『平氏は有名な武士』。これで覚えると、平氏が何者なのか? どこから来たのか? まったく分かりません。
また、天皇の子孫だということを知っていても、なんで武士として有名になったのか分かりません。
その答えは国司にあります。
平氏だけじゃない天皇の子孫の氏族
平氏に限らず、日本の有力な氏族は天皇の子孫が多いです。
天皇の息子や孫に姓(せい)を与えて皇族から独立させる方法は大昔からありました。
古墳時代どころか、それよりもっと前の、天皇の存在すら確認されていない時代からやってきた方法です。
ひとつ挙げると武内宿禰(たけしうち の すくね)。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰が伝説の臣下なのであてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかしこれは、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかどうかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
武内宿禰は、古墳時代の有力豪族の葛城氏(かずらき)や蘇我氏(そが)の祖先とも言われます。
飛鳥・奈良時代の橘氏(たちばな)や清原氏(きよはら)も天皇の子孫。
平安時代の初期、嵯峨天皇が調べさせた都まわりの氏族は 1 / 3 が天皇の子孫だと言っています。
平氏は昔から行われた天皇の子孫氏族の新参者。平安時代に天皇家から離れました。
これを臣籍降下と言います。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
どうして天皇家から独立させる?
平安時代より前はとくに、日本の国家の政治は天皇が自ら行なっていました。
それを支える政治家たちも皇族。これを皇親政治(こうしんせいじ)と言います。
(平安時代以降は天皇親政(てんのうしんせい)と呼ばれる。)
ただ、すべての皇族たちを政治家にするほど国が大きくありません。ある程度ポストが埋まってしまうと、残りは自分の力でやってほしくなってきます。
そこで、姓を与えて民間人にしました。ただ、無一文で放り投げるのはかわいそうなのである程度の地位を与えて。
結局、皇親政治を支えた氏族は元・皇族が多いです。
親王は残留。王は放出候補
だれを民間人にするかの基準は、親王・王です。
(女性なら内親王か女王)
今の法律では、天皇の孫までが親王(内親王)、ひ孫から王(女王)ですが、昔のルールでは、天皇の子どもまでが親王、孫から王。
天皇の皇子は次期天皇になる候補なので、親王として皇族に残留させました。
王はそのときの状況で民間人にされます。ただ、最後まで王でありつづけた人もいました。
平氏は何天皇の子孫?
そんな天皇の子孫の氏族・平氏は、平安時代の幕開けだった第50代 桓武天皇の孫から始まります。
桓武平氏(かんむへいし)と言います。
平氏は4人の天皇から始まり、すべて平安時代の初期から中期までの天皇から独立した氏族ですが、桓武平氏以外は歴史の表舞台に出てくるほどの活躍ができていません。
祖先の天皇 | |
---|---|
桓武平氏 (かんむ) | 第50代 桓武天皇 |
仁明平氏 (にんみょう) | 第54代 仁明天皇 桓武天皇の孫。 |
文徳平氏 (もんとく) | 第55代 文徳天皇 仁明天皇の子。 |
光孝平氏 (こうこう) | 第58代 光孝天皇 仁明天皇の子。 |
鎌倉、室町、江戸時代とあとになって無名の3平氏の末裔だという人は出てきますがかなり怪しい。
一般的には、平氏は桓武平氏のことを言います。
そして、桓武平氏には大きくふたつの系統があります。ひとつは貴族の平氏、そしてもうひとつは国司の平氏。
なぜ平氏はひとつしか残らなかったのか?
平氏は桓武平氏しか残らなかった理由は、平氏の兄貴分、源氏が強かったから。
(源氏は814年、平氏は825年に最初の臣籍降下が行われる。)
源氏は、桓武天皇の息子・第52代 嵯峨天皇の息子から始まり、21人の天皇から生まれました。
平氏の生みの親、仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇からの源氏も出ています。そして源氏は、平氏と同じ平安の初期から中期にかけて大量生産されました。
そりゃ、ひとつしか残らないですよね? 圧倒的な数の源氏がいて、平氏と同時に源氏が出ている天皇が3人もいたら。
平氏は平安時代の天皇の子孫氏族のはしりですが、兄貴が強すぎて影の薄い弟分になっちゃいました。
というか、源氏が一大勢力になったら平氏を出す意味がなくなってしまったようです。
平氏は源氏のおまけ?
