土地所有の歴史で時代の主人公が見える

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日本の歴史では権力を握った歴史の主人公がコロコロと変わってきました。

  • 大王・豪族
  • 天皇
  • 貴族
  • 上皇
  • 武士
  • 国民

それでも変わらなかったことがあります。

全員有力な土地所有者だったことです。土地をもてるものが権力をにぎってきました。

それだけ『土地』と『歴史』は深くつながっています。そこで歴史の勝者を『土地』から見ていきます。

大化の改新の前は『土地は力で取るもの』

古代の歴史で、これだけ習うと言ってもいいくらいの事件がありました。乙巳の変で、そこから起きた政治改革・大化の改新です。

乙巳の変(いっしのへん)

645年、第35代 皇極天皇(こうぎょく)の目の前で、息子で皇太子の中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)が蘇我入鹿(そがの いるか)を殺害した事件。

これで蘇我氏は一気に衰退する。

これをきっかけに、天皇中心の国家建設を目指す政治運動が始まる。

大化の改新(たいかのかいしん)

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

大化の改新には土地制度改革もありました。土地所有のルールがガラリと変わります。

改革前のルールは『強いやつがぶんどる』です。

当時のいちばん強いヤツは豪族でしょう。そして宗教関係者でした。神道と仏教(寺社勢力)です。

なにより、その上を行くのが大王(おおきみ。のちの天皇)です。大王は神道の代表者で、仏教を広めた功労者で、豪族をまとめるリーダーです。

『大王・豪族・寺社勢力』だけで日本の土地をもっていました。

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それ以外の人はどうなるの?農民は?漁師は?

と思うでしょう。これらの人々は税金を納めていましたが土地はもてませんでした。

正確には『大王(天皇)が認める』ことがルールなので、天皇にお伺いを立てられる人だけが土地所有を認められました。

庶民には縁のない話です。

  • 大化の改新の前は、土地の所有権は『大王が認める』もの
  • 歴史の主人公は大王(天皇)・豪族

大化の改新のあとは『土地は国のもの』

大化の改新での土地制度改革のことを公地公民制(こうちこうみんせい)と言います。

これは土地と人はぜんぶ国家のものになります。大化の改新の前は、人も『強いヤツ』のものでした。公地公民制はすべて国家のものに変えました。

646年、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)が制定されます。6才以上の人に、決められた広さの土地をレンタルする法律です。

借り受けた民は決められた税金を納める義務がありました。

国が地主になって、収益を徴収する不労所得のビジネスモデルですね?

  • 大化の改新のあとの土地は国のもの。
  • 国が地主になって民から収益を徴収。
  • 日本は天皇を中心とした律令国家を目指しはじめていた。
  • 歴史の主人公は天皇。
  • 法の整備を急ピッチで進める。

国の不動産ビジネスが失敗して私有地を認める

国の不動産ビジネスはうまく行きませんでした。

人口増加で貸し付ける土地が足りなくなります。そこで貸し出す面積を小さくしました。でも税負担は変えませんでした。これが民のモチベーションを下げます。

またレンタル契約も1代限りでした。せっかく耕していい土地にしても、すぐに国に返さなければなりません。これでは長期的なビジネスができませんでした。

結局、脱走者がたくさん出て土地が荒れ果ててしまいます。もちろん国の収入も減りました。

人口の急激な増加は公地公民制としては大成功です。人が増えるのは豊かになった証拠なので。

ただ班田収授法がそれに追いつけなくて機能不全に陥りました。あまりにも成功しすぎたのが逆に失敗になりました。

大成功のあとの対策にことごとく失敗

そこで国は、723年、三世一身法(さんぜいっしんのほう)を制定します。新しく農地を作ったら孫の代までその土地の所有権を認めました。

これで、長期的に安心してビジネスをしてもらおうと考えました。しかし欠点がありました。

一緒に灌漑施設(用水路とか)を作ったら

という条件だったので、庶民には手が出せませんでした。

これに喜んだのはお金持ちの貴族・地方豪族・寺社勢力です。彼らは逃げ出した民などを雇って、大規模工事でどんどん農地を広げました。これが私有地のようになってしまいます。

