歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
仁徳天皇(にんとく)は、仕事ができて、性格よし、イケメンで、民のことをいちばんに考えた聖帝です。
女性にもマメなのでよけいにモテモテで、皇后の異常なジェラシーに振りまわされ、嫁さんに逃げられる超絶・恐妻家です。
世界遺産になった大山古墳の主です。
先史・古代 古墳時代
- 皇居
難波高津宮
(なにわのたかつのみや)
- 生没年
- 257年?月?日 ~ 399年1月16日
神功皇后57年 ~ 仁徳天皇87年
83? 才
- 在位
- 313年1月3日 ~ 399年1月16日
仁徳天皇元年 ~ 仁徳天皇87年
87? 年
- 名前
- 大鷦鷯尊
(おおさざき の みこと)
- 父
第15代 応神天皇
(おうじん)
- 母
仲姫命
(なかつひめ の みこと)五百城入彦皇子の孫
(いおきいりびこ の みこ)
- 皇后
磐之媛命
(いわ の ひめ の みこと)葛城襲津彦の娘
(かずらき の そつひこ)
- 皇后
八田皇女
(やた の ひめみこ)応神天皇の皇女
(おうじん)
- 皇妃
髪長媛
(かみながひめ)
- 妻
その他
皇太子でもなく天皇になるはずはなかった
先代・応神天皇は、たくさんいる皇子のなかで3人の皇子に期待していました。
そのなかに、大鷦鷯尊(おおさざき の みこと。のちの仁徳天皇)も入ってましたが、皇太子は弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)です。
弟に皇位が移った兄は悲惨です。天皇になることはまずありません。でもそうはなりませんでした。
応神天皇が亡くなると皇位継承をめぐって大混乱します。
弟・皇太子に不満をもった皇子がもうひとりいました。3人の長兄・大山守命(おおやまもり の みこと)です。
皇太子暗殺未遂事件
応神天皇は3人の中で末の弟を後継者に考えていたので、ふたりの兄をためします。
大山守は天皇の望みとちがう答えをしたので左遷されました。大鷦鷯は天皇の望みを忖度したので政治の最高責任者になります。
応神天皇が亡くなると大山守の不満が爆発します。皇太子を殺して自分が天皇になろうとしました。
大鷦鷯と皇太子のふたりはカウンターを食らわして大山守を殺します。これで弟が天皇になるはずでした。でもそうなりませんでした。
皇位継承のゴタゴタで3年の空位をつくる
皇太子・菟道稚郎子はなぜか天皇になりたがりません。
面倒くさいやりとりをしているうちに、3年も過ぎてしまいます。
ところが急に皇太子が自殺してしまいます。大鷦鷯はしかたなく即位しました。仁徳天皇です。
仁徳天皇は5世紀前半に活躍したと考えれています。
皇太子はほんとうに自殺?
皇太子はほんとうに自殺でしょうか? ぼくは疑問だらけです。
まず、皇太子はほかの皇子とは別格です。そうかんたんにひっくり返せるものではありません。
だから大山守命は殺そうとしたんですね?
そして、菟道稚郎子が皇太子になったのも不思議です。菟道稚郎子の母・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は皇后でないし、出身も皇族につながりますが遠縁です。
一方、仁徳天皇の母・仲姫命(なかつひめのみこと)は応神天皇の皇后です。嫁ランクがぜんぜんちがいます。ふつうなら仁徳天皇が皇太子でしょう。
仁徳天皇は皇太子を殺したんじゃないかと思います。聖帝と呼ばれるほどデキた男なので、汚点は書けなかったのではないか?
