第15代? 神功皇后 かつて歴代天皇に数えられた女傑。応神天皇の母

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日本史略図会 第十五代神功皇后(月岡芳年筆)by Wikipedia

歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -

神功皇后(じんぐう)は、第14代 仲哀天皇の妻で第15代 応神天皇の母です。

かつては第15代天皇として数えられ、最初の女帝でした。歴代天皇から外れたのはつい最近です。

先史・古代 古墳時代

  • 皇居
  • 磐余稚桜宮
    (いわれのわかざくらのみや)

  • 生没年
  • 170年?月?日 ~ 269年4月17日
    成務天皇40年 ~ 神功69年
    100? 才
  • 称制
  • 201年10月2日 ~ 269年4月17日
    神功元年 ~ 神功69年
    70? 年
  • 在位
  • 名前
  • 気長足姫尊
    (おきながたらしひめ の みこと)
  • 気長宿禰王
    (おきなが の すくね の おおきみ)
  • 葛城高顙媛
    (かずらき の たかぬかひめ)

長いあいだ第15代天皇だった

神功皇后は第14代 仲哀天皇の皇后で、第15代 応神天皇の母です。長いあいだ歴代天皇(第15代)に数えられていました。

このページの最初の画像も『日本史略図会 第十五代神功皇后』です。

神功皇后 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

日本書紀で唯一、天皇じゃないのに主役

日本書紀は、第40代 天武天皇が作らせた『公式の日本の歴史』です。全30巻で、基本はひとりの天皇について1巻にまとめられ、その天皇が主役です。

そのなかで、神功皇后は第9巻の主役です。1巻の中に複数人がまとめられた天皇もいるのに。

どうみても『天皇』あつかいです。

天武天皇は唯一、ひとりで2巻 (第28, 29巻)を使っています。作るのを命令した人なので『忖度』(そんたく)したんですね?

古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)

第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。

ふたつあわせて記紀(きき)いう。

それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない紛失でいまは存在しない。

飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。

歴代天皇でも3人しかいない『神』がつく

ふだん知られている天皇の名前は、漢風諡です。中国風の戒名ですね?『チャン』『リー』みたいなもんです。

8世紀の第44代 元正天皇が亡くなったとき歴代天皇に一気に諡をつけました。400年後くらいのことです。

そのなかで、『神』のついた天皇は3人しかいません。皇后では神功皇后だけです。

初代神武天皇ヤマトに都を作る
第10代崇神天皇ヤマト王権の創始者。
国内を整備。
日本列島に初期国家の誕生。
第15代
(かつて)
神功皇后ヤマト王権がはじめて外国と本格的な戦争をする。
第15代応神天皇ヤマト王権に、海外の情報と技術を取り入れる。
ヤマト王権の海外デビュー。
産業・文化の面で一気に発展。

表にあるように、これらの天皇は日本列島に国家が作られる過程のターニングポイントです。

だから400年後の人が評価したんですね?神功皇后の評価もおなじくらいです。ほかの天皇をさしおいて。

大正15年、歴代天皇からはずれる

明治までは、中国の『新唐書』『宗書』などの内容から、神功皇后の時代は臨朝(臨時の朝廷)で帝でした。

そんななか、江戸時代には『神功皇后はほんとうにいたのか?』の論争がはじまります。そして大正15年、詔書で歴代天皇からはずれました。

上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)

上奏

政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。

勅・詔

天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。

詔勅(しょうちょく)ともいう。

勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。

1945年の玉音放送は、詔書。

天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。

明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。

これは、新天皇・昭和天皇よりも発言力が大きかった大正天皇の皇后(貞明皇后(ていめい))が、天皇より上の存在がいてはいけないと思う政府が決めたという人もいます。

明治新政府は、かつてはいた女帝の誕生すら認めないくらい、当時は男尊女卑の世の中でした。それも影響したのでしょう。

明治から1945年の敗戦まで、子どもの教育では実在の人として教えられました。

敗戦後、GHQの命令で教科書から一斉に削除されます。この反動で戦後は否定が主流になりました。いまでもその空気は強いです。

天皇不在の69年

神功皇后が天皇ではないので、天皇がいなかった69年の空白期間があります。

この期間は神功皇后の称制というのがいまの解釈です。息子・誉田別尊(ほむたわけ の みこと。のちの応神天皇)はそのほとんどの期間、皇太子で摂政でした。

推古天皇と聖徳太子の関係とおなじですね?