とうとう私有地を認める

国は20年後の743年、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を制定しました。

新しく開拓した土地の恒久的な所有権を認めます。三世一身法がうまくいかなかったので、現実に合わせて国が追随しました。

これで土地はすべて国のものという制度がなくなります。制度ができて100年くらいしか機能しませんでした。墾田永年私財法で切り開かれた私有地が荘園になっていきます。

荘園(しょうえん)

743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。

農園と言われることがあるが鉄の生産など工業も行われた。

室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。

豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。

  • 土地はすべて国のものは、100年しか機能しなかった。
  • 私有地所有を認めることで荘園が発展していく。
  • 歴史の主人公は天皇から貴族へ。

荘園の発展

日本の土地は2つに別れます。荘園(私有地)と国衙領(こくがりょう)(公領)です。

この時代は荘園が注目されやすいですが国の土地もありました。その管理は国司の担当です。

国司(こくし)

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣された。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続いた。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

養老律令(ようろうりつりょう)

757年、孝謙天皇の時代に施行された律令。701年に成立した大宝律令の修正版とされている。古代。平安時代の半世紀前。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

貴族・地方豪族・寺社勢力は、自分で切り開いて荘園を広げました。

しかし平安時代になると荘園のかたちが変化します。貴族などが自分で新しい土地を切り開かなくなり、代わりに『名義貸し』が行われるようになります。

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名義貸し???

と思った人のためにちょっと説明が必要ですね?

荘園には特権がありました。

  • 国司の立ち入りの拒否権
  • 納税の免除

国司の立ち入りの拒否権は、国税や税務署が来ても門前払いできるようなものです。ただしこれは、特定の地位にある人の荘園だけでした。

また新しい土地の開拓は大きなものだけではありませんでした。小さいながらも開拓して自分の土地をもつ人もいました。

ここで免税の対象になっていない人たちはどうするでしょうか?考えることは今と変わりません。節税対策です。

その方法が『名義貸し』です。

名義貸しのしくみ

免税対象の偉い人(貴族・寺社勢力)
 ⬆
地位はあるけど免税対象になっていない人(貴族・寺社勢力)
 ⬆
荘園を管理する人(名主
 ⬆
その他の私有地をもった人や、新しく土地を切り開いた人

最上位の人の荘園ということになっているけど、実際の土地の所有・開発・管理は名主が行なっていました。矢印のところでそれぞれマージンを取ります。名主が買い上げることもありました。

このマージンが、国司に払う税よりも少ないので『節税』になっていました。そりゃそうですよね?荘園領主(名義上の荘園の持ち主)が税を払っていないんだから。

荘園領主は税を払わないですむだけでなく、名前を貸すだけで定期的に収入が入ってきます。

このビジネスモデルの特長は、荘園経営を実際に行なう名主と、そこから下位の方で雇われている人を除いたすべての人が不労所得です。

このシステムが出てきたことで、日本の律令制度が終わり封建制度がはじまります。

封建制度(ほうけんせいど)

君主が、諸侯(実力者)に土地の所有権を渡して、諸侯が民を統治する政治システム。

君主⬅➡諸侯⬅➡民の間に主従関係があるのが特長。

名田(みょうでん)

古代の日本で、大化の改新で公領を民にレンタルしたことでコメなどの税を徴収するために作られた区画。

平安時代になると荘園でも使われるようになる。

名主(めいしゅ)

名田を管理する専門の人。公領や荘園の経営を担当した。

名田を荘園にも使うようになったので、名主が荘園の経営まで行なうようになった。

名主は、地方豪族、地方に根付いた貴族などいろいろな人が担当。この中で軍事力をもって力をつけてきた一部が武士(地侍)になっていく。

-> 名田・名主の成り立ちはこちら

荘園(しょうえん)

