第77代 後白河天皇 『能もなく芸もなし』から大変身!

他言語サイト
翻訳はみつかりませんでした
  • -

    シェア
  • ---

    LINEで送る
  • -

    はてなブックマーク
    ブックマーク
  • -

    pocket
  • -

    rss
後白河天皇肖像画

歴代天皇 - 内外と権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政の時代) -

後白河天皇(ごしらかわ)は、朝廷内での評価が最低でした。しかし、当の本人はどこ吹く風でどんどん大政治家へと成長していきます。

平清盛、源頼朝とも渡り合い、武家を利用しながらまたは利用されながら30年以上トップであり続けました。

皇族同士、武士との権力闘争を生き抜き、歴代天皇の中でも激動の政治の世界の中心にいた人物です。

中世 平安時代 - 末期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあんのみや)
  • 生没年
  • 1127年9月11日 ~ 1192年3月13日
    大治2 ~ 建久3
    66才
  • 在位
  • 1155年7月24日 ~ 1158年8月11日
    久寿2 ~ 保元3
    4年
  • 名前
  • 雅仁
    (まさひと)
  • 別名
  • 行真
  • 藤原璋子
    (ふじわら しょうし)

    待賢門院
    藤原公実の娘。
    (ふじわら きんざね)

最低の評価を受けていた雅仁親王(後白河天皇)

鳥羽上皇崇徳上皇は仲の悪い親子でしたが、雅仁親王(まさひと。のちの後白河天皇)に対しては同じ評価だったようです。その評価は最低で、

  • ”即位の器量にあらず”
  • ”文にも武にもあらず、能もなく芸もなし”

と言われていました。

偉大な人物は、若いころは最低の評価を受けるというのは意外と多いものです。織田信長もそうですし、海外ではエジソンもそうでした。

雅仁親王は奔放な性格で、『空気を読まない』ところがあったようです。この性格は、京の都の『型にはまった閉鎖的な世界』からは『ぶっ飛んだヤバい奴』に見えたのかもしれません。

  • 後白河天皇は若い頃最低の評価を受けていた
  • 自由奔放な性格のため京の都の世界とは合わなかった
太上天皇(だじょうてんのう)

退位した天皇のこと。

上皇(じょうこう)

太上天皇の短縮した言い方。

太上法皇(だじょうほうおう)

出家した上皇のこと。たんに法皇という。

院(いん)

上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。

詳しくは『太上天皇とは何か?』

『能もなく芸もなし』の評価で早々に後継者から外されていた

そのせいもあってか、崇徳上皇が天皇のとき、鳥羽上皇が後継者に指名したのは、崇徳天皇・雅仁親王兄弟の弟で、生後3か月の、雅仁親王とは12才も離れた近衛天皇でした。この評価、結果から言ってはやくも後継者から外されていたことが分かります。

雅仁親王の息子(のちの二条天皇)にいたっては皇族から離れ寺に入れられています。雅仁親王は本人だけでなく、嫡系そのものが後継者として外されていました。それだけ雅仁親王は邪魔者だったのでしょう。

あと、鳥羽上皇の個人的感情もあったでしょう。雅仁親王の母の璋子(しょうし)は、崇徳上皇の出生の秘密に関して鳥羽上皇との間に因縁があります。
実際に璋子は、鳥羽上皇から遠ざけられるようになります。

近衛天皇の母の得子(とくし)は、鳥羽上皇の最も寵愛を受けた皇后です。

僕はこの評価、雅仁親王のとてつもない能力に嫉妬し、怯えた部分もあったのではないかと思っています。天皇になった雅仁親王(後白河天皇)は、後々、平清盛(たいらの きよもり)源頼朝(みなもとの よりとも)と壮絶な政治闘争を繰り広げます。

とくに鳥羽上皇は、コンプレックスの元凶である白河法皇を思い出したのではないでしょうか。そういえば名前も ”後(ご)””白河(しらかわ)” ですし。

後白河は諡(おくりな)なので、後世の人間が付けたものです。これは、あの怪物 白河法皇に匹敵する人物だと後世の人が見ていた証拠でしょう。後白河天皇の本当の評価はこれで伝わるのではないでしょうか?