そう思います。(勝手な解釈です。)
性格よくて仕事ができる。そしてイケメン
仁徳天皇は聖帝といわれ、天皇のあるべき姿、カガミともいわれます。名前にも出ています。
仁政をした徳のある天皇
(仁政は、民を一番に考えた、民ファーストの政治のこと。)
幼いころから優秀で、性格もよく、成長すると心が広く、弱い者のために頑張る人でした。
あるとき高台に上ってまわりに煙が立っていないのを見て、
といいました。
その日から着物や履物は破れるまで使い、宮殿がこわれても修理をせず、部屋から星が見えるほどだったと言います。
3年後、民の生活はよくなり煙が立ちこめるのを見て喜びました。
また、都を難波の高津宮に移したときも、自分のことで民の農作や機織りの仕事を休ませてはいけないと、新しい宮殿の上塗りも装飾もなし、屋根の茅(かや)も整えませんでした。
これでもかっていうくらい素晴らしい天皇ですが、さらにさらにイケメンでした。
パーフェクトです。
仁徳天皇は、そのほか災害対策として治水工事をしたり、民のためならなんでもやった。
おかげで、お祖母ちゃんの神功皇后の時代までつづいた、国内外の戦争で停滞していた経済を復活させる。
(お祖父ちゃんの仲哀天皇は九州の熊襲征伐を行い、その妻の神功皇后はそれに参加した上、朝鮮制圧まで行った。)
ジェラシー狂いの皇后・磐之媛命
パーフェクトマン・仁徳天皇ですが、ひとつだけどうにもならないことがありました。
皇后・磐之媛命(いわ の ひめ の みこと)の異常なジェラシーです。天皇のほかの妻がビビッて何も言えないくらいヒドイものでした。
妃が実家に逃げ帰る
仁徳天皇の妃に吉備(岡山)出身の黒日売(くろひめ)がいましたが、皇后のあまりの怖さにビビッて実家に帰ることになりました。
仁徳天皇はいやいやながら見送ります。それを知った皇后はブチ切れます。
(大阪 <-> 岡山 間)
恐わ~。
天皇は、淡路島に行ってくるとウソをついて吉備まで行き、黒日売をなぐさめました。
聖帝はアフターケアで大変。
浮気がバレて引きこもり
仁徳天皇は皇后が木国(紀伊。和歌山)に行っているスキに、母ちがいの妹・八田皇女(やた の ひめみこ)を妃にします。
皇后は筒木宮(つつきのみや。京都)にこもったまま戻ってきませんでした。部下に頼んで歌をおくりますが許してくれません。
結局、天皇が筒木まで行って土下座して許してもらいました。
やさしいですね? 仁徳天皇は。大阪から京都まで行くんだから。
ふつうは『めんどくせー女!』です。
(墓場までもっていく男の心の声。女性陣は聞かなかったことにしてください。)
男性陣からすると恋愛マスターです。飛行機・新幹線を使っても大阪 -> 岡山、大阪 -> 京都へ行けますか?
無理です。イケメンなのにこの労力、スゴイです。
(そりゃ、モテるわ。)
もうひとりの皇后をイジメたおす
皇后・磐之媛は八田皇女をイジメたおしました。応神天皇の娘でランクが上なのにイラっときたのでしょう。
(磐之媛は有力な豪族・葛城氏(かずらきし)の出身。)
八田皇女が新嘗祭の後のパーティのために用意したものをことごとく海に投げ捨てたりしました。
(新嘗祭(にいなめさい)は皇室のなかでも重要な祭祀)
天皇は、ふたりをなだめるのに必死だったそうです。
八田皇女は磐之媛が亡くなったあと皇后になる。
天皇がフラれた腹いせに殺害?