743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。

農園と言われることがあるが鉄の生産など工業も行われた。

室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。

豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。

国に治めるべき税金が荘園領主に流れるので、一部の貴族・寺社勢力の力が大きくなります。

平安時代の藤原氏や比叡山延暦寺などはこの集金システムで大きな力をもちました。

あと有名なところでは関所で手数料をとる(関税をかける)こともしていました。

荘園の管理人のことを荘官と言いますが、名主が荘園経営にのりだすと荘官は自然消滅したので、ここでは荘園管理をしていた役割を名主とします。

名主は未開の地を開発して荘園を作ったりしたので、それを専門にする人を開発領主(かいはつりょうしゅ)と言います。

また、名義貸しをしている有力貴族などを本家(ほんけ)、本家と名主の間にいる貴族を領家(りょうけ)と言います。

このように、荘園経営の専門家・荘官と名主のちがいが分からなくなり、名義貸しの連鎖で、だれが本当の土地の所有者なのかハッキリしなくなります。

  • 荘園の収益モデルは『名義貸し』。
  • 荘園の運営管理は専門家に任せた。
  • その専門家の中から武士が生まれる。
  • 藤原氏を頂点とした貴族社会が栄華をきわめる。

荘園の衰退

平安時代も末期になると貴族の力が衰えはじめます。それに変わって歴史の表舞台に登場したのが上皇➡武士です。

その背景には

  • 土地の本当の持ち主があやふやになっていた。
  • 何もしないで利益を吸い上げる『名前だけ貸している人』に、不満をもった土地の管理者(武士)が力をつけてきた。

があります。

上皇が政治の中心だった院政期は、上皇が荘園をもつようになりました。

  • 院政期の荘園領主は、上皇・貴族・寺社勢力。
  • 政治の中心は上皇。
  • 武士が中央政府に食い込みはじめる。(平清盛・源頼朝)

鎌倉時代は土地の管理者があやふや

また、鎌倉時代になると、国司や荘園領主(荘園の名義上の持ち主)とは別に守護(しゅご)・地頭(じとう)が設置されます。

国司・守護・地頭は、それぞれ仕事の内容がかぶっています。どれが一番偉いのか分かりません。地域によってさまざまと言ったところでしょう。

ただ、守護・地頭は幕府、国司・荘園領主は朝廷・寺社勢力で、争わず、けれども融和せずの微妙な関係だったことは想像できます。

鎌倉幕府はこのような無法地帯をなんとか管理してきました。

  • 鎌倉時代はカオス。
  • 荘園領主・国司・守護・地頭とだれが土地を管理しているのかハッキリしない。(ケースバイケース)
  • 政治の主人公は武士。(幕府政治)
  • 天皇・貴族の力はほとんど無い。

室町時代に土地の管理ができなくなる

しかし、室町幕府は管理できなくなります。

幕府が管理できなくなると、それに変わって守護が無法地帯をまとめはじめます。いままで手を出してこなかった荘園・公領にも手をつけます。

そして、国人や名主を配下にしたり、対立して争ったりしながら大きく成長して守護大名になっていきます。

国人(こくじん)

地頭を務めた家柄の人が在地に定住化したもの

この守護大名が戦国大名になり戦国時代になります。

戦国大名は、すべて守護大名からはじまったわけではありません。守護代からはじまったものもあるし、国人が成長して戦国大名になった例もあります。

  • 室町時代は、守護大名が公領・荘園を自分のものにしはじめる。
  • 公領・荘園のオーナーの貴族・寺社勢力は力が弱いので認めるしかない。
  • 軍事力で土地を奪い合う戦国時代に突入する。

守護代は守護に代わって現地で仕事をする人です。室町時代には、守護に任命された人が京都から出ないで、守護代に仕事を丸投げすることもありました。

戦国時代のはじまりは

仕事をせずに、名前だけ貸して利益を得ていた人を、本当に仕事をしていた人たちが排除することからはじまった

と言えます。

最近、地道な仕事は外に丸投げしておいしいとこだけ得ようとする企業・経営者がいますが、気をつけたほうがいいです。必ずしっぺ返しがあります。

当時の貴族だって仕事をしていると思っていました。ただ、地道な仕事は『自分の仕事じゃない』と決めつけていただけです。

そして『効率的に利益を上げる自分こそが優秀であいつらは無能』と思っていたところをひっくり返されたのが戦国時代です。

いま、歴史に学ぶ人はどれくらいいるでしょうか?

