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征夷大将軍だから権力をもてたわけじゃない。武士の本当の立場。

天下人

ご覧のページは 2 / 4 です。先頭ページはこちら。

国司が日本を統治する不思議

鎌倉時代は不思議です。国司は地方の長官で国全体を統治する資格はありません。でも幕府の執権は日本の統治をしていました。

元寇襲来のときの北条時宗(ほうじょう ときむね)は、元からの外交文書を受け取りモンゴル帝国と外交を行っています。

(そのとき時宗は元の外交使節の使者を斬首して国交を断絶している。だから戦争になった。)

その正当性は、正式に国家統治を任されていたから。

天皇(朝廷)→ 幕府の将軍 → 執権と2段階の権力委任です。

当たり前じゃないものを当たり前にした源頼朝

2段階の権力委任は、源頼朝(みなもと の よりとも)のちょっと変わった行動にあります。頼朝は平氏を倒したにもかかわらず、朝廷の役職を拒否し続けました。国司にすらなっていません。

頼朝は伊豆に流され罪人になる前、後白河上皇の姉の内親王のお付きの仕事をしていた。

中学生くらいの年だったが、すでに位は国司の長官と同等かそれ以上。殿上人だったかもしれない。

平治の乱も出陣している。(頼朝の初陣)

罪人になったことで位と仕事を剥奪されていた。

『元々俺は偉いんだぜ。下々の仕事はいらねー!』と思っていた?

でも朝廷は日本最大の軍事力を持っている頼朝を放置することもできず、位階だけは昇進させ続けます。

位階(いかい)・官位(かんい)

朝廷の貴族の位。位によって就ける役職が決まっていた。官位相当制(かんいそうとうせい)という。

位と官職のセットのことを官位(かんい)という。

国司や検非違使など、武士がなる役職も同じ。

正一位・従一位をトップに、正従の九位まであった。

正は従より位が上だがあまり差はなく数字のほうが重要視された。

五位以上が朝廷の宮殿に昇殿を許され左右大臣や天皇などと面会できた。

一部の国司の長官(守(かみ))の位は五位。

正一位
従一位
太政大臣
正二位
従二位
左大臣
右大臣
内大臣
正三位大納言
従三位中納言
----- ここから上が政権中枢 -----

右近衛大将
左近衛大将
(軍人のトップ)
従四位下検非違使・別当
(宮中警護の長官)
従五位上国司の守
(地方長官のトップ)

正四位から下位はさらに細かく上・下に別れていた。

(正四位上・正四位下など。)

完全放置すると、天皇・上皇を超えた天下人になるんじゃないかとビビったんですね?

(地頭・守護の設置を認めたのも頼朝を敵に回したくなかったから。)

地頭(じとう)と守護(しゅご)

鎌倉政権が朝廷から地方統治を委任されるのにともなって設置された機関。

地頭は地方の長官。守護も同じ。

守護は国ごとに置かれ、地頭は荘園や国衙領(公領)に置かれた。

国衙領は国の直轄領のこと。

それまでの地方の長官だった国司は、鎌倉の力が大きくなるにしたがって守護に置きかわっていく。

国司は朝廷が任命し守護は鎌倉が任命するので、朝廷と鎌倉の力関係が逆転したことで守護が一般的になっていった。

(徐々に国司は自然消滅していく。)

もともと荘園や公領は国司の力が及ばない領域だったので守護の代わりに地頭を置く。

守護は警察・軍事の権利を持ち、地頭は主に荘園や公領のオーナーである朝廷の貴族や天皇・上皇への税金上納の管理をしていた税理士みたいなもの。

しかし、守護が公領に手を出せないのは変わらなかったので、地頭は税理士であると同時に領内の警察官の役割もあった。

じっさいに地頭と守護の上下関係や役割にちがいはなく、土地の性格のちがいで区別される。

守護(地方の)国をる(る)。
地頭オーナーがいる土の管理の

守護と地頭の力関係も各地域でバラバラ。任命された人の力関係による。

室町時代になると、国司時代から手を出せなかった公領に守護が進出し始め地頭は消滅。

(地頭が守護の家来になっていく。)

