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第63代 冷泉天皇。リフティング大好き美少年。でも奇行が目立つ

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歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -

第63代 冷泉天皇(れいぜい)は美少年でしたが、奇行が目立った天皇だったと言われます。

が、本当なんだろうか? 今の時代だったら、何かでトップを取った人にも思える。

また冷泉天皇から、後見人の藤原氏が天皇に対して遠慮しなくなります。

(のちに藤原道長が栄華を極めるスタート地点。)

中世 平安時代 - 中期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 950年5月24日 ~ 1011年10月24日
    天暦4 ~ 寛弘8
    62才
  • 在位
  • 967年5月25日 ~ 969年8月13日
    康保4 ~ 安和2
    3年
  • 名前
  • 憲平
    (のりひら)
  • 藤原安子
    (ふじわら あんし / やすこ)

    藤原師輔の娘
    (ふじわら もろすけ)

  • 女御
  • 藤原懐子
    (ふじわら かいし / かねこ)

    藤原伊尹の娘
    (ふじわら これただ)

  • 女御
  • 藤原超子
    (ふじわら ちょうし / とおこ)

    藤原兼家の娘
    (ふじわら かねいえ)

  • その他

冷泉天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

リフティングに熱中しただけ?

先代で父・村上天皇は、平安時代では珍しい天皇親政でした。退位もせず現役天皇のまま亡くなります。

冷泉天皇は18才で即位しました。上皇はいません。

若すぎて政治ができるはずもなく後見人が必要です。父・村上天皇のとき政権トップの左大臣だった藤原実頼をすぐに関白にしました。

冷泉天皇は悪名高い天皇のひとりです。蹴鞠(けまり)に熱中し、天井の梁(はり)を狙い撃ちするのに異様にこだわっていたとか?

(球技をしている少年少女は気持ちが分かるはず。)

(梁は建物を支えるため天井にある横向きの大きな柱。)

絶世の美男美女カップル

『奇行が目立つ』と評判の冷泉天皇ですが、どえらいイケメンだったらしい。

そして皇后は、これまた『えも言われぬ美しさ』と大絶賛の、叔父・朱雀天皇の娘・昌子内親王(しょうし)です。

二人の間に子どもはいませんでしたが、当時のベストカップルと言ってもいいでしょう。

3年で退位。あとの生活は謎

冷泉天皇は在位3年、20才で退位して上皇生活に入ります。そのあと42年も生きました。

弟で次の円融天皇、その次の息子・花山天皇や、その他の子どもたちよりも長生きしました。

しかし、その後のことはほとんど分かっていません。

ボクは、冷泉天皇の『イッちゃってる』には若干の疑問があります。

そこまで奇行か?

冷泉天皇には数々の奇行が伝えられています。

足をケガしても気にせず、1日中、蹴鞠にばかり没頭していた。

子どものころ、父・村上天皇からの手紙に、チンコの絵を一面いっぱいに書いて返した。

宮中の小屋の屋根の上に座っていた。

病気で寝込んでいたとき、大声で歌を歌っていた。

上皇になっての住まいが火事になったとき、逃げる牛車の中で大声で歌を歌っていた。

たしかに普通じゃないところはありますが、蹴鞠に熱中するのはアスリートにも見えるし、気分転換に高いところに登ることあるし、気分を高めるために大声で歌う人いるし。

(風呂場がスタンダードか?)