荘園公領制の終わり

これまで見てきたように、公領と荘園を土台にした土地制度を荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)と言います。戦国時代には、これが事実上崩壊しました。

豊臣秀吉は、太閤検地などの土地制度改革でこれを消滅させます。この改革では、土地はいったん国のものになりました。はじめの方の大化の改新のときと同じです。

大化の改新とちがうのは、土地のレンタルではなく土地の管理者を豊臣秀吉が決めました。

このやり方は江戸時代になっても変わりません。管理者を決めるのが秀吉から江戸幕府に変わっただけです。

このときの土地の売買は禁止です。(実際は行われていました。幕府も知っていながら黙認することもあったようです。)

これが明治の近代化までつづきます。

江戸時代の土地

江戸時代の土地は大きく5つに分けられます。

よくテレビや映画で『本領安堵(ほんりょうあんど)』って言いますよね?

力の強いものが、もともともっていた土地の持ち主に『そのままあなたの土地としてもってていいよ』と許すことです。

江戸時代はすべての土地が幕府の本領安堵です。

幕領ばくりょう幕府の直轄領。
以前は天領と呼ばれたが、明治に入ってからの呼び方なので今ではしない。
藩領はんりょう藩の土地。
幕府から管理を任された藩主が土地の所有者。しかし幕府の命令で取り上げられることもあった。
天領てんりょう皇の地』の意味から朝廷の領地。
もともと国司が管理していた公領。

鎌倉時代以降、地頭・守護大名・戦国大名に奪われていったが、残ったものを幕府が本領安堵したり再配分した。

以前は幕府の直轄領の意味として使われたが、本当の言葉の意味としてはこちらが正しい。
公家領くげりょう公家の領地。
もともと貴族の荘園だったもの。

天領と同じように奪われていったが、残ったものを幕府が本領安堵したり再配分した。
寺社領じしゃりょう寺社勢力の領地。
もともと寺社勢力の荘園だったもの。

天領と同じように奪われていったが、残ったものを幕府が本領安堵したり再配分した。
  • 安土・桃山時代、江戸時代は、土地の売買は原則禁止だが、実際は行なわれていた。
  • 土地の所有者を決めるのは、豊臣秀吉➡江戸幕府

明治維新で阿呆どもに土地を奪われる

みなさんは明治維新にどのようなイメージをもっているでしょうか?

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能力のない幕府に代わって薩長を中心とした優秀な人たちが作った政府

と思っている人が多いかもしれません。でもじっさいはちがいます。

最初は優秀な人たちが理想に燃えてがんばっていました。しかし、それはごく一部の人だけになっていきます。ほとんどの明治維新の勝者はかんちがいしました。

当時の幕府は、どの藩よりも圧倒的に領地・財産をもっていたので、徳川幕府から没収した財産・土地を自分のものにしようと殺到します。

その中には勝ち馬に乗ろうとする人もたくさんいました。そして、たくさんの汚職事件が起きます。

山城屋事件やましろやじけん。

明治5年、元長州藩士の山城屋和助が陸軍省から借りたお金を返せずに自殺した事件。

このお金は、陸軍中将だった元長州藩士・山縣有朋(やまがた ありとも)が、陸軍省の予算の10%の大金を軍の備品調達といって山城屋に流したもの。山縣は西郷吉之助に次ぐ陸軍のNo.2だった。

山城屋はそのお金を備品調達に使わず、相場に手を出したり元長州藩士の役人の接待・賄賂に使ったりパリでの豪遊に使った。

『高級ブランド品を買いまくる変な日本人がいる』とパリの街でニュースになり、パリの日本大使館から本国に報告されたことで事件が発覚する。

和助は言い逃れできないと思ったのか、長州閥に口封じされると思ったのか自殺する。
尾去沢銅山事件おさりざわこうざんじけん。

明治6年、大蔵大輔だった元長州藩士の井上馨(いのうえ かおる)が民間人から鉱山を強奪した事件。

東北の商人・村井茂兵衛が南部藩(岩手県)にお金を貸したときの証書が、逆に村井が藩から借りたお金の証拠だとして明治新政府が村井に一括返済を迫った事件。

一括返済できないほどの大金だったので村井は鉱山を手放すことになった。

これは、井上と長州出身の商人・岡田平蔵が最初から鉱山を奪うために仕組んだといわれる。

すごいですね? これ当時の汚職のごく一部です。山縣は総理大臣・元老まで務め、井上は大蔵・外務大臣を歴任したほどの人です。犯罪のスケールがちがいます。

いまだに明治政府の流れを汲んでいる

そういえばいま、長州の安倍とか言う人がモリカケ問題でツッコまれていますね?

