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河内源氏ってなんだ?なぜ武士の源氏の中でメジャーになったのか?

武士

ご覧のページは 2 / 8 です。先頭ページはこちら。

国司になって軍団を使えるようになる

第50代 桓武天皇は平安京に遷都して平安時代を始めた天皇ですが、軍政改革も行いました。軍事の地方分権化です。

それまで日本の軍隊は天皇が総司令官でした。天皇自身が出陣することもあります。軍団は天皇の近くで政治を行う豪族たち。

日本が律令国家になっていくと天皇は総司令官を辞めます。律令国家はそういうもの。

桓武天皇はそれをさらに進め、軍団を中央政府の有力氏族から国司へ移しました。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

そこで新たに総司令官の役職を作ります。征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)です。征夷大将軍は大規模戦争が起きたときに任命される臨時職で国司軍団を集めてまとめる役目。

総司令官は常にいるわけではなく軍団を地方に分散させたので都は手薄です。そこで検非違使(けびいし)を作りました。

検非違使は今でいう警視庁です。国司は県警本部長。

検非違使は国司の監視・監督もしていたので、警察庁本庁勤務のノンキャリア官僚でもあった。

左遷だと思ったらいつのまにか軍団長に

当時の中央政府の貴族は『国司になる = 左遷』だと思っていました。あの菅原道真(すがわら みちざね)も国司任官になったときはショックでへこんだくらいです。

政権中枢のために作られた源氏も最初はショックだったでしょう。でもこのおかげで、国内で一番軍事力をもっている軍団長になることができました。

これが、源氏が武士になっていくベースになります。

軍警察官僚は下に見られていた。

左遷先に国内最強の軍団があるので、当時の中央政府の貴族たちは、軍関係者、警察官僚になる貴族を下に見ていました。

個人的には、日本人の軍事アレルギーの原因はここにあるんじゃないかと思います。

はっきりいってナメてると言っていい。

じゃあ、ナメられた中流貴族たちはどこを目指すか? といえば、3つの出世コースがありました。

検非違使庁の長官警視庁長官。
鎮守府将軍東北にあった鎮守府の長官。
国司国内最強の軍団長

ちょっと説明が必要ですね?

平安時代の軍人の役職はマニアックで、とくに国司は会社でいう課長・部長なので仕事が多いです。こちらにまとめました。

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