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第67代 三条天皇。藤原道長のイジメに心折れて退位。約束もかんたんに破られる。

三条天皇 肖像画

歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -

第67代 三条天皇(さんじょう)は、最大の実力者・藤原道長にイジメたおされて、心がポッキリ折れて退位します。

というか道長は中学生のいじめっ子みたいで幼稚すぎる。

そんな道長が三条天皇が退位の条件につけた取引を守るわけがありません。守るつもりがなかったのですぐに破りました。

中世 平安時代 - 中期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 976年1月3日 ~ 1017年5月9日
    天延4 ~ 寛仁元
    42才
  • 在位
  • 1011年6月13日 ~ 1016年1月29日
    寛弘8 ~ 長和5
    6年
  • 名前
  • 居貞
    (おきさだ)
  • 別名
  • 金剛浄

  • 藤原超子
    (ふじわら ちょうし / とおこ)

    藤原兼家の娘
    (ふじわら かねいえ)

  • 皇后
  • 藤原娍子
    (ふじわら せいし / すけこ)

    藤原済時の娘
    (ふじわら なりとき)

  • 中宮
  • 藤原妍子
    (ふじわら けんし / きよこ)

    藤原道長の娘
    (ふじわら みちなが)

  • その他

三条天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

4才年上の皇太子

居貞親王(おきさだ。のちの三条天皇)は、先代・一条天皇が即位したとき、お祖父ちゃんで摂政藤原兼家(かねいえ)の力で皇太子になりました。

皇太子といっても一条天皇より4才年上で天皇のいとこ。皇太従兄弟です。(勝手な造語。)

親王は兼家にとても可愛がられましたが、三条天皇が即位する20年以上も前にすでに亡くなっていて、兼家の息子・藤原道長(みちなが)の時代になっていました。

また、先代・一条天皇がこの時代には珍しく在位が長かったので(26年)、三条天皇は36才の即位です。

かなりロートルの即位。この時代では、10代や20代前半で退位があたりまえに起きていたので。

平安時代は藤原氏の中で実力者が変われば、自分の孫を天皇にするために皇太子の交代が起きても不思議はないんですが、居貞親王はそのままでした。

それが藤原道長のイジメにつながります。

正妃がいたのに道長の娘をもらう

三条天皇は、お祖父ちゃんの藤原兼家(かねいえ)がいなくなったあと、強力な藤原氏の後見人がいませんでした。孤立していたと言っていいほどです。

皇太子時代に結婚した正妃は藤原氏で、兼家の叔父さんの孫・藤原娍子(せいし)。

もう何十年も藤原氏を率いていた藤原師輔(もろすけ)の子孫ではなく、当然、左大臣藤原道長(みちなが)がほっとくはずがありません。

道長は、三条天皇に正妃がいるのに、娘の妍子(けんし)を天皇に嫁がせ、正妃をさしおいて妍子を三条天皇の皇后にしました。

三条天皇は不満でなりません。

三条天皇をはやく辞めさせるのが道長の戦略

藤原道長(みちなが)は先代・一条天皇のころから、一条天皇の息子で自分の孫・敦成親王(あつひら。のちの後一条天皇)を即位させるつもりでした。

そのために、一条天皇の関白になるのをあえて止めていたくらいです。三条天皇が即位しても左大臣のままでした。

自分の娘を皇后にまで押し上げたのは、三条天皇の皇太子時代からの正妃に息子が生まれると、藤原氏の権力がお祖父ちゃんの弟・藤原師尹(もろただ)のラインに変わってしまうから。

道長自身の野心もあったでしょうが、何十年も守ってきた藤原氏の勢力図が大きく変わってしまいます。

このままでは、左大臣止まりで終わるだけでなく失脚する可能性すらありました。道長の権力の基盤は、父・藤原兼家(かねいえ)ファミリーで固めていたから。

彼らからすると、道長しだいでファミリーが総崩れになるので相当ビビっていたはず。

三条天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

皇后の儀式を藤原氏がボイコット

藤原氏の主流派の運命を背負っていた藤原道長(みちなが)は、三条天皇をいじめ倒します。

『早く辞めろよ』と言わんばかり。

ただ三条天皇はだまってませんでした。天皇は道長の10才年上です。そうかんたんに言いなりになりません。

もともと、皇太子時代からの正妃・娍子(せいし)を大事にしていた三条天皇は、彼女も皇后にと希望します。

彼女のために『立后の式』(りっこうのしき。皇后が立ったことを宣言する儀式)を強行しました。

でもこの儀式、出席者がいません。道長が手を回して参列者全員が欠席したから。

こんなことするくらいなので、道長の三条天皇に対するイジメは相当なものだったよう。

道長のボイコットを知った藤原実資(さねすけ)は、病気で伏せっていたのに無理やり参加して儀式の面目を保ったそう。

実資は藤原氏嫡流だが、道長のお祖父ちゃん・師輔(もろすけ)にラインが変わったことで権力から遠ざかっていた。

(実資は師輔の兄・実頼の孫で養子。)

三条天皇はこの男気に感動したらしい。宮廷でも一目置かれて右大臣まで出世する。

心折れて退位

三条天皇に対する藤原道長のイジメはエスカレートしていきました。三条天皇は眼の病気になり、それを口実に道長は退位を迫ります。

『オレの体の調子がいいと、左大臣の機嫌が悪い。』

三条天皇の言葉です。天皇の苦しみはこの一言で十分じゃないでしょうか?

それでも三条天皇はただでは終わりません。次の皇太子を正妃・娍子との間の子・敦明親王(あつあきら)にすることを退位の条件にしました。

この条件で退位して1年後に亡くなります。42才でした。

道長はどうしてバーター取引に応じたのか?

答えは簡単。守るつもりはなかったから。『辞めさせてしまえばこっちのもん』ってことです。

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第68代 後一条天皇。藤原道長の絶頂期。3人の娘が皇后になる。
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