彼は長州の大先輩から良いところも悪いところも学んでいません。だからスケールが極小のみっともない悪事を働くのでしょう。

これはぼくの偏見ですが、長州の権力者はかんちがいする人が多いです。とくに国家の財産を自分のものだと思うところがあります。

ぼくの偏見を取り除くためでもですが、これって長州人気質なのか個人の性格なのか説明できる人いないかな?

そういえば桂小五郎高杉晋作も藩のお金で京都や長崎で遊びまくってたし。

でも、当時は坂本龍馬もほかの藩の志士もそんな感じだったので時代かな?

このように明治政府は、ただの阿呆どもの集まりになっていきます。

いま陸上自衛隊の年予算は2兆円ぐらいです。山縣は、いまでいうと2000億円の公金を横流ししたことになります。スケールの大きさがケタ違いです。

山城屋は岩倉使節団のヨーロッパ外遊に合わせてパリに旅行に行ってました。もちろん当時は民間人がかんたんにヨーロッパに行けません。

旅費も横領したものから出したのでしょう。

藩が商人からお金を借りるときの証書には『商人が藩から借りた』と書くのが慣例でした。武士のメンツを保つためです。

これは東北だけのことじゃないので井上も大蔵省の役人も分かっていました。

また井上は、没収した鉱山を破格の値段で岡田に払い下げます。しかも、村井には分割払いを拒否して一括払いを迫ったのに、岡田には15年の分割払い・無利息です。

もうメチャクチャです。

でも似てるでしょ?モリカケ問題と。

当時は、庶民の間でこのような言葉が広まっていました。

長州人にはカネを渡せばいい。薩摩人には女をあてがえばいい。

新政府の中枢や、それに取り入る人たちを皮肉った言葉です。当時、維新を利用して成り上がろうとした人たちの格言でした。

新政府の堕落ぶりがよく分かるエピソードです。

名もなき賊軍が日本の近代化の土台になる

このメチャクチャの中、人知れず戊辰戦争で負けた側の人たちが地道に近代日本を作り上げます。

小栗忠順おぐり ただまさ。上野介(こうずけのすけ)幕府の勘定奉行。

横須賀の海軍造船所をつくり、海軍の基礎をつくった。
日本で最初に株式会社のシステムを導入した兵庫商社もつくる。

戊辰戦争が終わりそうな頃、故郷に帰ったところ官軍に捕まり殺害される。
渋沢栄一しぶさわ えいいち実業家。日本に銀行をつくる。近代日本経済の父。
15代将軍 徳川慶喜の身の回りの世話をする小姓だった。
山本覚馬やまもと かくま会津藩士。初代 京都府議会議長。
いまの京都の基礎をつくった。
西郷菊次郎さいごう きくじろう西郷吉之助の息子。
西南の役で薩摩軍に従軍し賊軍になる。その後、京都市長を務めた。

これだけではありません。ありとあらゆる分野で、敗者の人たちはいまの日本の基礎をつくります。

彼らを見ると、大きな土地をもっておいしい思いをした人はあまりいません。美味しい汁を吸えなかったのでこうするしかなかったとも言えます。

明治新政府の実務を担当したのは旧幕府の官僚たちです。薩長土肥の官軍には政権運営能力がなかったことが分かります。

ただ優秀な彼らは絶対に上には行けませんでした。阿呆どもがその上にあぐらをかいて居座ったからです。

  • 明治維新の主人公は薩長を中心とした官軍。
  • 幕府の土地を没収して勝手に自分のものにする人が殺到。
  • ドサクサに紛れて賊軍になった者からも強奪する。
  • 明治新政府は阿呆どもの集合体。

近代は土地の売買が自由

そんな新政府に『ふざけるな!』という声が大きくなります。士族の反乱と自由民権運動です。

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士族の反乱って、維新で命をかけて頑張ったのに美味しい思いができなかった人たちのワガママでしょ?