称制(しょうせい)

天皇がいない状態で代わりの人が政務をとること。

皇太子や皇后が代わりをつとめた。

神功皇后や天智天皇など。

旦那さんを殺したカミさまの言うことを聞く

ここから神功皇后はどんな人なのか?をみていきます。

皇后の夫・仲哀天皇はカミサマに殺されました。そのときカミが降りていたのは皇后です。イタコとはいえ、自分の手で殺したようなものです。

そしてカミは次の天皇も指名しました。伝説の臣下・武内宿禰とはなしをします。

武内宿禰(たけしうち の すくね)

第13代~16代の成務仲哀応神仁徳の4代の天皇に仕えた。

成務天皇と同じ日に生まれ、300才まで生きたという伝説の臣下。

最初の大臣になる。のちに大臣は政治の最高責任者になるが、それをつとめた豪族は宿禰の子孫だといわれる。葛城氏蘇我氏など。

大化の改新で藤原氏が台頭するまでつづいた。

大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は、300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。

大連は、ヤマト王権では軍事・警察を担当。

よく、大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰が伝説の臣下なのであてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。

しかしこれは、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかどうかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

神功皇后(カミ)
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この国は皇后のお腹の中にいる子が治めなさい

皇后は妊娠しているのに仲哀天皇といっしょに九州遠征していたんですね?

武内宿禰
古墳時代の人
カミサマ。その子は男の子でしょうか?女の子でしょうか?
神功皇后(カミ)
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男の子である
武内宿禰
古墳時代の人
あなたのお名前を教えてください。
神功皇后(カミ)
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これはアマテラスのお心である。われは住吉三神である。

ここではじめて名乗ります。住吉三神です。だれだか分からない何者かに仲哀天皇が殺されたり、次の天皇を指名されていました。

そりぁ、だれでもビビります。つづけて

神功皇后(カミ)
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天神地祇、山のカミ、川・海のカミ、すべての神々にお供え物をして祈り、わたしの魂を船に乗せて海を渡れ!
天神地祇(あまつかみくにつかみ)

日本のカミは大きく天界のカミと地上(国土)のカミに分かれる。

天のカミあまつかみ。てんじん。天津神。天神。天上界で生まれたカミ。
地のカミくにつかみ。ちぎ。国津神。地祇。地上界で生まれたカミ。

天のカミの代表はアマテラス。地のカミの代表はオオクニヌシ。

アマテラスは伊勢神宮の内宮、オオクニヌシは出雲大社に祀られている。

オオクニヌシの先祖はスサノオで、アマテラスとスサノオは姉弟。

ふたりはケンカ別れをしているので天津神と国津神は系統がちがう。

この分別は、日本列島に国が作られていく過程と関係が深く、天津神は天皇とそのまわりの氏族、国津神はそれぞれの地域で独立していた豪族をあらわす。

天津神の子孫、初代・神武天皇は、国津神の子孫の豪族たちを味方につけながら、戦争して討伐しながら天下統一を目指し、ヤマト(奈良)に都を作った。

仲哀天皇は、朝鮮(新羅)への出兵を命令されたのを無視したので殺されました。こんどは皇后に命令します。

皇后は海を渡って朝鮮に攻め込みます。妊娠しているのに。

この出兵は、日本がはじめて海外で行なう本格的な戦争でした。

神功皇后がはじめて海外で戦争をした。

住吉三神は 住吉神社 にまつられています。海上安全、交通安全のご利益があるので有名です。

皇后が海を渡るのを守ったエピソードがいまのご利益になっています。住吉神社には、神功皇后もまつられています。

新羅討伐(三韓征伐)

皇后は戦争することなく新羅を降伏させます。百済も従属させました。そして、百済の一部を海外の直轄地にします。(任那)

任那(みまな) 

もともと朝鮮半島中南部に小国家群(馬韓)があり、3~6世紀中ごろは加羅(から)、もしくは伽耶(かや)と呼ばれた。

その一部にあった倭人の支配エリアを任那という。

任那は日本からみた呼び名で、加羅全体を指しているのか、倭人エリアだけを指しているのかよく分からない。

前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。

ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、この任那の支配権をめぐって新羅・高句麗と対立したのが原因。

百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。

出産をムリヤリ遅らせる

皇后は新羅遠征の途中、産気づきます。妊娠しているだけじゃなく臨月でした。

皇后は石を腰に巻いてお腹をおさえつけ、出産を遅らせました。

(メチャクチャです。)

筑紫国(ちくしのくに。福岡)に戻ってから皇子を出産します。のちの応神天皇です。

三韓征伐はほんとうか?