ちなみに天皇の名前には、元々存在した天皇の名前の前に ”後(ご)”を付けた名前の天皇がたくさんいます。
後の付いた天皇は、あの天皇を尊敬していたとか、あの天皇ような人になりたいと憧れていたとか、あの天皇のような政治をしたいと思っていたとか、なにかしら所縁がある人に付けられています。

あまり期待されずに天皇に即位する

近衛天皇が亡くなったとき、次の後継には雅仁親王の息子である守仁親王(のちの二条天皇)をという声が上がりました。資質に問題がある父親の雅仁親王とは違って、守仁親王は才知が優れていると言われていたからです。

ただ、守仁親王はかつて寺に入れられて皇族から離れていたり、12才という幼さだったり、また父親を飛び越えて即位することはおかしいということで、雅仁親王が即位することになります。29才の後白河天皇が即位しました。

後白河天皇の即位には、鳥羽法皇、美福門院 得子、関白 藤原忠通の後押しがありました。彼らが期待したのは、崇徳上皇を抑え込むことと本命の守仁親王が即位するまでとりあえず中継ぎをしてもらうことでした。

後白河天皇の即位は、次の二条天皇につなぐための中継ぎだった

鳥羽法皇は苦渋の選択だった?

後白河天皇の即位には苦渋の選択があったと思われます。

  • 崇徳後白河、候補になる人材が鳥羽法皇にとってはどちらも選びたくなかったということ。
  • 崇徳上皇だけは選びたくないという鳥羽法皇の人生観とも言っていい太い信念があること。
  • 後白河天皇は、周りの賛同が得られないほど資質に問題があると評価されていたこと。
  • 残された唯一該当する人物は守仁親王だが、当時は寺に入れられていたため親王ではなく皇族ですらなかったこと。
  • 崇徳上皇が巻き返しを図ることが予想されたため、幼かった守仁親王では務められないこと。

こうなっていくると、資質に問題のある雅仁親王以外いません。

前にも言いましたが、僕はこの後白河天皇の”資質の問題”には疑問があります。当人の資質の問題で、その息子を親王から外して寺に入れる必要はあるでしょうか?

ぼくは、天皇の在位17年、上皇になって院政を始めてから34年もの間トップであり続けた鳥羽法皇は、雅仁親王の能力は自分の立場を脅かす存在として感じていたと思います。

だから早いうちに、芽が若いうちに摘んでしまったのだと思います。雅仁親王が周りの賛同が得られなかったのも、藤原氏からすれば、摂関政治の復権のためには邪魔な存在だったからでしょう。

この即位には盟約があった?

これはぼくの勝手な解釈ですが、鳥羽法皇と、後白河天皇の間に盟約があったのではないかと思っています。

後白河天皇の復権とその息子の皇族復帰を保証する代わりに、崇徳上皇の巻き返しを抑え込むという取引です。

盟約は文書に残すことはほぼないので、証明することは不可能ですが、あとの流れを見ると結構当たっていると思っています。それと、後白河天皇の即位は無理やりねじ込んだ感があるからです。

皇位継承には、”君臣の別”という考えがあります。天皇とそれ以外の人間には明確な区別があるということです。

皇位継承の条件には血筋は大事な要件ですが、一度皇室を離れた人には当てはまりません。それだけ”君臣の別”というものは重いものです。

この時代にはすでに、親王から民間人になった人、その子孫は数えきれない程いました。平氏、源氏もその子孫たちです。鳥羽法皇は危険な選択をしました。一度皇室から離した守仁親王を再び皇太子として戻したのですから。