と思う人も多いのではないでしょうか?しょうがないです。歴史の授業がそう教えるので。

そういう面もありますが、本当のところはちがいます。

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命をかけてつくったものがこの程度か! もう1回リセットしてちゃんとした政府を作り直すぞ!

というのが本当です。そして、それに敗れた士族が

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暴力では無理だ! これからは言論で戦おう!

となったのが自由民権運動です。

これが明治の日本の動きです。いまの日本人は、明治維新と自由民権運動のつながりが分からない人がけっこういるのではないでしょうか?

士族の反乱(明治初期)

士族の反乱の動機は『堕落した新政府を正す』です。

萩の乱

元長州藩士・前原一誠が首謀者。前原は吉田松陰の松下村塾の最年長者で、みんなの兄貴分でもあり松陰の信頼も厚かった。

松陰の教えに背く新政府に不満をもっていたと思われる。その証拠に、反乱軍には松陰の親族の年頃の男がすべて参加した。

佐賀の乱

元佐賀藩士・江藤新平が首謀者。司法省の責任者だった江藤は、井上馨など、新政府の重鎮がメチャクチャなことをすることに対して、司法の手で裁くことを主張した。

西南戦争

元薩摩藩士・西郷吉之助が首謀者。いわずと知れた国内最大級の反乱で最後の反乱。

西郷は、新国家建設よりも藩閥同士の権力闘争や官軍出身者がやりたい放題に明け暮れるのに嫌気がさして、また盟友の大久保利通と対立したこともあって新政府を辞める。

西郷が新政府を辞めたとき、多くの陸軍の旧薩摩藩士の将官クラスが辞めて西郷を慕って鹿児島に戻った。陸軍の将官の半分が辞めたと言われる。

西南戦争が始まったとき、東京の詩人・歌人など文化人の間では、『堕落した新政府を正すのは西郷しかいない』といって西郷が上京するのを期待する声もあった。

それだけ新政府の堕落ぶりがひどかったということなのだろう。

そうなるのも当然です。日本の政治は、阿呆どもの継承者でつづいています。この継承者が先輩はアホだったなんて言わないですよね?

明治維新と自由民権運動のつながりは、明治政府のアホさ加減がわからないと絶対に分かりません。

不平不満の士族が各地で暴発した

という阿呆に都合のいい歴史観はやめるべきです。阿呆どもの継承者は阿呆でないといけないということはないのですから。

このようにして近代日本ができていきました。その中で、日本で初めて誰でも土地が所有できるようになります。ただし、実際はお金をもっている人に限られました。

地主制度もありました。農家の人はなかなかお金を貯めることができず、自分の土地をもてませんでした。

これが、敗戦後のGHQによって解体させられます。

地主制度(じぬしせいど)

土地を持った人(地主)が、農家を雇い(小作人)、収益の一部をマージンとして取ったビジネスモデル。

小作人がどんなに努力しても、どんなにいいものを作っても報酬が変わらず、また、独立することが難しかった。

戦後、農業の成長を邪魔しているということで解体した。

  • 近代の主人公は国民・個人。
  • 誰でも土地がもてるようになる。

反乱軍にすべての正義があるわけではないし、人間関係はもっと複雑です。

たとえば、江藤新平は新政府内で薩摩・長州を蹴落とそうとしていたし、西郷のことを『あいつ、チョロいよ』とナメていたようです。

同じ旧佐賀藩士・大隈重信も西郷のいないところで同じようなことを言っていました。

西郷は西郷で江藤のことを評価していません。佐賀の乱を起こす直前、江藤は西郷を訪ねて一緒に決起しようと言いますが断わられます。

西郷からすると、江藤を味方にすれば九州はかんたんに制圧できるし、九州を制圧できれば東京までかんたんに行けたはずです。

それでも西郷は江藤の呼びかけには乗りませんでした。西郷は、江藤も自分の藩のことしか自分のことしか考えない、新政府にいる堕落した連中と同じだとみていたのかもしれません。

最後に

このように、歴史の主人公はつねに土地の所有権をもった人たちで占められています。

これは今でも変わりません。社会を動かすような影響力をもった人は、個人の好みで土地をもたないことはありますが、少なくとも土地の所有権をもてるだけの財力があります。

やはり、歴史の主人公は『水・食料・土地』をにぎっています。

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