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征夷大将軍だから権力をもてたわけじゃない。武士の本当の立場。

天下人

ご覧のページは 4 / 4 です。先頭ページはこちら。

江戸幕府。安定は朝廷のトップを張り続けたから。

250年もの長期間、安定政権だったのは江戸幕府です。徳川将軍は役職を見ると鎌倉・室町とのちがいが一目瞭然。

1徳川家康(いえやす)従一位
太政大臣
2徳川秀忠(ひでただ)従一位
太政大臣
3徳川家光(いえみつ)従一位
左大臣
4徳川家綱(いえつな)正二位
右大臣
5徳川綱吉(つなよし)正二位
右大臣
6徳川家宣(いえのぶ)正二位
内大臣
7徳川家継(いえつぐ)正二位
内大臣
8徳川吉宗(よしむね)正二位
右大臣
9徳川家重(いえしげ)正二位
内大臣
10徳川家治(いえはる)正二位
右大臣
11徳川家斉(いえなり)従一位
太政大臣
12徳川家慶(いえよし)従一位
左大臣
13徳川家定(いえさだ)正二位
内大臣
14徳川家茂(いえもち)従一位
右大臣
15徳川慶喜(よしのぶ)従一位
内大臣
徳川将軍の位階と役職

徳川将軍は太政大臣になるのが慣例でした。じっさい、ひとりを除いて全員、太政大臣です。

生前に太政大臣になれなかった人は死後に追贈されました。(そのとき位階も正一位に昇進。)

太政大臣になれなかった将軍は最後の慶喜だけ。

慶喜は現役のときは正二位で、賊軍の将になったために一度、位階と役職を剥奪されます。明治になってから従四位に復帰し、明治21年に従一位まで昇進しました。

太政大臣になれなかったのは、廃止された後の大正2年に亡くなったから。

太政官を朝廷から江戸へ移した江戸時代

徳川将軍はスタートから朝廷のトップ太政大臣です。豊臣秀吉が武士でありながら関白・太政大臣にまでなった影響でしょう。

家康からすると秀吉よりも低いと徳川のメンツに関わるし、全国統治の正当性を失うから。

そのおかげか、歴代の徳川将軍は、太政大臣・左大臣右大臣内大臣と常に朝廷の政権中枢のトップを張り続けます。

位階も正二位か従一位。最高位は正一位なんですが、生前に正一位になる人は千何百年の歴史でもめったに現れません。事実上、徳川将軍がここでも朝廷のトップでした。

じゃあ朝廷は何もかも奪われたかというとそうではなく、関白摂政が残りました。

江戸時代の安定は、昔からの日本統治の役割を幕府が正式に受け持っていたからです。天皇の補佐である関白・摂政は朝廷に残し、じっさいに政治をする役職を丸ごとぜんぶ江戸へ移して徳川が担当しました。

京都にも太政大臣・左右大臣・大納言がいたこともある。

そもそも関白は政権中枢の役職を兼務しないとなれない。

ただ京の貴族には、もってる役職で権限を行使する権利はあっても、じっさい使う力がなかった。

藩主も朝廷の役職が決まっていた

江戸幕府は朝廷の政権トップだけを移したんじゃありません。下のクラスも移しました。徳川御三家の藩主は大納言・中納言です。

尾張藩主大納言
紀伊藩主大納言
水戸藩主中納言

それ以外の各藩主は国司。時代劇でもよく〇〇守と聞くのは藩主 = 国司だったから。

ただ藩の数は令制国の数より圧倒的に多かったので、国司だけでは足りず同ランクの朝廷の事務を担当する役所の長官・〇〇頭も藩主に当てます。

どちらも『かみ』と読むので同ランクなのが分かる。

さらに、各藩の家老たちも朝廷の役職を使ってました。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)は長官で大石内蔵助(おおいし くらのすけ)は次官。

(内匠という役所の長官と、内蔵という役所の次官(助)。)

もちろん、幕府の中枢・老中も相応の役職になりました。

徳川御三家で水戸藩だけワンランク下だったのには理由があったと言われる。

水戸藩は御三家の中で唯一、特別な役割があったとされ、もし、朝廷と幕府が衝突したとき、水戸藩だけは朝廷に付くようになっていたというもの。

(仮に幕府が負けたときに徳川氏が滅亡するのを防ぐ役割)

