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第66代 一条天皇 宮廷文化の最高潮で豊富な人材が揃う

一条天皇 肖像画

歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -

第66代 一条天皇(いちじょう)はほぼ無名ですが、その時代は平安のイメージが凝縮されています。

藤原道長の栄華、清少納言、紫式部、和泉式部の活躍、安倍晴明の活躍などなど。

登場人物のキャラが強すぎて一条天皇の存在感が薄い。

中世 平安時代 - 中期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 980年6月1日 ~ 1011年6月22日
    天元3 ~ 寛弘8
    32才
  • 在位
  • 986年6月23日 ~ 1011年6月13日
    寛和2 ~ 寛弘8
    25年
  • 名前
  • 懐仁
    (やすひと)
  • 別名
  • 精進覚
    (しょうじんかく)

    妙覚
    (みょうかく)

  • 藤原詮子
    (ふじわら せんし / あきこ)

    東三条院

    藤原兼家の娘
    (ふじわら かねいえ)

  • 皇后
  • 藤原定子
    (ふじわら ていし / さだこ)

    藤原道隆の娘
    (ふじわら みちたか)

  • 中宮
  • 藤原彰子
    (ふじわら しょうし / あきこ)

    上東門院

    藤原道長の娘
    (ふじわら みちなが)

  • その他

一条天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

異例。4人の後見人の藤原氏

懐仁親王(やすひと。一条天皇)は、先々代の円融天皇の息子で、先代は叔父さんの花山天皇です。

一条天皇は藤原氏長者の藤原兼家(ふじわら かねいえ)の孫で、お祖父ちゃんの力で5才のときに皇太子になり7才で即位しました。

7才の少年天皇では何もできないのでお祖父ちゃんの兼家が摂政です。

兼家は自分の孫を天皇にするために、先代の花山天皇をだまして出家させ無理やり退位させました。

しかし、一条天皇の後ろ盾はコロコロ変わります。即位して4年後には兼家が亡くなりました。

2代目後見人・藤原道隆(ふじわら みちたか)

次に後見人になったのは兼家の長男・藤原道隆(ふじわら みちたか)。父・兼家のあとに一条天皇の関白になりました。

道隆の娘・定子(ていし)は、兼家が亡くなる直前に一条天皇に嫁いで皇后になっています。

この時点で兼家は道隆を後継者に指名したといっていいでしょう。道隆は一条天皇の叔父さんで義理の父。

その道隆も5年後には亡くなります。

3代目後見人・藤原道兼(ふじわら みちかね)

道隆の後は、道隆の弟・藤原道兼(みちかね)。先代・花山天皇を退位させるためにだました張本人です。

しかし道兼は、関白になってから10日くらいで亡くなりました。ふつう関白は太政大臣になるのですが、右大臣のまま。

太政大臣になる前にあっけなく亡くなりました。

そこから道兼は『七日関白』(なのかかんぱく)という不名誉な呼び方をされます。

(明智光秀の『三日天下』みたいなもの。)

そして最後に登場したのが、道隆・道兼の弟・藤原道長(ふじわら みちなが)。藤原氏といえば必ず出てくるあの男です。

いよいよ登場。藤原氏最強の男・道長

藤原道長(ふじわら みちなが)は、平安時代を代表する貴族で藤原氏の中でいちばん有名な男でしょう。

一条天皇の時代の華やかな平安貴族を作ったのは道長といっていいくらい。

じっさい、道長自身も有名な歌人で、清少納言(せい しょうなごん)、紫式部(むらさき しきぶ)、和泉式部(いずみ しきぶ)など、平安時代を代表する歌人・作家もこのころ。

(女流作家が多いのも特長。)

また、陰陽師で有名な安倍晴明(あべ の せいめい)が活躍したのも一条天皇の時代です。

藤原道○が継ぐのが本筋?