ボクは平氏の誕生は源氏のおまけだと思っています。
第52代 嵯峨天皇はたくさんの子どもがいて、次期後継者の候補を数名残してあとは源姓を与えて民間人にしました。皇女から源になった人もいます。
平氏を作ったのは次の退位した嵯峨上皇です。たくさんの甥っ子・姪っ子が源氏になっていたのを見て、それ以外で宙ぶらりんになった甥っ子の王たちがかわいそうになったのでしょう。
弟・葛原親王(かずわら)の息子を平氏にします。どうやらここで気を使ったらしい。
最初の源氏・嵯峨源氏の第1世代は第50代 桓武天皇の孫です。そして葛原親王の息子も同じ桓武天皇の孫。
ここで源氏にしてしまうと、先輩・嵯峨源氏よりも古い・桓武源氏になってしまいます。
源氏とはちがう流派ということで平氏になったと思います。
桓武平氏の祖は二人の王
桓武平氏の始まりは、桓武天皇の皇子・葛原親王(かずわら)の子孫から始まります。
高棟王(たかむね)と高望王(たかもち)の二人。
この二人が臣籍降下で平氏を名乗り、平高棟(たいら の たかむね)、平高望(たいら の たかもち)になりました。
それぞれ、高棟流、高望流ともいいます。
高棟流は貴族としてスタートし中流貴族として生き残っていきます。もうひとつの高望流は国司としてスタートし、その後、武士へと広がっていきます。
平高望はなぜ貴族になれなかったのか?
平高望は最初から国司の任官、中央政治には入れませんでした。理由は出自が怪しいから。
当時は文献に残ることがあたりまえなのに、高望王がだれの子か分かっていません。
父が葛原親王の子・高見王(たかみおう)という記録はあるのですが、この高見王が何者だったのか分かっていない。
無位無官だったそう。
天皇の孫が、無位無官というのが怪しまれる原因。
高見王は架空の人で高望王は葛原親王の子で高棟王の弟という説もあります。あまり期待されていなかったので地方勤務になったんでしょうね?
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

中流貴族の平氏(堂上平氏)
貴族として唯一残った高棟流も大出世できる貴族ではありませんでした。出世したとしても大納言止まり。
(平高棟が大納言で終わってるのでそれ以上はない。)
せいぜい中納言や上級官僚がいいところで、時代が経つと国司になる人が多くなっていくようなポジション。
表舞台に出られたのは、ポンコツ平氏から生まれた武士の平氏、平清盛(きよもり)のおかげ。
清盛は出世する中で遠縁の貴族の平氏、高棟流から時子(ときこ)を正室を迎え、その妹・滋子(しげこ)を第77代 後白河天皇の女御に送り込みました。
女御(にょうご)
位の高い朝廷の女官。天皇の側室候補でもあったので、天皇の側室という意味もある。
高棟流のクライマックスは滋子が産んだ皇子が第80代 高倉天皇になったところ。
そのあとは、平氏が源氏に倒されて鎌倉時代に入り、また中流貴族に戻っていきます。
歴史では消えてしまいましたが、明治維新まで中級貴族をキープしました。
時子、滋子の父・平時信(ときのぶ)は死後に左大臣を追贈される。
高倉天皇のお祖父ちゃんだったから高棟流としては格別の出世。

聞き馴染みのない『堂上平氏』
高棟流の中流貴族平氏のことを堂上平氏(どうがみ へいし)ともいいます。
堂上とは、平安京の清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許される貴族のことで、貴族のランクは家で決まるので堂上家(どうがみけ)といいます。
貴族の家格(かかく)
平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。
(主に藤原氏と天皇の子孫の源氏)
鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。
1 | 摂関家 (せっかんけ) | 摂政、関白、太政大臣になる。 五摂家。 すべて藤原北家の流れ。 |
2 | 清華家 (せいがけ) | 摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。 江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。 (江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。) 三条(さんじょう) 西園寺(さいおんじ) 徳大寺(とくだいじ) 久我(こが) 花山院(かざんいん) 大炊御門(おおいのみかど) 菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ) の7家。 久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。 (村上源氏) ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。 江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。 広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏。 醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。 |
3 | 大臣家 (だいじんけ) | 清華家の分家。 摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。 大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。 (まれに右大臣になる人もいた。) 太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。 正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが) -> 三条家の分家。藤原氏。 三条西(さんじょうにし) -> 正親町三条の分家。藤原氏。 中院(なかのいん) -> 久我の分家。村上源氏。 の3家。 |