代々水戸藩主は尊王思想を受け継いでいく。水戸黄門の徳川光圀(みと みつくに)が編纂した『大日本史』も、いかに天皇が大事かという教科書だった。

この尊王心は、幕末に尊皇攘夷になって幕府が倒れるきっかけになった。

武家政権の完成形は朝廷の中枢

武家政権は征夷大将軍だから日本を統治できたんじゃありません。学校の歴史では教えませんが、統治してきた人が朝廷の役人のトップだったし、貴族のランクが高かったからです。

幕府を逆に見れば分かります。

江戸幕府は、朝廷の政治をする役職をごっそり幕府に移して『朝廷の役人』として政治をしたので安定しました。

その前の室町幕府も朝廷の一員だったんですが、『朝廷の一勢力』だったので、内部闘争と貴族との競争で安定しませんでした。

(江戸幕府に比べて中途半端。)

鎌倉幕府にいたっては、国司が日本を統治するいびつな状態だったので、別の国司(足利高氏)に倒されました。

(本来、国司の北条得宗家がほかの国司より偉いという理由はない。)

これを見ると徳川家康の頭の良さが際立っています。過去の武家政権をよく見ている。

過去の武家政権江戸幕府
平家政権は朝廷に入りすぎた。

室町は幕府を都に置いたから戦乱が絶
えなかった。
鎌倉のほうが良かった。
あえて江戸に幕府を置く。
鎌倉武士は国司のままだった。

室町は朝廷の貴族とも権力闘争してい
たし、将軍は内部闘争の中心にいた。
太政官をごっそり幕府に移して内部
闘争・反乱を防ぐ。
(役職の厳格なルール化)

同時に朝廷から政治を排除。朝廷
と幕府の役割分担をきちんとした。
(朝廷 vs 武士の排除。)
豊臣政権は一代で終わったが、安定して
いた。
徳川将軍は貴族としてもトップじゃ
ないといけない。

徳川家康は歴史マニアで、中国の兵法書などを読みまくっていた。

鎌倉幕府の実情を記した1級資料の『吾妻鏡』(あづまかがみ)も。

とくに吾妻鏡は家康の愛読書だったとも言われる。

超一流の歴史研究家だった家康だったからできたこと。

当時、日本に合った政治システムが何なのか一番理解していたのは家康かもしれない。

徳川が倒れたのは朝廷そのものが変わってしまったから。

徳川幕府が倒れたのは、部下に仕掛けられたクーデターでした。

ただクーデーターだけで終わったのではありません。じっさい、大政奉還したときはまだ徳川が政権の中枢にいました。

最後の将軍・徳川慶喜は政権返上後に引退していないし、次の政権が安定するまで今まで通り政権運営してていいと朝廷からお墨付きをもらってます。

それをひっくり返したのが岩倉具視や大久保利通。

徳川を政権に残したくない薩摩藩などのクーデーターの首謀者は、朝廷の政権中枢の太政官を解体します。

(太政官は、太政大臣左右大臣大納言などのこと。)

そして新たに太政官を設置しました。

同じ『太政官』なのでチンプンカンプンですが、以前を『だいじょうかん』といい、明治維新後を『だじょうかん』といいます。

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣(令外官)
左大臣
右大臣
内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

岩倉や大久保の狙いは正当な慶喜の失脚の理由づけ

明治維新は完全なクーデーターなので正義はありません。明治新政府が政権を担当する正当性もない。

『だいじょうかん』を『だじょうかん』(太政官)に変えたのは、正当な理由で徳川慶喜を政権から追い出すため。

『だいじょうかん』を解体すれば、そのトップの慶喜が政権にいる正当性は消滅します。

そして、政権を正当に担当する『だじょうかん』に慶喜を入れませんでした。

それが岩倉や大久保の狙いです。

明治維新は大政奉還や明治新政府樹立だけでは成り立っていません。日本の伝統的な政権運営組織『だいじょうかん』が解体され『だじょうかん』に変わったからです。

これが明治維新の実体です。

『だじょうかん』では、太政大臣左右大臣大納言・中納言がごっそり廃止され関白も廃止されました。

明治維新は古代から長年使われてきた律令政治の完全解体でもありました。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

『だじょうかん』に慶喜は入れなかったが徳川は排除されていない。

松平春嶽(まつだいら しゅんがく)は参議として入っていた。

春嶽は越前藩主だったが将軍の弟の子でれっきとした徳川の人。

また、『だいじょうかん』のほぼすべての役職は廃止されたが摂政内大臣だけは残った。

明治新政府は天皇を中心とした政権に戻ったので、天皇を助けるために天皇の一番そばいるものだけを残したと考えられる。

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