公領まで手を伸ばした守護は守護大名になり、戦国時代に突入する。

けっきょく頼朝は、政権トップの左大臣・右大臣クラスの正二位まで昇進しました。無位無官ならぬ、有位無官。

(正二位は上から3番目。かなりの高位。)

そしてもうひとつ変わったことが。頼朝は朝廷から正二位をもらっても一度も京都へ行きませんでした。

ずっと鎌倉に引っ込んだまま。鎌倉に拠点を作ってから東日本を制覇するまで一度も鎌倉を出ていません。

太政大臣常時いることはなく不在も多い。
内大臣閣僚というより天皇の後見人。
左大臣事実上の政権トップ。
総理大臣みたいなもの。
右大臣副総理みたいなもの。
大納言閣僚の重鎮。
中納言重要閣僚。
参議閣僚の新参者。
政権中枢の役職(太政官)
太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣(令外官)
左大臣
右大臣
内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

源頼朝は愛知県熱田市生まれだが京都は知らない街ではない。

平治の乱に敗れた後に伊豆に島流しにあってからは一度も京都へ行っていない。

なぜか、武士で天下を獲った人は東海地方出身が多い。

やっと上京して役職をもらうも即辞任。そしてすぐ鎌倉へ帰る。

正二位になって政権トップを張れるだけのステータスを手に入れた頼朝は、弟・源義経(みなもと の よしつね)を奥州で殺します。

(正確には、最高クラスの頼朝を恐れた奥州藤原氏が匿っていた義経を裏切り殺した。)

つづけて奥州藤原氏も滅亡させました。

そして満を持して30年ぶりに上洛して役職につきます。権大納言と右近衛大将。でも1ヶ月後には両方とも辞任しました。

そしてすぐに鎌倉へ帰ります。

今でいうと重要閣僚になったのに即辞任したようなもの。軍人のトップすら辞任。

左大臣になれなかったのにキレたのか? 元々そのつもりだったのか?

頼朝がついた権大納言は、正二位の人がなるものじゃありません。ランクが下の役職。しかも『権』は『仮』の意味で、大納言に空席がなくてしょうがなく大納言にするときに使われるもの。

権官(ごんかん)と言います。

頼朝は左右大臣を受けるつもりだったのにメンツを潰されてキレたのか? 元々、無官は都合が悪いから体裁を保つポーズのために上洛したのか?

分かりません。

個人的には、『どうせ相当の役職は与えないだろう。怒ったふりして帰ってこればいい。元々上洛したくなかったし。』ぐらいに最初から考えていたと思う。

朝廷はビビったでしょうね? 政権トップを張れる人が日本最大の軍事力をもって鎌倉に陣取ってるんだから。

もうひとつの右近衛大将は近衛府という朝廷の警護をする役所の長官で、軍人の最高の役職です。大納言が兼務することになっていました。

これも辞めたけど。

征夷大将軍に箔をつける

ブチ切れて鎌倉に帰ったように見える頼朝に朝廷はビビったのでしょう。頼朝の最大のライバル、後白河上皇が亡くなるとすぐに、征夷大将軍の称号を贈ります。

征夷大将軍は軍事力を持っていた国司の軍団長をまとめる総司令官で、平安時代のほとんどは不在でした。もちろん正二位がなるようなものじゃありません。

正二位の人は征夷大将軍を任命する側。

(正式には天皇が官軍の司令官として任命する。)

征夷大将軍を政権トップにある地位の人がなるものにしたのは源頼朝が最初です。

歴史の教科書で習ったイメージの征夷大将軍はじつはイレギュラーから生まれたというところがポイント。

頼朝はなりたくても左大臣になれなかった?