チンコの絵を書いて送りつけるのは、子どもにありがちなイタズラでオヤジを茶化しているようにも見えるし。

正直、ボクの今までの人生を振り返っても、思い当たるフシはあります。

冷泉天皇の置かれた立場からすれば、おとなしい方でしょう。

ストレスしかない冷泉天皇の立場

そもそも冷泉天皇は、藤原氏の思惑で生まれてすぐに皇太子になりました。

元々、同じ年の兄・広平親王(ひろひら)がいましたが、お祖父ちゃんの藤原師輔(ふじわら もろすけ)とその兄・藤原実頼(ふじわら さねより)が長男をさしおいて皇太子にします。

(冷泉天皇は次男。)

そして、実頼が関白になって後見人になると、今までとはちがう藤原氏になっていました。

これまでも、藤原氏は天皇の親戚・天皇の子孫の立場を使ってやりたい放題していましたが、天皇や皇太子には気を使っています。

これが冷泉天皇から無くなりました。なんなら、

『オレたちが皇太子を決める。』

『オレたちが天皇を即位させる。』

『オレたちが天皇が辞めるタイミングを決める。』

の勢い。それを決定づけたのが安和の変(あんなのへん)です。

安和の変。藤原一強の完成

冷泉天皇の政権には、藤原氏の最大のライバル・源氏も入っていました。源高明(みなもと の たかあきら)です。

関白藤原実頼
(ふじわら さねより)
左大臣源高明
(みなもと の たかあきら)
右大臣藤原師尹
(ふじわら もろただ)

関白は天皇の後見人の意味が強いので、政権トップは左大臣の高明。

(左大臣は今の総理大臣みたいなもの。)

冷泉天皇のもうひとりの後見人・源高明

冷泉天皇が即位したとき、お祖父ちゃんの藤原師輔はすでに亡くなっていました。

(だから右大臣は弟の藤原師尹がなった。)

源高明は、冷泉天皇にとって本当の後見人といっていい人です。

高明は源氏ですが第60代 醍醐天皇の息子。父・村上天皇の兄です。冷泉天皇からすると叔父さん。

お祖父ちゃんがいなくなったあと、一番頼りにしていたとしても不思議ではありません。

冷泉天皇の?
関白藤原実頼お祖父ちゃんの兄。
大叔父。
左大臣源高明父の兄。
叔父。
右大臣藤原師尹お祖父ちゃんの弟。
大叔父。

冷泉天皇のバックアップ体制は盤石です。

源高明は、いくつも系統のある源氏をまとめる源氏長者でもあった。

源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)

天皇の子孫の氏族の源氏には21の系統がある。その総称。

天皇の息子・孫を臣籍降下して民間人にするのに源(みなもと)姓は多く使われ、第52代 嵯峨天皇の息子から始まる。

平安時代の初期から中期にかけて、天皇は源氏を作るのが常識なほど一番多く作られた。

ペースは徐々に落ちていくが、戦国時代の第106代 正親町天皇の系統が江戸時代初期に作られたのが最後。

1第52代 嵯峨天皇嵯峨源氏
(さが)
最初は、左大臣・右大臣など、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。
徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなる。

渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など知る人ぞ知る武士に残った程度。
2第54代 仁明天皇仁明源氏
(にんみょう)
嵯峨源氏と同じく、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。

仁明源氏の中から平氏に枝分かれしたのもいる。
仁明平氏

徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。
3第54代 文徳天皇文徳源氏
(もんとく)
前例と同じく藤原氏と並ぶ政治家一門だった。
徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。
4第56代 清和天皇清和源氏
(せいわ)
政治家としてはパッとしない。
国司や軍事専門の地方役人などに多くの人を輩出する。

それらが武士となり、日本最高の武家一門に成長する。
源頼朝、足利高氏など有力武将は数知れず。

貴族としては公卿にギリギリ滑り込んだ程度。
唯一残っていた竹内家がつづき明治に華族になった。

21の源氏の中でもっとも有名になった家。

村上源氏以外でただひとり、足利義満が太政大臣になった。
5代57代 陽成天皇陽成源氏
(ようぜい)
多くの公卿を輩出する政治家一門だったが、これまでの源氏と比べ見劣りする。
その後も目立った貴族、武士などはいない。
6代58代 光孝天皇光孝源氏
(こうこう)
最初は、中納言を輩出するなど政治家一門だったがフェードアウト。

