
日本の歴代天皇には、8人10代の女性天皇(女帝)がいました。推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳、明正、元正の女帝たちです。
日本が独立国家として宣言したときは推古天皇で、日本という国の名前、天皇という号が制定されたときは持統上皇がおり、日本という国家が生まれ、制度を確立したときは女帝の時代でした。
ちまたでよく言われる『女帝は中継ぎの役割だった』と片づけるにはもったいないほど女帝は活躍しています。
日本という国家は、女性天皇を中心に作り上げたといっても良いくらいです。
記事を書いていくごとに、天皇の名前のところにリンクを貼っていきます。
先史・古代 古墳時代
ヤマト王権最大のリーダーシップを発揮する女傑
いわゆる古墳時代になります。古墳の造営がいつからはじまったのかは諸説あるので、『いわゆる』です。
このあたりから、徐々にヤマトによる中央集権国家の成立へ向かっていきます。
西暦201年から269年まで天皇は不在で、約70年間リーダーを務めたのは、神功皇后(じんぐうこうごう)です。以前は、神功皇后は第15代天皇として数えられていたのですが、大正15年10月の詔書により歴代天皇から外れました。
神功皇后が天皇の政務を行った時代は、卑弥呼の時代と重なります。日本書紀では神功皇后と卑弥呼は同一人物かのように書かれているといわれています。
- | 神功皇后 | じんぐう | 201 | 仲哀天皇の妃であり応神天皇の母。 仲哀天皇の崩御により、皇后のまま天皇の職務を引き継ぐ。 古事記で記される最大のヒロイン。 |
古代 飛鳥時代
天皇の『歴史』の始まりは女性天皇から
推古天皇より前は、時代が古くなればなるほど、天皇の生没年、即位年がはっきりとしなくなります。
これは、推古天皇の時代から数えて1260年さかのぼった年を初代 神武天皇の即位年(紀元前660年)としているためで、推古天皇より前の天皇の年齢、在位期間は、この数字とつじつまを合わせるために決められたという指摘があるほどです。
はっきりと生没年、即位年が分かっているのは推古天皇からで、推古天皇より前は、厳密にいえば天皇ではなく大王(おおきみ)と呼ばれた王でした。
王から天子(のちに天皇と呼ぶ。対外的にはエンペラー)に格上げしたのも推古天皇からです。
歴史としてはっきりと断定できる天皇は、推古天皇から始まったとしてもよいでしょう。
また、飛鳥時代・奈良時代は、当たり前のように女帝が即位した時代でもありました。第32代から第49代までの18代の天皇のうち8人10代が女帝です。
半数以上が女帝だったということは忘れてはいけません。
33 | 推古 | すいこ | 592 | 崇峻天皇暗殺の黒幕・蘇我馬子の後ろ盾で姪っ子の額田部皇女が即位。日本で最初の女帝。 甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政にして共に政務を行なった。 大王(おおきみ)から天子(後の天皇)に格上げし、日本が外国と対等に付き合うための独立を宣言する。 |
35 | 皇極 | こうぎょく | 642 | 息子の中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害するのを目の前で目撃する。(乙巳の変) 歴代天皇の中で初めて譲位(生前退位)を行う。 |
37 | 斉明 | さいめい | 655 | 皇極天皇と同一人物。退位していた皇極天皇がふたたび天皇に即位する。(重祚) 歴代天皇の中で初めて重祚した天皇。 |
41 | 持統 | じとう | 690 | 天皇という呼称、日本という国号が制定された時に天皇、上皇となり、日本という国家を整備するのに尽力する。 孫の文武天皇に皇位を譲位し、歴代天皇の中で初めて太上天皇(上皇)になる。 |
乙巳の変(いっしのへん)
645年、第35代 皇極天皇(こうぎょく)の目の前で、息子で皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が蘇我入鹿(そがの いるか)を殺害した事件。
これをきっかけに、天皇中心の国家建設を目指す政治運動が始まる(大化の改新(たいかのかいしん))。
重祚(ちょうそ)
一度退位した天皇が再び天皇になること。
二度目のときの名前は新しく付けられる。
男性天皇は1人も重祚していない。

古代 奈良時代
43 | 元明 | げんめい | 707 | 息子で先代の文武天皇が幼い後継者を残して亡くなったので即位する。 歴代天皇の中で息子から母へ皇位が継承された唯一の例。都を平城京へ遷す。 |
44 | 元正 | げんしょう | 715 | 歴代天皇の中で唯一母親から娘へ皇位が継承された女帝。 |
46 | 孝謙 | こうけん | 749 | 日本の歴史の中で唯一女性の皇太子となる。 仏教を深く信仰したことで知られる。 |
48 | 称徳 | しょうとく | 764 | 孝謙天皇と同一人物。孝謙上皇が重祚して即位する。 皇位を皇族でない僧の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)へ譲ろうとしたことが有名。(道鏡事件) |

近世 江戸時代
男系社会が当たり前になっている中で即位した女帝
古代の第48代 称徳天皇から約860年ぶりに女性天皇が即位します。第177代 後桜町天皇は今のところ最後の女帝です。
109 | 明正 | めいしょう | 1629 | 父親・後水尾天皇が徳川幕府にブチ切れして即位する。 2代将軍 徳川秀忠、正室 お江の方の孫娘。 織田・浅井・徳川家の血を受け継ぎ、さらに豊臣家の親戚。 |
117 | 後桜町 | ごさくらまち | 1762 | いまのところ、最後の女帝にして最後の院 |
院(いん)
上皇の住居。そこから上皇の別称として使われるようになる。
在位中の天皇が亡くなったときに追号として贈られるようになる。(亡くなったら上皇になるということ。)
天皇の皇后を経験した人にも贈られるようになった。(女院)
第52代 嵯峨天皇に始まり第117代 後桜町天皇まで使われる。

女性天皇はパイオニア
歴代の女性天皇は、日本の歴史、天皇の歴史の中で重要なことを初めて行なっています。
養老律令(ようろうりつりょう)
757年、孝謙天皇の時代に施行された律令。701年に成立した大宝律令の修正版とされている。古代。平安時代の半世紀前。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
譲位は、明治より前は当たり前に行われ、むしろ亡くなってから次の天皇が即位するほうが例外に見えるほどです。
また、「日本」「天皇」「上皇」という呼び方は、現在でも当たり前のように使われます。
律と令の整備を行うことは、一人前の国家として認められるには必要なことでした。現在でも「法治国家であること」は、国家として一人前であることの証です。
女性天皇は、こんなにも日本にとって重要なことを初めて行いました。これだけ見ても、決して『女帝は次の男帝のための中継ぎだった』ではないでしょう。
彼女たちは「中継ぎ」に甘んじることなく、天皇の立場からできる限りの努力を行っていることが分かります。むしろ彼女たちの功績は大きいと言えるでしょう。
現在の学説では、『女帝は次の男帝のための中継ぎだった』は否定されています。
それぞれの女帝を1人1人見て判断するというのが主流です。その中で、大した功績がない『中継ぎだった』と言われている人もいます。