源頼朝は強いリーダーシップがあるように見えますが実はお飾りでした。平家を倒したときの兵力のほとんどは部下ではなく、武士の地位を上げるための同士です。

彼らは鎌倉幕府の御家人になるんですが、朝廷とは別の組織でいることが絶対条件でした。

頼朝は左大臣になりたくてもなれなかったんじゃないかと思います。

御家人が一番心配したのは、源氏が左大臣になると平家みたいになることだったので。

左大臣になった瞬間、殺されてた可能性もある。それくらい頼朝の上京は命がけでした。京都に長居しないのも御家人たちへの必死のアピールです。

権大納言と右近衛大将をすぐに辞めたのもアピールの一貫。

1189年
(文治5年)
1月5日
正二位に昇進。

4月30日
源義経が奥州藤原氏の藤原泰衡に殺される。

7月~9月
奥州征伐(奥州合戦)。奥州藤原氏の滅亡。
1190年
(建久元年)
11月7日
上洛。

11月9日
権大納言任官。

11月24日
右近衛大将任官。

12月3日
権大納言・右近衛大将辞任。

12月29日
鎌倉に到着。
1192年
(建久3年)
3月13日
後白河法皇崩御。

7月12日
征夷大将軍就任。
1195年
(建久6年)
2月
家族と一緒に2度目の上洛。

3月
東大寺の供養に参加。

7月8日
鎌倉に到着。

(これ以降、京都に行くことはなかった。)
正二位になってからの頼朝の動き

頼朝が弟・義経を殺すきっかけは、義経が鎌倉の許可なく検非違使に任官されたから。

弟を殺したのに自分だけ同じことはできない。頼朝は自分の判断だけで朝廷の役職に就くことはできなかった。

鎌倉将軍の悲惨な最後

鎌倉幕府の将軍でまともな最後の人はいません。2代将軍・源頼家(よりいえ)と3代将軍・源実朝(さねとも)は殺されました。

頼朝の息子・頼家は、征夷大将軍の権威を上げて御家人たちとはちがうステージにもっていこうとしたところ、母・北条政子(ほうじょう まさこ)とお祖父ちゃんの北条時政(ほうじょう ときまさ)に阻まれます。

将軍をクビにされ寺に監禁された挙げ句、殺されました。

誰が仕向けたのか確定してないが、有力な説に北条氏黒幕説がある。

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に描かれるが、当時の鎌倉は有力御家人の合議制へ移行する途中だったので、その中の誰かがやったのだろう。

御家人の中で北条氏が中心にいたので犯人にされがち。

結局、犯人が処刑されたという話はないので、御家人たちは暗殺を認めていたんじゃないか?

御家人の総意で殺した可能性もある。

3代将軍・実朝も頼朝の息子なんですが、兄・頼家の息子・公暁(こうぎょう/くぎょう)に鶴岡八幡宮で殺されます。

実朝は朝廷とかなり接近した将軍で正妻を京から迎えるほど。実朝暗殺は仇討の体を取っていますが、その裏に鎌倉の立場が危ないと思った御家人の思惑があるともいわれます。

(公暁は将軍職を狙った実朝が頼家失脚に加担していたと思っていた。)

ほかの将軍も御家人の都合でクビにされている。

鎌倉のためなら将軍を使い倒す御家人たち

鎌倉将軍は頼朝の子の代で終わっています。残りの6代の将軍は源氏ですらなく、藤原氏と皇族。

これが国司が国を統治するきっかけ。

『天皇 → 将軍 → 国司の得宗家』を言い換えれば、『得宗家 → お飾りの将軍 → お飾りの天皇』。

得宗家からすると『お前らは地位だけ高くて俺たちを国司に任命だけしとけばいいんだよ。』ぐらいの感覚。

『その他は何もするなよ。じゃないと殺すよ?』というプレッシャーをかけてる。

3代将軍・実朝は正二位右大臣になっている。

平家と同じ道を歩もうとしている源氏が潰された可能性もある。

また、初代将軍の頼朝は馬から落ちた怪我が原因で死んだことになっているが、暗殺説もある。

『他の将軍がすべて、まともな最後じゃないから怪しい』ということらしい。

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