その中でひとり、康尚(こうしょう)が仏師になり日本仏教彫刻の最大勢力、慶派(けいは)を作っていく。
鎌倉時代の有名な彫刻家、運慶湛慶(うんけい・たんけい)もその子孫。

その他、数々の天才彫刻家は数知れず。
慶派は幕末の動乱まで仏師の主流だった。
(日本の彫刻界の中心だったと言ってもいい。)
7第59代 宇多天皇宇多源氏
(うだ)
最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。

鎌倉時代には綾小路家・大原家など公卿の中堅に多くを出した。
明治になると多くが華族になる。

佐々木氏など有力武士も多いが天下取りを争うほどではない。
8第60 醍醐天皇醍醐源氏
(だいご)
最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。
その後、貴族ではあったが地下家(じげけ)で上流貴族になれていない。

地方に散らばり武士になった人も多いがメジャーではない。
9第62代 村上天皇村上源氏
(むらかみ)
多くの源氏が朝廷でフェードアウトする中、最後まで上流貴族を保った。
(天皇の子孫の意地を見せた。)

藤原氏にかくれているが、貴族の源氏と言えば村上源氏というくらいの勢力。

源氏で最大の3人の太政大臣を出す。

明治維新の岩倉具視(いわくら ともみ)を出した。
武士では北畠氏(きたばたけ)を出した。
10第63代 冷泉天皇冷泉源氏
(れいぜい)
作られた当初から存在感がない。
本当にあったのか? と思うほど。
11第65代 花山天皇花山源氏
(かざん)
ギリギリ上流貴族の半家に白川伯王家(しらかわはくおう)が残っただけ。
1家で頑張ってきたが昭和になって断絶した。
12第67代 三条天皇三条源氏
(さんじょう)
貴族では最初からパッとしない。
僧侶や天皇の妻などになり目立たない。
13第71代 後三条天皇後三条源氏
(ごさんじょう)
ひとりだけ源氏になった源有仁(みなもと の ありひと)は左大臣までなったが後継者がいなくて断絶。

武士の中には後三条源氏を名乗るものがいたが自称の可能性が高い。
14第77代 後白河天皇後白河源氏
(ごしらかわ)
反平家の挙兵をした以仁王(もちひとおう)ひとりだけ。

皇籍を剥奪され懲罰で源氏になった。
討伐軍に追われて戦死。
15第84代 順徳天皇順徳源氏
(じゅんとく)
ひとり左大臣を出した。
室町幕府 第3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)のときに最後の一人が出家してしまい断絶。
16第88代 後嵯峨天皇後嵯峨源氏
(ごさが)
源惟康(みなもと の これやす)ひとりだけ。
鎌倉幕府 第7代 征夷大将軍になる。

親王のままの将軍は都合が悪いから源氏になった可能性が高い。
17第89代 後深草天皇後深草源氏
(ごふかくさ)
鎌倉幕府 第8代 将軍・久明親王(ひさあきら)の孫が源氏になる。

大納言にまでなったがあとが続いていない。
18代90代 亀山天皇亀山源氏
(かめやま)
特筆する人はない。
19第84代 後二条天皇後二条源氏
(ごにじょう)
特筆する人はいない。
20第96代 後醍醐天皇後醍醐源氏
(ごだいご)
後醍醐天皇の孫が源氏になったと言われるが、詳細がない。
(信憑性はないかも?)