天皇は、母ちがいの妹・女鳥皇女(めどり の みこ)にプロポーズしたこともあります。
女鳥皇女は計算高い人だったようで、皇后に勝てないと思った女鳥は、天皇の母ちがいの弟で兄の速総別皇子(はやぶさわけ の みこ)と結婚しました。
そして、夫に天皇暗殺をそそのかしました。
天皇は逃げまわる夫婦に軍勢を送って殺します。フラれた怒りもあるでしょうが、さすがに暗殺までしようとしたら殺られるでしょう。
オヤジの女を横取りする
皇后の異常な行動ばかり目立つのでひとつ擁護します。
父・応神天皇が生きているとき、きれいな少女がいるというウワサがありました。髪長媛(かみながひめ)です。
そこで、応神天皇が側仕えとして呼ぶことにしました。
(成長したら嫁にするということ。)
仁徳天皇(このときは皇子)は、少女が乗った船が大阪湾に着いたのをみて、あまりのかわいさに一目ぼれしてしまい武内宿禰に相談します。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
宿禰は応神天皇に伝えました。するとあっさりOKします。こうして髪長媛は仁徳天皇の妻になりました。
仁徳天皇は完璧でイケメンの上に積極的です。女性に対する気遣いも徹底しています。
まちがいなくモテたでしょう。皇后がジェラシーで狂うのも分かります。
皇后のジェラシーは葛城氏の陰謀?
皇后の異常なジェラシーのエピソードには、葛城氏の権力闘争がかくされているといわれます。
仁徳天皇の系図に代表的な妻を入れるとこうなる。
葛城氏は伝説の臣下・武内宿禰の息子からはじまります。そして、仁徳天皇のあとに3代つづく天皇は、皇后・磐之媛の息子たち。
たしかに、葛城氏が外祖父になるためにほかの妃たちを排除したようにも見えます。
個人的な意見ですが、これはないでしょう。それなら、八田皇女を排除するのを仁徳天皇は許すでしょうか?
八田皇女は天皇の妹で、妃の出身ランクは最上級です。それを排除しようとするとほかの臣下たちがだまっていません。
葛城が乗っ取ろうとしている!
といって倒しに行くはずなのに、そのようなことはありません。
3代つづけて皇后の息子たちが継いだのは、磐之媛が『第1の皇后』だったからでしょう。
もしくは、葛城氏が強大な力をもっていたからか?
葛城氏は有名な蘇我氏みたいな豪族なので。
(蘇我氏の祖先も武内宿禰で、葛城氏と蘇我氏は同じ一族。同じことをしてもおかしくはない。)
葛城氏の大発明
『臣下が外祖父になって権力をもつ』というシステムはこのとき始まりました。
磐之媛は初めての臣下の娘の皇后だと言われます。それまでは、皇族か独立した豪族(ヤマトの同盟?)の娘でした。
臣下なのに天皇のお祖父ちゃんという立場で権力が強くなる。
これを最初にしたのは葛城氏(かずらきし)です。
蘇我氏、摂関政治の藤原氏もこのパターン。江戸時代にも徳川が使ったので1000年以上つづいた。
葛城氏と蘇我氏の間には、同じ武内宿禰の子孫で同族の平群氏(へぐり)が同じようなことをした。
それを加えると1500年以上、同じような権力構造を続けたことになる。
明治より前はずっとこれだったと言ってもいい。
大山古墳ってなんだ?
の問題に、
と答えると、場合によっては×になります。いまは、
が正解。ある世代以上がまちがえるクイズです。
学校の歴史の教科書ではいま『仁徳天皇陵』はありません。いつからか『大山古墳』と教えるようになりました。
考古学のほうから『仁徳天皇の墓ではないのでは?』という意見が強くある影響でしょう。
という、考古学では冗談か本音か分からない意見があるとも聞きます。
(考古学あるあるらしい。)
大山古墳も本格的な発掘調査は宮内庁が許していません。
大山古墳は日本一の大きさ。
仁徳天皇の墓(ということになっている)。
これが大山古墳の公式見解です。つい最近、世界遺産に登録されて大阪ではかなり盛り上がってるようですね?
大阪府堺市の街中にあるのでフラーっと行きやすい世界遺産です。
真面目なことを言うと、天皇の古墳は天皇家の墓です。
発掘調査ができないのは、今の天皇陛下の祖先の墓だから。
発掘される遺跡は、エジプトのピラミッドにしろ何にしろ、その子孫たちはいません。
今目の前にいる人の家の墓を赤の他人がいじくり倒して良いのか?
という人としての良心からできないそう。日本人の宗教観とか関係なく。