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河内源氏ってなんだ?なぜ武士の源氏の中でメジャーになったのか?

武士

ご覧のページは 4 / 8 です。先頭ページはこちら。

ひと味ちがう。河内源氏の祖・源頼信(みなもと の よりのぶ)

3つの系統に分かれた清和源氏で一番勢力を拡大したのは、源満仲から引き継いだ息子たちの末っ子で3男の源頼信です。

摂津源氏と大和源氏はこれはこれで面白いんですが、今回は河内源氏の話なので別のところにおまかせします。

頼信は父から引き継いだ河内(かわち。大阪)を拠点にしました。そこから河内源氏といいます。

河内源氏は大阪から東へ広がった勢力で、甲斐源氏の武田氏、常陸源氏の佐竹氏へとなっていきます。

武田信玄(たけだ しんげん)もこの系統。

また、河内源氏と言ったらやっぱり源氏の本流になったこと。

鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)、室町幕府を開いた足利高氏(あしかが たかうじ)、江戸幕府を開いた徳川家康

幕府の将軍家はすべて河内源氏の系統です。

河内源氏の系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工
河内源氏の本拠地

源氏が初めて武将らしい大仕事をする

関東では平将門の乱のあと、今度は平忠常(たいら の ただつね)が反乱を起こしました。

平忠常の乱

平忠常は房総平氏の祖で母方の将門の孫。

房総半島一帯(千葉)を拠点にした坂東平氏のツワモノ。

3年も鎮圧できなかったこの乱を、甲斐守(かい。長野)だった頼信が平定したので、中央政府の評価が爆上がりして『道長四天王』と言われるほどになります。

平維衡
(たいら の これひら)
伊勢平氏の祖。
平清盛(きよもり)の祖先。

伊勢(いせ。三重)をはじめ、関東を中心
に要所の国司を歴任する。

下野守(しもつけ。群馬)
伊勢守
上野介(こうづけ。栃木)
備前守(びぜん。岡山)
常陸介(ひたち。茨城)
平致頼
(むねより)
維衡とドンパチするほどの実力者。

備中掾(びっちゅう。岡山)。
掾(じょう)は国司のナンバー3。介の下。
藤原保昌
(ふじわら やすまさ)
摂津守(せっつ。大阪)。
源頼信河内源氏の祖。
道長四天王

頼信は四天王だけに、国司以外にも検非違使など宮中警護の役人も歴任し、鎮守府将軍にまでなります。

平忠常の乱で関東での源氏の評価も上がった。

東北を平定。奥州藤原氏のきっかけを作る

河内源氏の快進撃は止まりません。源頼信の長男・源頼義(よりよし)は、陸奥守(むつ。福島・宮城)だったときに、東北の大きな戦乱・前九年の役で安倍氏を滅亡させ平定します。

そして、安倍氏のあと東北を牛耳った清原氏のお家騒動(後三年の役)を鎮めたのが、頼義の長男・源義家(よしいえ)。

あの八幡太郎義家です。

義家も陸奥守でした。頼義と義家は鎮守府将軍にまでなります。親子三代で鎮守府将軍になるのは異例。

当時の鎮守府将軍は武将のトップなので幕府の将軍のようです。幕府の前身のようなことを河内源氏はすでに行っていました。

ちなみに、後三年の役で義家が味方したのが清原清衡。藤原清衡(ふじわら きよひら)と言ったらピンとくるんじゃないでしょうか?

清衡は清原氏に入った養子で、内紛のあと、もとの藤原に戻って興したのが奥州藤原氏です。

鎮守府将軍を3代つづけて出したことで、河内源氏が源氏の最大実力者と見られるようになった。

本流と見られていたかは微妙。

ただこのころから、河内源氏自身は源氏本流を意識しだしたのかもしれない。

河内源氏の勢力
河内源氏の勢力範囲
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