『源氏はどうして武士のトップになったんだろう?』
この疑問の答えをもっているのが河内源氏(かわちげんじ)です。そして、その土台を作ったクライマックスが八幡太郎こと源義家。
もともと源氏は藤原氏と双璧をなす貴族
源氏は天皇の子孫です。もともと天皇を助ける貴族にするために臣籍降下して作りました。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
初期の平安時代が源氏の大量生産期。このころの天皇は源氏を作るのがスタンダードと言ってもいいです。
じっさい最初の源氏は天皇の息子が源氏になって左大臣を多く出しました。左大臣は今でいう総理大臣みたいなもの。
このころの政治は、藤原氏と源氏の2大巨頭政治と言ってもいい。それぐらい源氏は貴族の一大勢力でした。
世代交代に失敗して藤原氏に対抗できない。
ただ上流貴族の源氏は世代交代が上手くいきません。世代が代わっていくと藤原氏に対抗できなくなっていきます。
摂関政治が登場したことも大きく、権力が左大臣から摂政・関白へ移っていくので、左大臣になってもこれまでのように影響力がもてません。
そして、中央政府の中枢にいるための源氏は地方官の国司になるようになっていきます。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
そのポイントになっているのが第56代 清和天皇。
摂関政治が清和天皇のときにはじまり、そして、武士の源氏の祖先も清和天皇。
源氏を作った天皇は21人いますが、4番目に源氏を作った清和天皇のときにはすでに地方勤務になるほど源氏の力は落ちていました。
というか摂関政治の藤原氏が強すぎた。
祖先の天皇 | ||
---|---|---|
1 | 嵯峨源氏 (さが) | 第52代 嵯峨天皇 |
2 | 仁明源氏 (にんみょう) | 第54代 仁明天皇 桓武天皇の孫。 |
3 | 文徳源氏 (もんとく) | 第55代 文徳天皇 仁明天皇の子。 |
4 | 清和源氏 (せいわ) | 第56代 清和天皇 文徳天皇の子。 |
5 - 21 | 省略 | 省略 |
(天皇)源氏と呼ばれる源氏は、その天皇が源氏を作るわけではない。天皇の子・孫世代が源氏になるので、あとの天皇が臣籍降下させる。
たとえば、清和源氏は第61代 朱雀天皇のときに生まれた。
国司になって軍団を使えるようになる
第50代 桓武天皇は平安京に遷都して平安時代を始めた天皇ですが、軍政改革も行いました。軍事の地方分権化です。
それまで日本の軍隊は天皇が総司令官でした。天皇自身が出陣することもあります。軍団は天皇の近くで政治を行う豪族たち。
桓武天皇は軍団を中央政府の有力氏族から国司へ移しました。そして天皇自身が総司令官になるのも辞めました。
そこで新たに総司令官の役職を作ります。征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)です。征夷大将軍は大規模戦争が起きたときに任命される臨時職で国司軍団を集めてまとめる役目。
総司令官がいつもいるわけでもなく、軍団を地方に分散させたので都は手薄です。そこで検非違使(けびいし)を作りました。
検非違使は今でいう警視庁です。国司は県警本部長。
検非違使は国司の監視・監督もしていたので、警察庁本庁勤務のノンキャリア官僚でもあった。
左遷だと思ったらいつのまにか軍団長に
当時の中央政府の貴族は『国司になる = 左遷』だと思っていました。あの菅原道真(すがわら みちざね)も国司任官になったときはショックでへこんだくらいです。
政権中枢のために作られた源氏も最初はショックだったでしょう。でもこれのおかげで、国内で一番軍事力をもっている軍団長になることができました。
これが、源氏が武士になっていくベースになります。
軍警察官僚は下に見られていた。
左遷先に国内最強の軍団があるので、当時の中央政府の貴族たちは、軍関係者、警察官僚になる貴族は下に見ていました。
個人的には、日本人の軍事アレルギーの原因はここにあるんじゃないかと思います。
はっきりいってナメてると言っていい。
じゃあ、ナメられた中流貴族たちはどこを目指すか? といえば、3つの出世コースがありました。
検非違使庁の長官 | 警視庁長官。 |
鎮守府将軍 | 東北にあった鎮守府の長官。 |
国司 | 国内最強の軍団長 |
ちょっと説明が必要ですね?
