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征夷大将軍だから権力をもてたわけじゃない。武士の本当の立場。

天下人

ご覧のページは 3 / 4 です。先頭ページはこちら。

国司が国を統治しちゃダメでしょ? になった室町時代

鎌倉幕府を倒したのは第96代 後醍醐天皇ですが、鎌倉の筆頭御家人のひとり足利高氏(あしかが たかうじ)が打倒幕府に動いたのが決定的でした。

高氏は後醍醐天皇をも裏切って室町幕府を開きます。

室町幕府の将軍は鎌倉将軍とちがって、政権中枢の役職にきちんとついてます。地方の長官の国司が国家を統治するいびつな関係を修正しました。

1足利高氏(たかうじ)正二位
権大納言
2足利義詮(よしあきら)正二位
権大納言
3足利義満(よしみつ)従一位
太政大臣
4足利義持(よしもち)従一位
内大臣
5足利義量(よしかず)正四位下
参議
右近衛権中将
6足利義教(よしのり)従一位
左大臣
7足利義勝(よしかつ)従四位下
左近衛中将
8足利義政(よしまさ)従一位
左大臣
9足利義尚(よしひさ)従一位
内大臣
10足利義材(よしき)

のちに義尹(よしただ)
に改名。
従一位
権大納言
11足利義澄(よしずみ)従三位
参議
-
(10)
足利義稙(よしたね)

義尹と同一人物。
義稙に改名。
12足利義晴(よしはる)従三位
権大納言
13足利義輝(よしてる)従三位
参議
左近衛中将
14足利義栄(よしひで)従五位下
左馬頭
15足利義昭(よしあき)従三位
権大納言
室町将軍の役職と位階

どうやら最初は鎌倉最初の将軍・源頼朝を意識したらしい。正二位・権大納言で同じです。後醍醐天皇を追い出してるので遠慮があったのかもしれない。

でも3代将軍・義満は太政大臣まで昇りつめます。平安末期の平清盛以来の快挙。

これを契機に室町将軍は内大臣左大臣など、朝廷の政権中枢のトップになる人が出てきます。

室町幕府を動かしたのは結局、守護大名

室町幕府のリーダーは太政大臣左大臣内大臣がつづいてないのに気づいたでしょうか?

じつは室町幕府は、6代将軍・義教から混乱期に突入します。

後継者争いが絶えず、お互いに守護大名を使って争っていました。逆に言うと、守護大名の代理戦争が将軍の後継争いです。

守護大名は鎌倉幕府の守護から大名になった人たちです。もとを辿れば国司。じっさい国司の長官の守を名乗った人も多いです。

地頭(じとう)と守護(しゅご)

鎌倉政権が朝廷から地方統治を委任されるのにともなって設置された機関。

地頭は地方の長官。守護も同じ。

守護は国ごとに置かれ、地頭は荘園や国衙領(公領)に置かれた。

国衙領は国の直轄領のこと。

それまでの地方の長官だった国司は、鎌倉の力が大きくなるにしたがって守護に置きかわっていく。

国司は朝廷が任命し守護は鎌倉が任命するので、朝廷と鎌倉の力関係が逆転したことで守護が一般的になっていった。

(徐々に国司は自然消滅していく。)

もともと荘園や公領は国司の力が及ばない領域だったので守護の代わりに地頭を置く。

守護は警察・軍事の権利を持ち、地頭は主に荘園や公領のオーナーである朝廷の貴族や天皇・上皇への税金上納の管理をしていた税理士みたいなもの。

しかし、守護が公領に手を出せないのは変わらなかったので、地頭は税理士であると同時に領内の警察官の役割もあった。

じっさいに地頭と守護の上下関係や役割にちがいはなく、土地の性格のちがいで区別される。

守護(地方の)国をる(る)。
地頭オーナーがいる土の管理の

守護と地頭の力関係も各地域でバラバラ。任命された人の力関係による。

室町時代になると、国司時代から手を出せなかった公領に守護が進出し始め地頭は消滅。

(地頭が守護の家来になっていく。)

公領まで手を伸ばした守護は守護大名になり、戦国時代に突入する。

細川氏・畠山氏・山名氏が有名。

数年間、将軍が不在の時もあり、これらの守護大名が合議で幕府を動かしてたこともありました。

結局、国司が中心でした。

室町幕府は最初から最後まで戦国時代?

歴史の教科書では応仁の乱が起きてから戦国の世が来たことになっていますが、室町幕府は最初から『戦国時代』です。

初代将軍・高氏は、将軍になっても戦地に出陣した人で、将軍を息子の義詮に譲っても変わりませんでした。

また、2代将軍・義詮も大変な人で、何度も京都が攻められて逃げています。逃げる・奪還の繰り返し。

当時は高氏が政治を任せていた弟・足利直義(あしかが なおよし)一派と内紛があったり、南北朝に分かれていたので、足利将軍家・守護大名・2つの朝廷が、入り乱れてめちゃくちゃでした。

敵味方もぐちゃぐちゃ。高氏は南朝の敵ですが、直義と対立したとき南朝に助けを求めて自分が立てた北朝の天皇を退位させたり、そのあと南朝と戦争したり。

守護大名たちも、一番お得なところにつくので『昨日の敵は今日は味方。明日は敵』状態。

正直、戦国時代より分かりづらい。

足利将軍も不幸な最後だった人が多く、守護大名に襲撃されて殺された人もいるし、戦国武将さながら。

襲撃されて京都から逃亡・復活劇も多く、守護大名に担がれて戦争ばかりしていたのが室町将軍の実情。

安定していたのは、3~5代の3人の将軍の時代だけ。(6代将軍・義教も将軍らしいリーダーだったが最後は殺された。)

応仁の乱もその延長線上にある一事件として見たほうがいい。

戦国時代。やっぱり国司は強い?

戦国時代は室町時代の延長線上にあります。(正確には室町時代末期に入る。)

戦国時代も室町将軍の後継争いの代理戦争。あまりに将軍の存在感がないので戦国大名が主人公に見えるだけ。

国司の戦争だと見たほうが歴史のつながりが分かりやすいです。

じっさい守や介を名乗った武将は多い。この時代の特長は自称と本当の任官が混ざっていたところ。

織田信長の上総介、羽柴秀吉の筑前守は自称で、徳川家康の駿河守は任官です。

じつは織田信長は朝廷から左大臣の打診をされました。断ってますが。

天下を獲った豊臣秀吉は順調に朝廷の役職をステップアップして、権大納言内大臣関白太政大臣になります。

関白になった武士は秀吉が史上初。秀吉は征夷大将軍になっていません。朝廷のトップを目指しました。

秀吉はそのほとんどを辞任しています。死の間際までもっていたのは太政大臣だけ。

秀吉の『武士のトップは朝廷のトップも兼ねる』が武士のスタンダードになっていく。

後の徳川政権は秀吉より下にいるわけには行かなかった事情もあっただろう。

秀吉の出世がなかったら徳川250年の平和もなかったとも言える。

室町時代はこれが維持できなかった。

次は 江戸幕府。安定は朝廷のトップを張り続けたから。
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