一条天皇の最初の後見人・関白・藤原兼家(かねいえ)の息子は、名前ですぐ分かります。『道』からはじまるから。

道隆(みちたか)、道兼(みちかね)、道長(みちなが)、一条天皇の後見人たちは兼家の息子ばっかりですが、全員、『道』がついています。

道がついてる人が藤原氏の正統な後継者に見えるほど。

それからすると、道長が藤原氏長者になったのは順当にも見えます。でも本当はちがいました。

藤原道長 vs 藤原伊周(ふじわら これちか)

順当な藤原氏長者に見える道長ですが、じっさいはちがいます。本当は藤原兼家の長男・道隆の息子・藤原伊周(ふじわら これちか)が藤原氏を継いでいくはずでした。

じっさい、藤原道兼(みちかね)が亡くなると、道長と伊周は公然と口論するくらい権力闘争をしていたそう。

また、道長派と伊周派の貴族が都でばったりと会ったときなどは大乱闘まで起きる始末。

やってることはヤンキーの抗争と変わりません。

(このころ貴族同士の乱闘は珍しいものではなかったらしい。)

ただこの伊周、名前に『道』がついていないからダメなんじゃなくて、人として本当にヤバい。

先代の花山天皇に矢を放ったのもこの伊周。

オヤジの力で成り上がり嫌われた伊周

藤原伊周は、ヤバいというより調子に乗りすぎました。

父・道隆が関白になるとモウレツに出世していきます。8才年上の叔父さん・道長をも抜き去り、内大臣までなりました。

(父を除く上司は叔父さんの右大臣・道兼だけ。)

いきなり、左大臣・右大臣と同格の内大臣にまでなった伊周はやりたい放題します。

『オレを通さずにやるなんざ許さねー』のエピソードは数知れず。

道長どころか、宮中の貴族たちから相当嫌われました。

一条天皇の母で道○兄弟の姉妹・詮子(せんし)や一条天皇にも嫌われました。

(詮子は、道隆の息子びいき事態嫌ってたらしい。)

こうなると行き着く先は左遷。父・道隆が亡くなると一気に人がはなれ、奈落の底へ落とされます。

関白にならない藤原道長

藤原伊周を追い落とした藤原道長は、右大臣・左大臣になり、摂政関白太政大臣のいない宮中でトップになりました。

こうなると関白になるのが筋ですが、道長はなろうとしません。

道長は、甥っ子の一条天皇や皇太子(のちの三条天皇)の後見人にはならずに、自分の孫(のちの後朱雀天皇)が天皇になったときに摂政・関白になるつもりでした。

摂政・関白は、右大臣や左大臣などと兼任しても、政権とは距離をとるのが慣例になっていたので、このまま左大臣でいたほうが孫の天皇即位に一番近いと考えたのでしょう。

じっさい、一条天皇の次の三条天皇は、道長がこれでもかっていうくらいイジメ倒して退位させます。

道長は関白ではなく、内覧として実権をにぎりました。

(内覧は天皇に上奏される文書を見れる特殊な職。関白に近い特権をもっていた。次期関白へのキャリアアップの通過点とも言える。)

道長にとって孫を天皇にするのに大きな壁があった。

一条天皇と皇太子のふたりの甥っ子がいたこと。

史上初。複数の皇后が立つ

絶大な権力を手に入れた道長は、娘の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせて皇后にしました。

これは前代未聞のタブーです。過去には複数の皇后をもつ天皇はいましたが、それは皇后が亡くなったから新しい皇后を立ててたので、実質、皇后はひとりです。

それを道長が打ち破って、天皇が複数の皇后をもっていいことにしました。

中宮定子・中宮彰子のほうがよく聞くでしょう。

中宮(ちゅうぐう)

天皇の正室の住んでいるところ。そこから天皇の正室のことを意味する。

皇后も同じ意味だがちがいはあまりない。使われはじめた時代がちがうと考えてよい。

清少納言、紫式部、和泉式部の関係

一条天皇の時代は、後世に名を残す女流歌人・作家を多く出したことでも有名です。

有名なところでは、清少納言(せい しょうなごん)、紫式部(むらさき しきぶ)、和泉式部(いずみ しきぶ)。

3人とも一条天皇の皇后のお付きの女官でした。(女房(にょうぼう)という。)