出世コース<初級編> 国司の長官をめざす
国司には4つのランクがあります。これは律令制の四等官という制度のため。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣 左大臣 右大臣 内大臣(令外官) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
四等官 | 長官 (かみ) | 次官 (すけ) | 判官 (じょう) | 主典 (さかん) |
---|---|---|---|---|
国司 | 守 | 介 | 掾 | 目 |
読み方は四等官と同じ。国司になると県知事みたいな守をめざします。というか守、介って見覚えありませんか?
そうです。戦国武将や江戸時代の武士の上流階級が名乗ったあれです。
織田上総介信長 (おだ かずさのすけ のぶなが) | 千葉県副知事。 平氏の末裔を自称した信長は、桓武平氏の最 初の赴任地の役職・上総介を使った。 じゃないと縁もゆかりもない土地で、かつあ えて次官を選んだ理由が分からない。 (個人の見解) |
羽柴筑前守秀吉 (はしば ちくぜんのかみ ひでよし) | 福岡県知事。 戦国時代の国司名は自称が多く、ほんとうに 任命されていたか分からない。 信長からもらったのだろう。 (個人の見解) |
徳川駿河守家康 (とくがわ するがのかみ いえやす) | 静岡県知事。 松平から徳川に氏を変えたとき、ほんとうに 朝廷から駿河守に任命された。 |
吉良上野介義央 (きら こうずけのすけ よしひさ) | 群馬県副知事。 本当に上野国の郡(村)の領主だった。 |
小栗上野介忠順 (おぐり こうずけのすけ ただまさ) | 群馬県副知事。 最初は正式に豊後守(ぶんご。大分)に任 命されていたが、上野介に改名。 自分の領地に上野国群馬郡(高崎市)があ ったので郷里に思い入れがあって変えたと 思われる。 じゃないと長官から次官に降格する理由が ない。 (個人の見解) |
これぜんぶ、国司の長官と次官の名称。戦国武将や武士後期の江戸時代でも使われています。
忠臣蔵の吉良上野介や幕末の小栗上野介の『こうずけのすけ』は名前じゃありません。役職です。
彼らが国司の末裔の名残りで、軍事力をもつ正当性を主張しています。
守は首都勤務
国司は長官にもなると都での勤務をする人も多くなります。現地は部下に任せっきりでなかなか出向かない者も。
『二度と都落ちは嫌じゃー!』ってことなのでしょう。
ただこの適当な丸投げ姿勢は、室町時代には守護大名に、戦国時代は力のあるものに下剋上にあって国司は名前だけが残ります。
だから戦国武将やその後の武士たちは自称し始めました。
出世コース<中級編> 将軍の称号は征夷大将軍ではない
将軍、武士の棟梁というと征夷大将軍をイメージしますが、さっきもいったように征夷大将軍は臨時職です。七人の侍みたいなもので用がなくなれば解任されるようなもの。
当時の武将の将軍の称号は鎮守府将軍でした。
鎮守府(ちんじゅふ)は国司以外で唯一、常設の軍団をもっていた組織で東北の陸奥国(むつ。宮城・岩手・青森)にありました。
飛鳥・奈良時代の大規模戦闘の主戦場は東北だったのでその名残り。東北に睨みを利かす組織で東国全体を見るものでした。
国司の中で戦功のある人などが鎮守府将軍になります。あとで出てくる八幡太郎義家も将軍になりました。
また鎮守府将軍は官位が与えられ最高は四位相当なので、政権中枢の参議クラスです。出向先でも相当上。
征夷大将軍が武士のトップになるのは鎌倉時代になってから。
源頼朝(よりとも)が奥州藤原氏を滅亡させて東国を統一したあと征夷大将軍になり、鎮守府将軍を吸収した。