武家の大橋氏、神社を代々守る社家の氷室氏など末裔を名乗る氏族はいる。
21第106代 正親町天皇正親町源氏
(おおぎまち)
正親町天皇は織田信長・豊臣秀吉のころの天皇だが、江戸時代にその子孫が源氏になる。
広幡家(ひろはた)

摂関家に次ぐ清華家になるなど格別の待遇を受けた。
明治になると華族になる。

源氏として活躍したのは平安中期までに作られた源氏で、村上源氏で勢いは止まる。

その後は活躍する人が出ていない。鎌倉時代は幕府の将軍が大きく関係している。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。

貴族の家格(かかく)

平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。

(主に藤原氏と天皇の子孫の源氏

鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。

1摂関家
(せっかんけ)
摂政関白太政大臣になる。
五摂家。
すべて藤原北家の流れ。
2清華家
(せいがけ)
摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。

江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。
(江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。)

三条(さんじょう)
西園寺(さいおんじ)
徳大寺(とくだいじ)
久我(こが)
花山院(かざんいん)
大炊御門(おおいのみかど)
菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ)
の7家。

久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。
村上源氏

ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。

江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。
広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏
醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。
3大臣家
(だいじんけ)
清華家の分家。
摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。
大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。
(まれに右大臣になる人もいた。)

太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。

正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが)
-> 三条家の分家。藤原氏。

三条西(さんじょうにし)
-> 正親町三条の分家。藤原氏。

中院(なかのいん)
-> 久我の分家。村上源氏。

の3家。
4羽林家
(うりんけ)
近衛少将・中将になる。
参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。

軍事を担当する。
江戸時代には大名家に与えられた。

藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家)
藤原南家: 4家
村上源氏: 8家(久我の分家)
宇多源氏: 3家

数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。
4名家
(めいけ / めいか)
序列は羽林家と同じ。
最高位も同じで大納言
(例外で左大臣になる人もいた。)

天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。
羽林家は武門に対して名家は文官。

藤原北家: 25家
桓武平氏: 3家

平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。
5半家
(はんけ)
大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。
(上流貴族でも政権中枢に入れない)

特殊技能を使って朝廷の仕事をした。

藤原北家: 2家
清和源氏: 1家
宇多源氏: 2家
花山源氏: 1家
桓武平氏: 2家
菅原氏(すがわら): 6家
清原氏(きよはら): 3家
大中臣氏(おおなかとみ): 1家
卜部氏(うらべ): 4家
安倍氏(あべ): 2家
丹波氏(たんば): 1家
大江氏(おおえ): 1家

いろいろな氏族が入っている。
菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。

清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。

大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。
古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。

卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。

安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。
(神話の話で信憑性も薄い。)

安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。
陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。

丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。
医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。

大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。
土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。
(ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。)

上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。
堂上家

表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。

堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。

堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。

また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。

これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。

正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
堂上家無条件に清涼殿への出入りが許される。
政権中枢の人しかいない。

今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
殿上人本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。
実態は堂上家が認め天皇が追認。

この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。

今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。

正六位上
以下
地下家清涼殿への出入りが許されない。
位階と家柄

朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。

位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

冷泉天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

皇太弟選びでバチバチ。藤原氏 vs 源氏

皇太弟(こうたいてい)

天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。

皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。

冷泉天皇の皇太弟には、冷泉天皇の弟・為平親王(ためひら)が有力視されていました。

冷泉天皇は『イッちゃってる奴』の最低な評価でしたが、弟の為平は最高評価を受けていたから。

しかし、為平は皇太弟になりませんでした。嫁が源高明の娘だったので、ライバルの藤原氏源氏にすべてを奪われると思ったのでしょう。

そんなとき、源高明に謀反の疑いがかけられます。

源氏長者の左遷。源氏勢力の負け確定

安和の変は、源高明が東国で為平親王を立てて兵を挙げるというもので、まず先に高明の部下が逮捕されました。

(じっさいに兵は挙げていない。)

右大臣藤原師尹はそれを関白藤原実頼に知らせ、高明の謀反を断定します。

高明は太宰府の長官級の役職に格下げされ九州に左遷されました。冷泉天皇の政権は始まってすぐにメンバーチェンジします。

関白藤原実頼
(ふじわら さねより)
左大臣藤原師尹
(ふじわら もろただ)
右大臣藤原在衡
(ふじわら ありひら)

藤原在衡は、藤原北家の流れですが本流ではありません。入った理由は、謀反の疑いはウソだったし、そのウソを作り上げた実行部隊の中心に源氏がいたから。

(どういうこと?)

