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征夷大将軍だから権力をもてたわけじゃない。武士の本当の立場。

天下人

日本の歴史では、武士が国家を統治をした時代が長いので、武士は上級だと思われがちです。しかし本当は、武士も含めて軍人のランクはけっして高いものではありませんでした。

徳川の将軍だって上級だった理由は別のところにあります。

(鎌倉・室町の将軍はそこが足りなくて上手く行かなかった。)

武士は想像しているより上級民ではありません。その理由を探すと武士と呼ばれる軍人が登場する前までさかのぼります。

ということで、日本の歴史を『軍人』にスポットを当ててみていきます。

平安時代の武士

武士・武将は平安中期に出てきたと言われます。もとは地方の長官の国司や地元に根ざした豪族など。

平安時代になると日本の軍事力は軍団長の国司に集中したので、力に自信のある人はそこを目指します。

国司の長官は朝廷の昇殿が許された殿上人で、それを足がかりに朝廷の中枢の人と関わりをもつこともできました。

といっても元々関わりがないと国司になれないので、国司は平氏源氏藤原氏など名のある氏族です。

平安時代の武士の最高の称号は鎮守府将軍です。征夷大将軍ではありません。そして彼らは政権トップを張れるほどの地位まではもらえませんでした。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

くわしくはこちらに書きました。

武士の限界を感じて貴族になった平清盛

最初の武家政権を作ったのは平氏平清盛(たいら の きよもり)ですが、清盛も国司を歴任します。

そのあとは武士の頂点に見切りをつけ、朝廷のトップを目指し太政大臣にまでなりました。

平家の目指したものは武士出身の貴族。じっさいそうなったので、武士の立場を上げてくれるんじゃないかと期待した武士たちに反感を持たれます。

『平家にあらずんば人にあらず』とまで言っていたので、朝廷の貴族にすら反感をもたれました。

むしろこの時代の武士の立場は低いままでした。平氏はそのほかの武士を排除していったので、前よりもひどかったのかもしれません。

結局その不満分子を吸収して平家政権を倒したのが源氏源頼朝(みなもと の よりとも)。

鎌倉幕府のはじまりです。

国司以上になれてない鎌倉幕府

鎌倉時代になっても武士の立場が上がったわけじゃありません。

鎌倉幕府を事実上仕切っていたのは御家人の北条氏です。北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)、得宗と言われる人たち。そのリーダーを執権(しっけん)といいます。

歴代の執権の本当の立場は国司です。最終的に相模守になるようになっていました。

1北条時政(ときまさ)駿河・伊豆守護。
遠江守。
2北条義時(よしとき)相模守。
陸奥守。
3北条泰時(やすとき)駿河守。
武蔵守。
讃岐守。
4北条時氏(ときうじ)修理亮。
若狭守護。
5北条経時(つねとき)武蔵守。
左近衛将監。
6北条時頼(ときより)相模守。
7北条時宗(ときむね)左馬権頭。
相模守。
8北条貞時(さだとき)左馬権頭。
相模守。
9北条高時(たかとき)修理権大夫。
相模守。
歴代執権の役職

ほかの役職もしていますが、ランクとしては国司と同じくらいのもの。

次は国司が日本を統治する不思議

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