鎮守府も陸奥国の守護(しゅご)・地頭(じとう)にとって代わる。
出世コース<上級編> 腐っても中央の検非違使
四等官 | 長官 (かみ) | 次官 (すけ) | 判官 (じょう) | 主典 (さかん) |
---|---|---|---|---|
検非違使 | 別当 (べっとう) | 佐 (すけ) | 大尉(たいじょう) 少尉(しょうじょう) | 大志 少志 |
検非違使は軍警察のノンキャリア官僚で都勤務です。また、長官の別当は中納言や参議などが兼任するのが慣例だったので、政府中枢にいると言っていい。
左大臣や右大臣、摂政・関白にはなれませんが十分に大出世できます。これが軍事警察のトップ。
これぞ、シビリアンコントロール。
太政大臣 | 関白が自動的になる。 |
左大臣 | 政権トップ。 |
右大臣 | 政権ナンバー2。 |
大納言 | 政権ナンバー3。 |
中納言 | 政権ナンバー4。 |
参議 | 政権中枢の一番下。 |
政権中枢の薄い色は令外官です。
検非違使の四等官も見覚えありますね? いまの軍の役職に影響しています。
大将 中将 少将 | 士官 |
大佐 中佐 少佐 | 下士官 |
大尉 中尉 少尉 | 下士官 |
曹長以下 | 一兵卒 |
いまの下士官クラスの役職名が影響されて字を見ればそのまんま。
源義経(よしつね)からくる『判官贔屓(はんがんびいき)』という言葉は、義経が後白河上皇から少尉に任命されたことが由来。
弱いところを贔屓(応援)するあまり客観的(正当)な評価をできないという意味。
最初は失敗の連続。ポンコツの清和源氏
当時の軍警察のキャリアアップの話はこの辺にして本題に入ります。
武士の源氏は、清和天皇の孫・経基王(つねもと)が臣籍降下して源経基になったところから始まります。
経基は武蔵国(むさし。関東)の国司・武蔵介として関東に赴任しました。ナンバー2。副知事ですね?
経基が関東に赴任したとき、関東でブイブイいわしていたのはあの平将門(たいら の まさかど)です。
遅れてきた武将・源経基は百戦錬磨の将門に太刀打ちできません。
経基は歴史上初の武士の反乱と言われる平将門の乱・藤原純友の乱(承平天慶の乱)のメインキャストに入っていますが、新人だけに下手こきばっかりです。
関東に赴任するが将門にビビって京に逃げる。
将門反乱の鎮圧軍の副司令官になるが、出向いたときにはすでに反乱が終わっていた。
藤原純友の乱の鎮圧軍の副司令官になるが、これまた出向いたときには終わっていた。
歴史に残る大戦で『逃げる』『出遅れる』のヘタレ経基は、各地の国司を歴任し鎮守府将軍にまで出世します。
ポカを繰り返してもやっぱり天皇の孫。忖度の匂いがプンプンします。

下手こいたときの経基の上司は征夷大将軍。
2代目ボス。キャリアアップに抜群のセンスを発揮
関東での清和源氏は、このままでは武将のちょい先輩・平氏に勝てません。そこで2代目棟梁・源満仲(みつなか)は、政治でのし上がることにシフトチェンジします。
摂関政治で強大な力をもちはじめていた摂関家の藤原氏に近づき、都のすぐ近く、畿内の国司になって拠点を作るのに成功しました。
(最初の拠点は2回国司になった摂津国(せっつ。大阪・兵庫))
五畿七道(ごきしちどう)
古代から平安時代にかけての日本の首都圏と、幹線道路とその周辺の地方ブロック。
首都圏を畿内(きない)と言い5つに分けた。
道路は7つに分けた。〇〇道は道路周辺の地方も指す。州みたいなもの。

畿内 | 首都圏。 おもに、奈良、滋賀、京都、大阪。 |
山陽道 | 本州西部の瀬戸内海側。 おもに、兵庫南部、岡山、広島、山口。 |
山陰道 | 本州西部の日本海側。 おもに、京都北部、兵庫北部、鳥取、島根。 |