清少納言, 紫式部, 和泉式部 系図
女流作家と皇后の関係

天皇の末裔だがナゾ多き女性。清少納言

清少納言(せい しょうなごん)は、『枕草子』(まくら の そうし)の作者として有名ですが、正体が分からないナゾの女性です。

貴族・清原元輔(きよはら もとすけ)の娘というのは分かっているのですが、名前がよく分からない。

清原氏(きよはらし)は、100人以上の皇子たちが与えられた姓で、だれがどの天皇から来ているの分からないくらい多くの皇子が臣籍降下した。

源氏や平氏の大先輩といったところ。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

名門・清原氏の生まれの清少納言は、皇后・定子(ていし)のお付きの女官・女房でした。

よく紫式部のライバルだったとも言われますが、おそらく面識はありません。

紫式部が仕えたのはもうひとりの皇后・彰子(しょうし)だし、紫式部が宮廷に入ったときはすでに定子(ていし)は亡くなっていて、清少納言は退官していたから。

清少納言は名前ではなく、清(せい)は『清原氏の娘』という意味で、少納言は『少納言の娘』という意味。

ただ、父・元輔が少納言だった記録はなく、親族をたどっても少納言はいないらしい。

このへんはよく分かっていません。

少納言は、大納言・中納言とちがい、政権中枢の役職ではない。

中納言の下の参議のさらに下の少納言局の役職のこと。

いまでいう、中央省庁の局長みたいなもの。

また令外官。

令外官(りょうげのかん)

律令制度の令(行政法)にない官位のこと。特別職。臨時職。

にある(令にない)位』。摂政関白太政大臣、内大臣など。

正式な官位じゃないので比較的自由な立場で仕事ができた。また、正式な官位と兼務ができた。

律令制度を変えずに、現実に対応するため作られた役職が多い。

第50代 桓武天皇は軍政改革で、征夷大将軍検非違使を新たに作った。

現実に対応して作ったので歴史の中では重要なものが多く、馴染みのあるものも多い。

皇后の家庭教師で理論派の知的女性。紫式部

紫式部(むらさき しきぶ)は、『源氏物語』(げんじものがたり)、『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)の作者として有名です。

が、清少納言ほどではないですが、生没年が分かっていないなどナゾなところがある女性。

紫式部の父・藤原為時(ふじわら ためとき)は高級官僚で、藤原氏北家の流れをくむ中級貴族です。

藤原道長と同じ流れですが、平安時代の初期までさかのぼらないとつながらないほどの遠縁。

ただ、父・為時は先代・花山天皇の漢学の先生をしていたほどで、『源氏物語』を書き始めていた紫式部の評判を聞いた藤原道長が、娘で皇后の彰子(しょうし)の家庭教師として宮中に招きました。

紫式部も本名ではなく、『紫』は何かの通称、式部は父・為時が式部省の役人だったから。

『式部の娘で紫というあだ名の女性』といったところ。

式部省(しきぶしょう)

律令制の8つの役所のひとつ。

トップは式部卿(しきぶきょう。事務次官)。

いまの人事院、文部省みたいなもの。

位階や官位を決めたり官僚養成機関を管理したので2番目に重要な省だった。

(律令制は役職の序列(官僚組織)が核。)

天皇の息子を落とす自由恋愛主義者。和泉式部

和泉式部は(いずみ しきぶ)は、『和泉式部日記』(いずみしきぶにっき)の作者、数多くの恋歌を残した作家です。

清少納言や紫式部とはちがい、無名の国司の娘で出は名門ではありません。

父は越前守・大江雅致 (おおえ まさむね)、母は越中守・平保衡 (たいら の やすひら)の娘。

母は平氏だが、平氏の系図に載らないほど無名。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続いた。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