4 | 羽林家 (うりんけ) | 近衛少将・中将になる。 参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。 軍事を担当する。 江戸時代には大名家に与えられた。 藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家) 藤原南家: 4家 村上源氏: 8家(久我の分家) 宇多源氏: 3家 数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。 |
4 | 名家 (めいけ / めいか) | 序列は羽林家と同じ。 最高位も同じで大納言。 (例外で左大臣になる人もいた。) 天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。 羽林家は武門に対して名家は文官。 藤原北家: 25家 桓武平氏: 3家 平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。 |
5 | 半家 (はんけ) | 大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。 (上流貴族でも政権中枢に入れない) 特殊技能を使って朝廷の仕事をした。 藤原北家: 2家 清和源氏: 1家 宇多源氏: 2家 花山源氏: 1家 桓武平氏: 2家 菅原氏(すがわら): 6家 清原氏(きよはら): 3家 大中臣氏(おおなかとみ): 1家 卜部氏(うらべ): 4家 安倍氏(あべ): 2家 丹波氏(たんば): 1家 大江氏(おおえ): 1家 いろいろな氏族が入っている。 菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。 清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。 大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。 古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。 卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。 安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。 (神話の話で信憑性も薄い。) 安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。 陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。 丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。 医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。 大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。 土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。 (ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。) 上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。 |
表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。
堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。
堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。
また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿は許された人を殿上人(てんじょうびと)という。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
『堂上平氏』という言葉はあまり一般的ではありません。
平清盛のおまけで出てきてすぐ表舞台から去ったので、そもそもこんな平氏がいる事自体、知られていないのが理由です。
スーパースターはポンコツから生まれる
もうひとつ残った平氏は高望流です。こっちは高棟流とちがって、キャラクターの濃い人たちが多く歴史に登場します。
新皇を名乗って反乱した平将門(まさかど)や平清盛(きよもり)もこの系統。また、この流派からいろいろな平氏が派生しました。
元祖・武士と言っていいです。
戦国武将では、北条早雲(ほうじょう そううん)や織田信長(おだ のぶなが)もこの系統。
坂東平氏(ばんどうへいし)や伊勢平氏(いせへいし)は聞いたことがあるでしょう。
これも高望流です。
高望流のスタートは国司のナンバー2
平高望(たかもち)の役職は上総介(かずさ の すけ)です。国司のトップじゃないところに期待されてないことが分かる。
(トップは上総守(かずさ の かみ)。)
いまでいうと千葉県副知事。戦国時代にはあの織田信長が名乗っていた役職でした。
(オレは高望流だぜ~って言いたかったか?)