日本の記録では神功皇后が朝鮮半島にわたり、新羅・百済・任那を従属させました。

朝鮮半島の記録では、高句麗の第19代王・広開土王の業績をたたえる石碑にあります。

広開土王碑(好太王碑)

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民

( ■■は何が書いてあるか分かっていない )

この解釈は日本サイドと朝鮮サイドでまったくちがいます。かんたんに訳します。

日本百済と新羅は高句麗に貢物をしていて高句麗の属国だった。
しかし、辛卯年(391年)、倭(わ。ヤマト)が海を渡り百済を■■し、新羅を臣民にしてしまった。

(■■は『任那』で、『百済・任那・新羅を破って臣民にした』という解釈もある)
北朝鮮・韓国百済と新羅は高句麗に貢物をしていて高句麗の属国だった。
しかし、辛卯年(391年)に倭が来たので、高句麗が海を渡り、百済を破って新羅の臣民を救った。

ちがいは、『だれが海を渡ってどこを倒したのか?』です。

日本の解釈は、漢文をそのまま読んでいます。『海を渡る』の直前の主語が『倭』なので。

朝鮮の解釈は、文を読んでも分かりません。この石碑は、高句麗の王をたたえる石碑なので、主語が『倭』になるのはおかしい、『高句麗』だろうと解釈しています。

この論争は決着していません。

朝鮮の解釈には異論があります。この漢文のうしろには、三韓を制圧した倭を高句麗が撃退したと言っています。

倭が主語になってもいいんですね?主役は強敵・倭を追い出した高句麗なので。

いま石碑の場所は、中国と北朝鮮の国境ちかくにあり中国領です。

この石碑には、日本陸軍の改ざん説もありました。陸軍が日本の都合のいいように内容を書きかえたという主張です。

40年くらい信じられたはなしです。でも2006年、中国の社会科学院という国家の研究機関が否定しました。

朝鮮に渡ったヤマトはだれか?

朝鮮にわたった倭(ヤマト)はだれなのか分かっていません。九州の豪族、日本海一帯のヤマトの海賊など、いろいろ言われています。

ただ、神功皇后が朝鮮に渡ったはなしがあるので、つじつまは合ってるよね?というところです。

これからの歴史の研究でなにかが変わるかもしれません。

まだ終わらない。都に帰るところでひと波乱

朝鮮半島から九州に戻り、誉田別尊を産んだ神功皇后は船で都に帰ります。ここで用心した皇后は、トラップをかけました。

皇子は死んだ

ことにします。棺桶まで用意して船に乗せました。

皇后は、夫・仲哀天皇の九州遠征から都をはなれているので、もう何年も帰っていません。

九州でも、戦争の疲れを癒したりして急いで帰ることはしませんでした。

側近の武内宿禰もおなじです。都はガラ空きでした。

このトラップに引っかかった皇子がふたりいます。香坂王(かごさか の みこ)と忍熊王(おしくま の みこ)の兄弟です。

神功皇后 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

兄・香坂王は戦の前に死す

兄弟は、神功皇后を殺すことにします。まずは、狩りで吉凶を占いました。誓約狩(うけいがり)といいます。

兄・香坂王は占いで使った大イノシシに殺されてしまいました。

(ダサい。)

弟・忍熊王はどうなった?

弟・忍熊王は占いを恐がらずに挙兵します。神功皇后も応戦します。

ここで皇后側は

古墳時代の人
皇后は亡くなりました。もう戦いません。

とウソをつきます。これに忍熊王は引っかかりました。

武器をおさめた忍熊王の軍は、皇后軍に猛反撃をくらいます。そして、琵琶湖のちかくで全滅させられました。

応神天皇即位

神功皇后は100才で亡くなったといわれます。

そのあと皇太子・誉田別尊は、(みそぎ)のために近江(滋賀)、若狭(福井)に旅をして、越前の敦賀(福井)に仮の宮殿をたてて即位します。

69年もたってようやくお役御免になりました。

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第15代 応神天皇 外の風を取り入れ、ヤマト王権を一気に発展させる
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天皇・皇室の本
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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。


天皇の本10選

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