嫁ぎ先も国司の和泉守・橘道貞(たちばな みちさだ)。ふつうなら国司の妻として終わるはずでした。

和泉式部も名前ではなく『和泉守の妻で式部の娘』という意味。

(父が国司から式部に昇進していた。)

天皇の息子とデキちゃって離婚

ここからが和泉式部の真骨頂です。

和泉式部は、夫と別居状態だったころに京都に戻り、先代・花山天皇の弟・為尊親王(ためたか)とデキちゃいます。

ここであえなく離婚。国司の妻から皇子の妻への大出世といきたいところですが、世間には認められなかったらしい。親からは勘当されました。

3年後に為尊親王が亡くなると、今度は、親王の弟・敦道親王(あつみち)との熱愛が発覚しました。

が敦道親王とも死別。そのあと宮仕えになり、皇后・彰子の女房になりました。

『和泉式部日記』は、敦道親王との愛のヒストリーが書かれた書物です。

紫式部の同僚か部下?

和泉式部は、紫式部とほぼ同時期に宮仕えしています。そして仕えた人も同じ、皇后・彰子。

お互い存在は知っていたでしょうが、かたや皇后の家庭教師で、最大実力者・藤原道長も認める才女。

和泉式部は、恋愛マスターとして有名になった国司の娘。

おそらく、直接会話をするほどの関係ではなかったでしょう。紫式部のほうが雲の上の上司。

会社員なら分かると思います。専務や常務と話ができる一般社員はそう多くないはず。

が、紫式部と藤原道長は和泉式部のことは知っていました。

(会社で、会長の息子二人からアプローチされてゴールインする社員は名が知れないわけがない。)

自分とはちがう才能を認めていた紫式部

紫式部の和泉式部に対する評価は、認めてるけど認めていないビミョーな感じ。

和泉式部の見さかいのない恋愛体質に釘を差しつつ、『計算しないで直感的にハイセンスな言葉を生み出す人』という評価をしています。

緻密な計算で名作を書く、職業作家・紫式部と、実体験を元にセンスのあるラブストーリーを表現をするノンフィクション作家・和泉式部のスタンスのちがい。

個人的には、畑違いでも同じ言葉を表現する者として紫式部は和泉式部の才能を認めていたと思います。

ただ、『和歌の技術があるとは思えないが』と、紫式部らしい技術論でマウントをとっていますが。

友だちにはなれそうにないと思っていたでしょう。

この評は『紫式部日記』に収録されています。

一言で的を得た藤原道長

紫式部とちがって、藤原道長の和泉式部の評価はシンプルです。

『浮気をする女』

一刀両断。

敦道親王が和泉式部を迎え入れるとき、正妃はそれがイヤで家出しました。正妃が藤原氏の娘で親戚だったので道長はイラッとしたはず。

でも、文才は認めていたと思います。そうじゃないと、娘で皇后の彰子に仕えさせないはずなので。

身分が低いので干そうと思えばいくらでもできたのにしていない。

(それか、皇子に見初められた女性をむげにできなかったか?)

和泉式部は子どものころ、一条天皇の叔父さん・冷泉天皇の皇后・昌子内親王(しょうし)に仕えていたとも言われる。

直感的で自由恋愛をしても、皇后のお付きの仕事はベテラン中のベテラン。

仕事はできる方だったのかも知れません。

清少納言と紫式部はライバルか?

清少納言と紫式部は『枕草子』『源氏物語』が2大随筆ともたたえられるくらいライバル関係にされることがあります。

清少納言紫式部
仕えた人皇后・定子皇后・彰子
仕えた時期993~10001005~1012
地位女房女房
皇后の家庭教師
代表作枕草子源氏物語
宮廷の派閥藤原道長藤原道隆・伊周

さっきも言ったように、二人は入れ替わりで宮仕えしているので面識はありません。

ただ、紫式部は清少納言についても触れています。ただそれがボロクソにくさしてる。

紫式部の清少納言評

紫式部
貴族 image
清少納言という人は、偉ぶってドヤってた人。
紫式部
貴族 image
偉ぶって漢字を使って書いているけども、よく見ると間違いが多い。

(当時の女性は漢字を使わないのが常識だった。)