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
スタートからしてこんな感じなので、高望流は出世してもせいぜい国司や検非違使など中央政府の下っ端役人。
これが『武士の平氏』のベースになります。
征夷大将軍と検非違使(せいいたいしょうぐん・けびいし)
平安時代の最初の天皇・第50代 桓武天皇が軍事の地方分権化によって手薄になったので作られた首都警護の役職。
最初は所轄官庁がなく天皇直属の警備隊だった。
第53代 淳和天皇のとき所轄官庁の検非違使庁ができる。今でいう警視庁のようなもの。
また桓武天皇は、軍事力を地方の所轄官庁・国司に丸投げして国軍をもつことを止めた。
同時に天皇が自ら軍の総司令官になることもやめる。それに代わってできたのが征夷大将軍。
征夷大将軍はいざ戦争が起きるときに任命される臨時職で招集された国司をまとめる役目。
征夷大将軍が常にいるようになるのは、幕府の将軍(征夷大将軍)が国の統治をするようになった鎌倉時代から。
くわしくはこちらで。
上総国は親王任国で長官の守は天皇の子(孫)が代々務める特殊な国です。
だから信長も上総守を使わなかった。
第50代 桓武天皇の子どもから任官が始まっているので、平高望はその補佐を任された可能性もある。
『親戚のおじさんを助けるつもりで行ってくれよ。』ということ。
国司は軍の司令官
桓武平氏の祖先・桓武天皇は、国軍をもたず軍の地方分権を行った天皇です。
軍を全国に散らばった国司にもたせ、手薄になった都には検非違使(けびいし)を置き、国軍の総司令官が必要なときだけ任命する征夷大将軍を作りました。
当時の日本には国軍はなく、必要なときだけ必要な国司が集められる国司連合軍で、征夷大将軍がそれをまとめていた。
戦争が起きる近隣の国司が集められ戦闘に参加した。全国の国司が総動員されたことは一度もない。
桓武平氏が生まれたころ、一番軍事力を持っていたのは国司です。平高望は上総国(かずさ。千葉)の軍事力を動かせたということ。
息子たちの時代になると、東国でとくに関東を中心に一番軍事力をもった勢力に拡大します。
息子たちについて触れられる時、『平安時代初期の武将』や『武士の前身。武士の始まり』と表現されるのは強い武力をもった国司の子孫から有名な武士が出てきたから。
また、ポンコツ平氏なのになぜ強くなれたかといえば、ポンコツがゆえに派遣された地方で自動的に軍事力が手に入ったことと、当時、軍事担当の貴族は下に見られてたから。
『国司になる = 左遷。二度と中央政府には戻れない』
くらいの感覚だったので、『この地で拠点を作ってトップを張ろう』と思う人が多かった。
国司は、システム的にも、赴任した貴族の気持ち的にも武士になりやすい環境だった。
坂東平氏(ばんどうへいし)とは?
上総国(かずさ。千葉)から東国一帯へ広がった武力に強い平氏のことを坂東平氏といいます。
高望流・平氏 = 坂東平氏と言っていいでしょう。『坂東』はいまの関東のこと。京都から見て山の向こうの東一帯の辺境の土地です。
坂東平氏の第一世代、高望の息子たちは東国の国司として散らばりました。当時の常備軍の最高司令官・鎮守府将軍になった人もいます。
鎮守府(ちんじゅふ)は国司以外で唯一と言っていい常設軍をもった組織で、陸奥国(むつ。福島・宮城・秋田・山形)にあった。
主に東北の反乱を抑えるために置かれた組織。東国一帯に睨みをきかせる組織でもある。
鎮守府将軍は、鎌倉幕府の将軍が征夷大将軍になるまで、日本の軍事の一番上の司令官として見られていた。
征夷大将軍は臨時総司令官だったので。
坂東(ばんどう)と関東(かんとう)
坂東の坂は箱根連山に連なる足柄峠(あしがら)、碓氷峠(うすい)のこと。
簡単に言うと、箱根を越えた東が坂東。古代・奈良時代には言葉として定着していたらしい。
関東は日本で最初にできた『関所の東』のことで古代からあった。領域は広く都の東一帯、東国のことを指す。
鎌倉時代になると、畿内・西国の朝廷の影響下に対抗して、幕府の管轄内の領域のことを関東というようになる。
(静岡・神奈川・山梨・長野・新潟も含まれる。)
室町時代には関東管領(かんとうかんれい)という役職ができる。越後の上杉謙信がなれたのは、当時の関東は越後(新潟)も入っていたから。
江戸時代になると、幕府の重要な関所が箱根にあり、『箱根の関所の東』が関東になる。
江戸時代の関東がほぼ坂東と同じ領域なので、『坂東』という言葉は使われなくなっていった。
江戸時代の関東が今でもつづく。
箱根の関所の3ヶ所のうち、足柄峠に箱根関、碓氷峠に碓氷関があった。坂東といまの関東の境界線が同じなのが面白い。
狙ってやったんだろうか?