南海道 | おもに、四国、淡路。 |
西海道 | 九州全域。 |
東海道 | 本州東部の太平洋側。 おもに、三重、愛知、静岡、関東圏。 |
東山道 | 本州東部の山間部と東北全域。 山間部はおもに、滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木。 |
北陸道 | 本州東部の日本海側。 おもに、福井、石川、新潟。 |
北海道、沖縄は入っていない。当時の日本人に領土意識がないから。奄美を含む南西諸島、小笠原諸島は微妙。
今でも『北海道』にその名残がある。当時は七道に入ってなかったのに。
そしてその拠点を息子たちに譲りました。その拠点から摂津源氏(せっつ)、大和源氏(やまと)、河内源氏(かわち)の系統に分かれます。
藤原氏をバックにもつ源氏と、もたない平氏
藤原氏と源氏は権力闘争をするほどのライバルでしたが家族でもありました。お互いに娘を出し合っていて血統や家系図を追っていくのがむずかしいほど。
さらに皇族との結婚まであったので、血統のトライアングル・ブレンド(勝手な造語)です。
清和源氏も摂関政治で力が大きくなっていく藤原氏の力で軍警察官僚のポジションをキープします。
ガチンコでやり合うとボロ負けする平氏に、政治力で役職だけは対抗できるだけの力をすぐにつけました。
平氏からすると腹が立ったでしょう。藤原氏と近いというだけで、いきなり都まわりのいいとこに配置されたり、いいとこの国司の長官になったりするから。
同じ源氏の左大臣を失脚させる藤原氏へのよいしょ
清和源氏の2代目ボス・源満仲(みつなか)の摂関家・藤原氏への媚び方は徹底しています。
同じ源氏の左大臣・源高明(たかあきら)の失脚のためにデマを撒き散らしたりもしました。
そのおかげか、父と同じように各地の国司を歴任し鎮守府将軍にまでなり、摂津で土着して武士化しました。
ひと味ちがう。河内源氏の祖・源頼信(みなもと の よりのぶ)
3つの系統に分かれた清和源氏で一番勢力を拡大したのは、源満仲から引き継いだ兄弟の末っ子で3男の源頼信です。
摂津源氏と大和源氏はこれはこれで面白いんですが、今回は河内源氏の話なので別のところにおまかせします。(ただいま作成中)
頼信は父から引き継いだ河内(かわち。大阪)を拠点にしました。そこから河内源氏といいます。
河内源氏は大阪から東へ広がった勢力で、甲斐源氏の武田氏、常陸源氏の佐竹氏へとなっていきます。
武田信玄(たけだ しんげん)もこの系統。
また、河内源氏と言ったらやっぱり源氏の本流になったこと。
鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)、室町幕府を開いた足利高氏(あしかが たかうじ)、江戸幕府を開いた徳川家康。
幕府の将軍家はすべて河内源氏の系統です。

源氏が初めて武将らしい大仕事をする
関東では平将門の乱のあと、今度は平忠常(たいら の ただつね)が反乱を起こしました。
(平忠常の乱)
平忠常は房総平氏の祖で母方から見ると将門の孫。
房総半島一帯(千葉)を拠点にした坂東平氏のツワモノ。
3年も鎮圧できなかったこの乱を、甲斐守(かい。長野)だった頼信が平定したので、中央政府の評価が爆上がりして『道長四天王』と言われるほどになります。
平維衡 (たいら の これひら) | 伊勢平氏の祖。 平清盛(きよもり)の祖先。 伊勢(いせ。三重)をはじめ、関東の各地 の国司を歴任する。 下野守(しもつけ。群馬) 伊勢守 上野介(こうづけ。栃木) 備前守(びぜん。岡山) 常陸介(ひたち。茨城) |
平致頼 (むねより) | 維衡とドンパチするほどの実力者。 備中掾(びっちゅう。岡山)。 掾(じょう)は国司のナンバー3。介の下。 |