(紫式部の父は漢学者。漢字にはくわしい。)

紫式部
貴族 image
人より特別に優れていると思い上がる人は、みっともないのが相場で、先々、悪くなるだけ。

(人にマウントするだけで、自分の間違いに気づけないマヌケ。)

(裸の王様になってあとあとヒドいことになる。)

紫式部
貴族 image
風流ぶる人は、どうでもいいことに感動するフリをするし、ネタ探しばっかりするもんだから不誠実な態度になる。

(使えるものを探しているだけで本質にたどり着けず、薄っぺらい人になる。)

紫式部
貴族 image
誠実さをなくした人の最後がいいはずがありません。

(自分にも人にもウソばっかりつく人がまともなわけない。)

知らない人のことをそこまで言う?

何度も言いますが、紫式部は清少納言と面識がありません。紫式部が宮廷に入ったとき、清少納言は伝説の女房になっていました。

政権幹部の四納言(しなごん。あとで説明)と交流もあったほどなので、その噂は天井知らず。

個人的な意見ですが、自分の目で見ていない人をここまでくさす紫式部は、正気を失っていると思います。

理論派の紫式部らしくない。

清少納言は、宮廷派閥では藤原道長に蹴落とされた道隆・伊周派だったので、悪い意味でも伝説が広まっていたのでしょう。

宮廷での自分の立場を守るために、道長にリップサービスをしたというなら納得ですが。

(このディスりは、プライベートなもの、『紫式部日記』に書かれてることなのでその可能性は低い。)

人を批評する紫式部ですが、後年、『源氏物語』をディスられます。

江戸時代前期の天才芸人・作家の井原西鶴(いはら さいかく)。

西鶴の処女作『好色一代男』(こうしょくいちだいおとこ)は、『源氏物語』のきらびやかな恋愛模様を、

『ただのヤリチンの話じゃねーか?』

『下ネタにきれいもなにも、上品・下品とかねーし、身分に違いもねー!』

と、皮肉ったツッコミ作品です。章立ても揃えるほどのこだわりよう。

和泉式部と清少納言の評価の違い

紫式部の清少納言の評は、和泉式部と同じで『紫式部日記』に書かれています。

ただ内容がちがいすぎる。

和泉式部には、『私生活がよろしくない』『和歌のテクニックはない』と言いながら、ワードセンスは認めています。

人物評と作品評のバランスを取っている。さすが理論派。

(『自分が恥ずかしくなるほどの才能じゃない』とマウントを取っているが。)

一方、清少納言については、人物評でくさしてるだけで作品評は皆無。

ボクの想像ですけど、皇后・彰子の界隈では、皇后・定子の悪口がこれでもかっていうくらい出回っていたんでしょうね? それはもうインターネットのアンチ扱い。

特定の情報以外が遮断された世界では、どんな優秀な人でも正気を失うという一例だと思う。

才能はあっても名前で呼んでもらえない

清少納言、紫式部、和泉式部。共通しているのは、作品は残っているのに、本名と生没年がはっきりしていません。

3人とも世の中に知られたのは宮中に入ってからで、それまでの人生、退官してからの人生が注目されず歴史として残らなかったから。

当時の宮仕えの女官は、本名を使わないのが当たり前です。そのかわり『〇〇の娘』と、父の役職 + あだ名を使っています。

このころの女官は、天皇や皇太子に見初められない限り本名は分からないことがふつうです。

文化だけじゃない。豊富な人材

一条天皇の時代は、宮廷文化だけに多くの人材がいたわけではありません。

仏教では、天台宗の源信(げんしん)が活躍しました。源信は浄土真宗では七高僧のひとりに数えられています。

また、四納言(しなごん)と言われる、優秀な政権中枢の政治家(貴族)もいました。

トップになってもおかしくない4人の貴族

人物最終官位・役職どんな人?
源俊賢
(みなもと の としかた)
正二位。
権大納言。
左大臣・源高明(みなもと の たかあきら)の3男。
第60代 醍醐天皇の孫。