ちなみに、板東英二が関係しているかは不明。
坂東平氏のスーパースター・平将門(たいら の まさかど)
坂東平氏のスーパースターといえば平将門でしょう。将門は平高望(たかもち)の孫です。
将門は新皇を名乗って反乱を起こしたことになっていますが、本当は関東一帯に広まった坂東平氏の内部衝突を抑え込んだだけでした。
高望の子どもたちは武将だったのでバトルロワイヤルが絶えません。将門は平清盛(きよもり)の祖先・平国香(くにか)を殺しています。
将門の敵は叔父さんたちで、そこに参加した国司・郡司など、立場を超えて武力に自信のある者が入り乱れていました。
最後は、国香の息子・平貞盛(さだもり)に鎮圧されて終わります。
(清盛は貞盛の子孫でもある。)
将門は国司・郡司など地方の有力な役職ではなく、若い頃に才能を認めてくれた当時の関白・藤原忠平(ふじわら ただひら)に願い出たが、満足のいく地位はもらえなかった。
ただ忠平の信頼は厚く、忠平の直属の部下みたいになっていた。

伊勢平氏(いせへいし)とは?
坂東平氏が東国一帯に広まっていくと、それぞれ地盤を固めて土着した平氏になります。
常磐平氏 (ときわ) | 平将門を討った平貞盛(さだもり)が本拠地にしていた 常磐(ときわ。茨城)を弟・繁盛(しげもり)に譲り、 繁盛の子孫が土着した系統。 鎮西平氏(ちんぜい。熊本): 伊佐氏 越後平氏(えちご。新潟): 城氏 信濃平氏(しなの。長野): 仁科氏 海道平氏(かいどう。福島): 岩城氏 などに分かれた。 |
伊勢平氏 (いせ) | 貞盛の息子・平維衡(これひら)は東国各地の国司を 歴任し、その中のひとつ伊勢国(いせ。三重)を本拠地 にしたのが始まり。 平清盛(きよもり)を出したことで平氏の最大勢力になる。 |
房総平氏 (ぼうそう) | 平将門に討たれた国香(くにか)の弟・良文(よしふみ) の孫で、母方から見て将門の孫でもある平忠常(ただつね) から始まる系統。 お祖父ちゃんの代から続く、千葉・茨城一帯の広大な土地を受 け継いだ。 上総氏(かずさ)、千葉氏(ちば)は、房総半島一帯で生き 残った房総平氏の流れ。 |
秩父平氏 (ちちぶ) | 良文の孫・平将恒(まさつね)が本拠地にしていた武蔵国・ 秩父郡(むさし・ちちぶ。埼玉)から始まった系統。 多数の氏族が出たが、地方豪族を超える勢力は出ていない。 |
この中で注目するところは伊勢平氏。伊勢平氏からは平清盛(きよもり)が出てきます。
というか他の平氏は全国展開するまでにはなれていない。
武士の平氏といえばこの伊勢平氏のことを言うのが一般的です。ただ、東国と言われた地域の地方史を学ぶと、そのほかの平氏がよく出てくるでしょう。
なぜ伊勢平氏だけが大きくなれた?
伊勢平氏が大きくなれた理由は地の利。この一点につきます。
武力でいえば関東の坂東武士は相当強いです。ただ都から遠いので全国展開するための活動ができません。
(全国展開するには中央政府とのコネクションが欠かせない。)
一方、伊勢(三重)は東国とはいえ、山を超えてしまえば都です。船で大阪経由で行ってもいい。中央政府とのコネクションが作りやすい。
織田信長は天下を取りましたが、それよりも軍事力を持っていた武将はいくらでもいました。
(中国・毛利、越後・上杉、信濃・武田、相模・北条。)
それと同じ。そもそも、関東の武士が全国展開を狙ってたのかすら怪しいです。まわりが強者だらけなので守るだけで精一杯だったのかも。
戦国時代の北条氏(後北条氏)は伊勢平氏の流れ。
関東なので伊勢平氏以外の流れに思えるが、北条氏の祖・北条早雲(ほうじょう そううん)は伊勢氏の出身で、伊勢氏は伊勢平氏の末裔。
(そのまんま。)
また、早雲は伊勢の生まれではなく備中(びっちゅう。岡山)。ややこしい。
院政の波に乗る