藤原保昌 (ふじわら やすまさ) | 摂津守(せっつ。大阪)。 |
源頼信 | 河内源氏の祖。 |
頼信は四天王の中でも抜きん出ていて、国司以外にも検非違使など宮中警護の役人も歴任し、鎮守府将軍にまでなります。
平忠常の乱で関東での源氏の評価も上がった。
東北を平定。奥州藤原氏のきっかけを作る
河内源氏の快進撃は止まりません。源頼信の長男・源頼義(よりよし)は、陸奥守(むつ。福島・宮城)だったときに、東北の大きな戦乱・前九年の役で安倍氏を滅亡させ平定します。
そして、安倍氏のあと東北を牛耳った清原氏のお家騒動(後三年の役)を鎮めたのが、頼義の長男・源義家(よしいえ)。
義家も陸奥守でした。頼義と義家は鎮守府将軍にまでなります。親子三代で鎮守府将軍になるのは異例。
当時の鎮守府将軍は武将のトップなので幕府の将軍のようです。幕府の前身のようなことを河内源氏はすでに行っていました。
ちなみに、後三年の役で義家が味方したのが清原清衡。藤原清衡(ふじわら きよひら)と言ったらピンとくるんじゃないでしょうか?
清衡は清原氏に入った養子で、内紛のあと、もとの藤原に戻って興したのが奥州藤原氏です。
鎮守府将軍を3代つづけて出したことで、河内源氏が源氏の本流と見られるようになった。
河内源氏のクライマックス。八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)
大阪の河内で生まれた河内源氏はとうとう東北の国司にまで広がっていきました。
八幡太郎は出羽守(でわ。山形・秋田)と陸奥守を歴任し東北をコンプリートしています。ただ、現地に土着して大きくなった源氏は出ていません。
義家が助けた藤原清衡の奥州藤原氏ができていくので入るスキがなかったし、奥州藤原氏は親・河内源氏なのでこれでよかったのでしょう。
そういえば、東北には今でも源氏にゆかりのある話がたくさんあると聞いたことがあります。
東北の氏族というより社会に強い影響を与えたのかもしれません。
100年後に、都にも鎌倉にも居場所がなくなった源義経(よしつね)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)がすがりついたのが奥州藤原氏でした。
3代目になっていた奥州藤原氏は恩を忘れていなかったのでしょう。
(義経は河内源氏の本流の末裔。)
その奥州藤原氏は、100年後に鎌倉幕府を開く源頼朝(よりとも)に滅亡させられる。
平氏の関東で源氏が名を上げる
平忠常の乱を平定した河内源氏の祖・源頼信(よりのぶ)は、関東の坂東武士たちに一目置かれ、中には主従関係を結んだ人もいたそう。
また、孫の源義家(よしいえ)は、東北の平定に坂東平氏を連れていきました。
平定後に朝廷に武将たちへの報酬をあげるように言ったところ、逆に『税金を払え!』と言われてしまいます。
困った義家は自腹を切って坂東武士たちに報酬を与えたので、坂東平氏たちに一目置かれて源氏の関東での評価が上がりました。
関東は平氏のホームみたいなものですが、源氏がそこまで敵視されていないのは河内源氏の影響。
100年後、伊豆で捕虜生活を送っていた源頼朝の挙兵に坂東平氏が味方したベースには先祖の行いが少なからず影響しています。
前九年の役は、税金を払わない安倍氏の成敗のために始めた戦争で、その流れで起きた後三年の役も国家の戦争だと義家は思っていた。
国家の戦争なので当然のように陸奥国の税金を戦費にあてる。
しかし朝廷は、東北の平定に乗り出した義家は、私的にやったものと考えていたので、逆に『滞納している税金を払え!』と言い出した。
なぜ河内源氏だけが大きくなれたのか?