父・高明が失脚しなければ、左大臣までなれたほどの人。
藤原公任
(ふじわら きんとう)
正二位。
権大納言。
関白太政大臣藤原頼忠(よりただ)の長男。

権力が藤原師輔(もろすけ)・兼家(かねいえ)ラインに移らなければ、
藤原氏長者になっていた立場。
藤原斉信
(ふじわら ただのぶ)
正二位。
大納言。
太政大臣・藤原為光(ためみつ)の次男。

藤原道長のいとこ。
先代・花山天皇の皇后・忯子(しし)の兄。

父の母・お祖母ちゃんが第60代 醍醐天皇の娘。
藤原行成
(ふじわら ゆきなり)
正二位。
大納言。
母が源保光(みなもと の やすみつ)の娘。
保光は第60代 醍醐天皇の孫。

(正二位:右大臣・左大臣クラスに相当。江戸幕府の将軍の最終官位に多い。)

(権大納言:大納言のポストが足りないときに与える大納言級の役職。)

役職は大納言止まりですが、全員、右大臣・左大臣になってもおかしくない立場。

そして、醍醐天皇の子孫が多く、藤原道長一派じゃないからを除けばいつでもトップを張れるような人ばかり。

目立つことと権力闘争にばかりエネルギーを使うアホのトップ道長の下で優秀な人材が一条天皇を支えました。

もう一つ共通点が。

彼らは、平安時代の善政をしいた天皇親政にゆかりのある人たちです。

醍醐天皇は天皇親政の代名詞にもなっている天皇で、藤原頼忠は後世に名を残す天皇親政を行った第62代 村上天皇の政権の中枢にいた人。

善政のDNAをもった政治家たちが一条天皇を支えたから道長が好き勝手できたとも言えます。

一条天皇と藤原道長の関係

一条天皇は最初の皇后・定子のことをないがしろにしませんでした。

むしろ定子のほうを大事にして、定子が産んだ敦康親王(あつやす)を皇太子にしたかったくらい。

敦康親王は才能がありピカイチの人だったそう。

でも敦康親王は藤原道長の孫じゃなかったので、道長に却下されました。

もうひとりの皇后・彰子にも皇子が生まれます。

敦成親王(あつひら。のちの後一条天皇)

敦良親王(あつなが。のちの後朱雀天皇)

二人は道長の孫。

皇統は彼らに引き継がれていく。

道長の思惑の通り。

こんな感じなので、道長に不満をもったこともあったみたいですが、一条天皇は道長と衝突することもなく平和にやっていたそう。

もともと穏やかな性格で勉強熱心な人で、『人民が寒さに苦しんでいるのに自分だけ暖かくすることはない』といって衣を脱いだという話もあるくらい、人を思う天皇だったようです。

だから優秀な人材が集まったのでしょう。

じつは、一条天皇は調子乗り?

一条天皇にはもうひとつ真逆の性格をあらわすエピソードがあります。

『我、人を得たること、延喜・天暦にも超えたり』

と言ったそう。

延喜は『延喜の治』(えんぎのち)のことで第60代 醍醐天皇の治世のこと。

天暦は『天暦の治』(てんりゃくのち)のことで第62代 村上天皇の治世のこと。

後世にも語り継がれる平安時代の治世です。どちらも天皇親政

『自分のもとに集まった人材は、延喜・天暦の治世を超えたぞ!』

と言ったんですね?

そう言いたくなるのも分かります。その人材の中心は四納言で、彼らは、延喜・天暦の治のDNAを引き継いだ政治家だから。

もしかすると、ちょっと調子に乗るところが道長とウマが合ったのかもしれません。

一条天皇は二人の息子が生まれた2年後、32才で亡くなります。

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天皇・皇室の本

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天皇の本10選

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