源高明の謀反をでっち上げたのはあの源氏

ウソの謀反を密告したのは源満仲(みなもと の みつなか)。清和源氏です。そして、ウソの謀反人を逮捕していったのが満仲の弟・源満季(みつすえ)。

源満仲は、のちの武士の世の中を作る源頼朝(みなもと の よりとも)、足利高氏(あしかが たかうじ)の祖先。

武田信玄の祖先でもある。というか清和源氏は名だたる戦国武将のかなりの数の祖先。

清和源氏は、源氏としては新参者の醍醐源氏・源高明が源氏の代表なのにイラついていたのでしょう。

また、清和源氏はすでに貴族というより軍人(武士)になっていて、軍人の中での出世を狙っていました。

(じっさい、安和の変のあと出世する。)

まちがいなく藤原氏に利用されました。

もし、右大臣藤原北家本流から出していたらどうなるか? 反発必至です。

また、源高明は嫁を藤原北家の本流からもらっていたので親戚関係でもありました。

(高明の妻は、冷泉天皇の母・藤原安子(あんし)の妹。藤原師輔の娘。)

藤原北家からすると、天皇の息子の親戚でさえ蹴落とした、自分のことしか考えてない人たちという評判を恐れたのでしょう。

(とりつくろってもそう見えるが。)

源高明の妻は皇后の妹なのに名前が分かっていない。

(歴史学者くらいの人なら知っているのかな?)

個人的には、本当に皇后の妹なのか? 藤原氏だったのか? と疑う。

『平安貴族 = 藤原氏』のスタート

冷泉天皇の時代は、平安時代のひとつの特長を確定させました。

藤原氏がライバルの源氏を追い出し、そのほとんどを下級貴族の軍事専門の人(のちの武士)に固定させます。

『貴族は藤原氏で武士は源氏』になりました。

冷泉天皇の奇行は分かるような気がします。

父・村上天皇天皇親政で、藤原氏や源氏を従えていました。それが父が亡くなって自分の番になった途端、家族の藤原氏がもうひとつの家族、源氏を追い出し、自分をナメたような態度を見せ始めます。

あとになりますが、冷泉天皇の息子・三条天皇は、藤原道長(ふじわら みちなが)にさんざんイジメられる始末。

(これはこれで異常。)

冷泉天皇
no image person
どうせナメてるんでしょ? アホのフリしてやりたいことやっちゃお!

冷泉天皇からすると、こう思っても不思議ではありません。

父・村上天皇は後年、『天暦の治』(てんりゃくのち)と最大級の評価を受けています。

それと比べられて必要以上に悪い評価を受けてしまったのでしょう。

平安時代の高評価の天皇は天皇親政

天皇の評価に『どれだけ貴族を従えていたか?』があるように思える。

冷泉天皇は天皇親政を続けられなかったどころか、藤原氏のさらなる増長を許した。

それが悪評の原因かも知れない。

そもそも、悪評を藤原氏北家が流した可能性もある。藤原氏からすれば天皇親政のいちメンバーは面白くないし、天皇親政を引き継ぐ冷泉天皇はジャマ。

天皇が無能だから藤原氏がやってやってるのほうが都合がいい。

じっさい、後にさらに絶大な権力をもつ摂関家と冷泉系統の相性は悪く、冷泉天皇に続く天皇たちは評判が悪い。

これで源氏の貴族は根こそぎ排除されたわけではない。左大臣・右大臣になる人もいるし、太政大臣になった人もいる。

でもこのころには藤原氏に脅威を与えるほどの力はなかった。

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第62代 村上天皇。律令政治の終わり。貴族の源氏の主流、村上源氏の祖先。
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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

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日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

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