河内源氏の凄いところは、ほかの武将の源氏とちがって都まわりから東国へ勢力を拡大したところです。
河内源氏は最初から摂関家に近づいて勢力を拡大してきました。摂関政治の最高潮・藤原道長(ふじわら みちなが)のときに四天王に入っていることからも分かります。
河内源氏の頭がいいのは、東国から京都への出入り口と、東国の主要拠点をすべて押さえているところです。新幹線と高速道路にアクセスがいいところ、主要都市を押さえるようなもの。
オセロの4隅を最初に獲っちゃうものでしょうか?
なんで先輩武将でガチで強い坂東平氏を抜き去って歴代鎮守府将軍までなるようになるのか分かります。
美味しいところをぜんぶ押さえたから。中山道は完全制覇で都と東北を一直線に結んでいる。
美濃 (みの) | 岐阜。 東国から都に入る玄関口。 |
甲斐・信濃 (かい・しなの) | 山梨・長野。 東国内陸部の幹線沿い。 (中山道) |
常陸 (ひたち) | 茨城。 |
上野 (こうずけ) | 北関東(群馬) 中山道と東北をつなぐ。 |
下野 (しもつけ) | 北関東(栃木) |
陸奥 (むつ) | 福島・宮城・岩手・青森 東北の中心。 鎮守府があった。 |
出羽 (でわ) | 山形・秋田 |

強い坂東平氏は避けた?
ただ、武将の先輩、坂東平氏の拠点は外しています。すでに平氏の勢力が強いところはケンカせずで空いたところを埋めていきました。
〇〇源氏と〇〇平氏と呼ばれるもので両方にある地域はほぼありません。常陸(ひたち。茨城)ぐらいじゃないかな? あるのは。

常陸は最初に平氏が入って常陸平氏になり、その後、河内源氏が入ったときに土着した棟梁の妻を常陸平氏から迎え、その勢力を吸収して常陸源氏になった。
武士の源氏と八幡さま
『河内源氏のクライマックスは八幡太郎』と言ったので、源氏と八幡さまの関係を言わないといけないでしょう。
武士の源氏と八幡宮の関係は深く、源氏が日本全国に広まったから八幡さまがメジャーの神さまになったと言われるほど。
鎌倉幕府の本拠地には鶴岡八幡宮があります。あれも源氏の氏神だから。
いまや八幡宮は神社のメジャーリーガーですが、もともとマニアックでそこまで知られていない神さまでした。
八幡さまは第15代 応神天皇のことで、戦いの神さま・武神です。戦闘を生業にする清和源氏にはもってこいの神さま。
八幡さまはいつ源氏の氏神になったのか?
八幡さまが源氏の氏神になった時期には諸説あります。
八幡太郎説
源義家(よしいえ)は八幡太郎を名乗ったこともあり、これが河内源氏の氏神になった理由に挙げられることも多いです。
が、鎌倉幕府を作った源頼朝(よりとも)が建てたと思われやすい鶴岡八幡宮は八幡太郎より前の人が建てたのでこの説はどうなんだろ?
