇神天皇のとき来日していた、朝鮮半島の任那の王子・蘇那曷叱知(そなかしち)と交流し、新羅の王子・天日槍(あめ の ひほこ)が来日しています。

任那(みまな) 

もともと朝鮮半島中南部に小国家群(馬韓)があり、3~6世紀中ごろは加羅(から)、もしくは伽耶(かや)と呼ばれた。

その一部にあった倭人の支配エリアを任那という。

任那は日本からみた呼び名で、加羅全体を指しているのか、倭人エリアだけを指しているのかよく分からない。

前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。

ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、任那の支配権をめぐって新羅や高句麗と対立したのが原因。

百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。

不老不死の果実が間に合わず死亡

垂仁天皇は、父と同じように治水工事などを行ない農業の発展に力をつくしました。

世の中は安定したといわれます。2代目リーダーは見事に父の仕事を引きついでやり遂げました。

垂仁90年、田道間守(たじまもり)を常世国(とこよ の くに)に派遣して不老不死の果実を探させます。

(常世国は海の彼方にある異世界。桃源郷。理想郷。)

10年後、田道間守は果実をもって帰ってきますが、垂仁天皇は1年前に亡くなっていました。

田道間守はショックで死んでしまった、自殺したといわれます。

垂仁天皇は、古事記では153才、日本書紀では140才で亡くなったとされます。

この果実は『非時の香菓』(ときじくのかぐのみ)で、橘(タチバナ。ミカンの仲間)のこと。

このエピソードから、田道間守はいまでも『お菓子の神さま』として有名。

スイーツ関連の仕事をしている人には馴染みの神さま。

田道間守は、新羅の王子・天日槍の子孫で三宅氏(みやけし)の祖。

大昔の在日朝鮮人ですね?

今だに在日朝鮮人を区別(ひどいと差別)する人がいますが、日本人のルーツに朝鮮人は欠かせません。

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天皇・皇室の本

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