伊勢平氏がグングン勢力を拡大するころ、伊勢から都に行くルートは武将になっていた源氏の本拠地でした。
大阪・奈良は摂津源氏、大和源氏、河内源氏の拠点。そして河内源氏は東国にまで勢力を拡大していました。
美濃 (みの) | 岐阜。 東国から都に入る玄関口。 |
甲斐・信濃 (かい・しなの) | 山梨・長野。 東国内陸部の幹線沿い。 (中山道) |
上野 (こうずけ) | 北関東(群馬) 中山道と東北をつなぐ。 |
下野 (しもつけ) | 北関東(栃木) |
陸奥 (むつ) | 福島・宮城・岩手・青森 東北の中心。 鎮守府があった。 |
出羽 (でわ) | 山形・秋田 |
河内源氏は都の出入り口と東国の主要拠点をすべて抑えています。今でいうと、新幹線と高速道路にアクセスがいいところ、主要都市を抑えているようなもの。
これをひっくり返したのが伊勢平氏。どう見ても無理なんですが、河内源氏の自滅と摂関政治から院政に変わり、白河上皇が伊勢平氏を重宝したことで形成を逆転しました。

河内源氏は大阪を拠点にした小さな源氏だったが、摂関家に近づくことで勢力を急拡大した。
摂関政治が衰え院政期に入ると、摂関家に近いことが仇になり院政に入ることができない。
摂関に近い河内源氏が白河上皇に煙たがられ、新勢力として伊勢平氏を取り込んだことが大きい。
平清盛(きよもり)のお祖父ちゃんや父の時代の出来事。
院政を飲み込んで平家政権樹立。からの急落
がっちりガードしていた河内源氏を院政への移行で一気に突き崩した伊勢平氏は平清盛(きよもり)が今度は中央政府に入れてくれた院政をつぶします。
清盛が氏の棟梁になったころから伊勢平氏のことを『平家』(へいけ)と言います。伊勢平氏の中でも特別な言い方。
清盛の時代以外の平氏のことを平家とは言いません。
後白河上皇の院政になると清盛と上皇の権力闘争が激しくなり、清盛が上皇を軟禁して平家政権を樹立します。
そして、『平家の、平家による、平家のための』天皇、安徳天皇を即位させました。
清盛が死ぬと盛り返してきた源頼朝(みなもと の よりとも)の河内源氏との戦いが始まり、安徳天皇の死で平家も滅亡します。
このあたりは有名なのでこのくらいでもいいですね?
なんで平氏は西へ逃げたのか?
平清盛の死後、平家は西へ西へ逃げていきました。理由は、東は源氏のホームだから。
東国の平氏、坂東平氏(地図のピンク色)も源頼朝に味方しているので、平家の行き場がありません。

頼朝が平家を追い込んでいるとき、拠点は鎌倉に移り地図で白色になっている東海道の海岸沿いも源氏色になっています。
平家は故郷の伊勢にすら戻れませんでした。源氏一色の東国が目の前に広がっていたから。
地図で見ると、当時の平家の人たちの追い込まれた気持ちが分かります。
平氏を潰したのは平氏
坂東平氏たちの力は相当です。平安末期に島流しされて何の力もなかった源頼朝(みなもと の よりとも)が鎌倉まで一気に行けたのは、多くの関東の坂東平氏たちが味方になったからでした。
実質、鎌倉幕府を仕切った北条氏は、平貞盛(さだもり)のひ孫・平直方(なおかた)の末裔を自称しています。
鎌倉幕府を作った原動力は、坂東武士の力なしではできませんでした。

その後の武士の平氏
織田信長の織田氏や北条早雲の後北条氏も平氏ですが、両方とも豊臣秀吉に潰されました。また、幕府の長がすべて源氏なので、平氏の存在感がなくなってしまいます。
有名な戦国武将、江戸時代の藩主、優秀な家老など、探せば平氏の末裔は出てくるでしょうが、表向きアピールしている人はいません。
江戸幕府の長が源氏だから、アピールしすぎると目をつけられてお家取り潰しにされるのを恐れたのかも。
貴族の平氏の高棟流は早々と大量の源氏に飲み込まれてしまいましたが、せっかく大活躍した高望流も、源氏の力に押し切られました。
『貴族だろうが武士だろうが源氏は強い』
の一言につきます。