八幡さまが源氏の氏神になった重要なポイントだとは思うけど。
八幡太郎の父・源頼義説
鎌倉の鶴岡八幡宮を建てたのは、八幡太郎の父・源頼義(よりよし)です。
頼義は石清水八幡宮への信仰がとても厚い人で、平定した東国で身近に八幡さまを置きたくて鶴岡八幡宮を建てました。
鶴岡八幡宮も『源氏の氏神として』建てたと言ってるので、けっこう信憑性は高い。
息子・義家を石清水八幡宮で元服させたのでスゴい信仰心です。義家が八幡太郎を名乗ったのも父の影響でしょう。
ただこの説にも疑問が。源氏の氏神にこのときなっていたのなら、八幡太郎の弟たちは賀茂次郎、新羅三郎じゃなくて『八幡次郎』『八幡三郎』になっていたはず。
弟たちも石清水八幡宮で元服させたでしょう。これもちょっとちがうのかな? 氏神になった最重要ポイントのひとつだとは思いますが。
ひとつの考え方として、長男とそれ以外の弟たちを区別することで八幡太郎を後継者に指名したという見方もあると思います。
頼義の息子は規則性のあるニックネームをもっている。
元服した寺社名 + 年上順に太郎、次郎、三郎。ベタ中のベタ。
河内源氏より前の清和源氏の氏神説
そして一番古いのが、そもそも清和源氏は武将になったときから八幡宮を氏神にしていたというもの。
清和源氏の生みの親・清和天皇のときに大分の宇佐神宮から首都に八幡さまを招くために石清水八幡宮を創建したことを理由に始まった説です。
武将になっても天皇の子孫というプライドから出てきた説でしょう。ただこの説は決定的な確証はありません。
決定的な証拠を探すの無意味?
ボクの個人的な感想ですが、いつ氏神になったのかはあまり意味がないと思います。
清和天皇が建てた石清水八幡宮を厚く信仰したのは清和源氏だけでなく、首都にやってきた最強の神へあやかった人はいただろうし。
鶴岡八幡宮を建てた源頼義が信仰心が厚くて、息子が八幡太郎で、という源氏と八幡宮の関係のいくつかのポイントが線でつながって、いつの間にか氏神として崇められるようになったのでしょう。
しいていえば、頼義・義家親子の合作になるのかな?
確実に言えるのは、鎌倉時代の源頼朝(よりとも)のときには氏神になっていたということ。
ちなみに鶴岡八幡宮はもともと、海の近くの百合ヶ浜にありました。今のところに移動させたのは頼朝です。
鎌倉幕府の3代将軍・源実朝(さねとも)は、鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)に暗殺される。
鶴岡八幡宮の別当(べっとう。寺社の長官。)だった公暁が参拝に来た実朝が帰るところを襲撃して殺した。
その後の河内源氏
八幡太郎義家のあと、河内源氏は急激に没落していきます。ひとつは、摂関政治から院政に移ってそれに対応できなかったこと。
もうひとつは、院政を始めた白河法皇が摂関家と距離をとるため、源氏よりも伊勢平氏を重用したこと。

河内源氏は摂関家に近づいて大きくなった手前、そうかんたんに摂関家を裏切って法皇に鞍替えできなかったのでしょう。
そのどん底が、源頼朝(よりとも)の伊豆への島流し、弟・義経(よしつね)が寺に入れられてしまったことです。
(父・義朝(よしとも)は暗殺された。)
そのあとはもう大丈夫ですね? 歴史の教科書にも出てくることです。頼朝が伊豆から挙兵し平家を打倒、鎌倉幕府を作りました。
その後の、室町、江戸幕府の将軍はすべて河内源氏の末裔です。
『河内源氏あらずんば武士の長にあらず』にまでなります。

源氏は一枚岩になれない
もうひとつ、急激な没落の原因は内輪もめ。
これは、源氏が武将になったときから始まっていました。八幡太郎義家と足利尊氏と新田義貞の祖先・源義国(よしくに)親子は犬猿の仲だったとも言われます。
(義国は兄弟とも戦争をするくらい荒々しい武将だった。)
というか、武士はそういうもの。
まとまっていたのは、平清盛の時代の平家と江戸時代の徳川くらい。ほかは親殺し、兄弟殺し、裏切りの連続です。
(という徳川も切腹、藩主のクビ、お家つぶしは起きていた。)
武士はヤンキーみたいなもので、一度土着してチームを作ると同族だろうがなんだろうが独立を脅かすやつは潰していくものです。