平清盛、源頼朝が皇位継承権があることを言い出さなかったから結果オーライになっていますが、鳥羽法皇の選択は、それを言い出された場合覆す根拠がありません。

ちなみに、室町幕府 第3代将軍 足利義満(あしかが よしみつ)は、自分が天皇になろうとした形跡があります。

保元の乱勃発、武家の地位の劇的な向上

後白河天皇即位の翌年(1156年)、鳥羽法皇が亡くなった翌日、崇徳上皇がクーデターを起こします。”保元の乱” です。

武家政治の主人公になる平清盛、源義朝・頼朝はともに天皇派でした。結果は天皇派の圧勝で、崇徳上皇は讃岐へ流されました。

後白河天皇はここから武家の力を頼るようになります。

本格的な後白河天皇の時代の始まり

対抗する人がいなくなり一人勝ち状態の後白河天皇は、保元の乱で功績のあった藤原通憲(ふじわら みちのり。信西入道)を重用します。

信西は、荘園整理を行い朝廷の改革を進めます。この改革で既得権益を失った貴族からは反感を抱かれるようになります。

それでも信西は改革の手をゆるめませんでした。武家勢力の力を背景に天皇親政を目指していたのです。
この信西が、後白河天皇派の内紛を生む中心人物となります。

後白河天皇は即位から4年目、はやくも守仁親王に皇位を譲り上皇になります。ここから後白河上皇の院政が始まります。

朝廷内の対立の激化

藤原信頼(ふじわら のぶより)は信西と同じで、後白河天皇から重用された人ですが、信西に不満がつもって徐々に対立していきます。

信西は、権力のすべてを自分のものにしていると見られていました。また、二条天皇の側近である藤原経宗(ふじわら つねむね)藤原惟方(ふじわら これかた)とも対立していきます。

二条天皇の側近は、”そもそも鳥羽法皇が望んだのは二条天皇の親政で、愚か者の後白河上皇に治天の君の資格はない!”と批判し始めます。このことで、二条天皇と後白河上皇の親子関係もぎくしゃくし始めます。

  • 後白河上皇の部下同士の対立(信西と藤原信頼)
  • 上皇と天皇の対立(二条天皇派の上皇批判)

朝廷内の対立が武家にも波及

藤原信頼に呼応する武士も表れ始めます。源義朝もそれに加わりました。

義朝はなぜ信頼に呼応したのでしょうか?それは、信西は平清盛と姻戚関係にあり、清盛を重用してその他の武士は蚊帳の外に追いやっていたからです。
この清盛びいきがほかの武士の不満を募らせていました。

この時点では政治勢力の対立は拮抗していて、どちらが優勢というものではありませんでした。

  • 後白河上皇派(信西)
  • 後白河上皇派(藤原信頼)
  • 二条天皇派(反信西)
  • 平家一門(中立

清盛は、信頼とも姻戚関係を結んでいて、親信西、反信西と距離を置き、また、上皇派、天皇派とも距離を置いていました。有利な方にいつでも行けるようにしていたということでしょう。
状況としては三つ巴の状態でした。

goshirakawa-01-min

パワーバランスが崩れ、再び戦になる

1159年、藤原信頼・源義朝が信西を倒すべく挙兵します。”平治の乱” の始まりです。

後白河上皇派の信西派は一掃され信西は自害します。後白河上皇は、二条天皇とともに藤原信頼に身柄を確保され軟禁されました。

しかし事態は急変します。今度は、藤原信頼が二条天皇派によって潰されるのです。

そのときの後白河上皇の行動がすごいです。詳しくは平治の乱にあります。

平治の乱での後白河上皇の行動は、そのあとの行動と共通点があって、ほぼ同じ考え方で行動しています。

簡単に言えば、”時流をいち早く察知して迷いなく行動し、その時の手段は選ばない”です。だからこそ、政治勢力が摂関家 -> 上皇の院政 -> 武士と急激に変化する時代に長く生き抜いたのでしょう。

ただし、この人に共感する人はほぼいないと思います。少なくとも英雄にはなりえません。この辺りが歴史の評価が低い原因でしょうか。

後白河上皇は平治の乱で、反信西一派を一掃することに成功しました。二条天皇も反信西派なので結果的に二条天皇派も潰すことに成功しています。

これで上皇に対抗する勢力は無くなりました。そこで平家とさらに距離を縮めていきます。

平清盛からすれば、まだ17才の二条天皇と上皇になって政治力を発揮し始めた後白河上皇を比べた時に、平家にとっては後白河上皇と近づくことが利益になると考えていたのでしょう。

  • 平清盛を味方に引き入れる
  • 戦では二条天皇に敗れるのに、権力闘争では勝利する

清盛の作った時流に乗って二条天皇、六条天皇を退位させる

平治の乱で自分の味方もほぼ失ってしまった後白河上皇は、さらに平家に近づいていきます。

1165年、二条天皇は病気を理由に退位します。後白河上皇はとくに反対しませんでした。

平治の乱で二条天皇派の中心人物はすでに失脚していますが残党はいます。乱が終わったばかりなので、余計な争いは避けたのでしょう。

二条天皇の息子である次の六条天皇は、満1才にもならないうちに皇太子になりその日のうちに天皇に即位しました。後白河上皇は承認します。二条天皇は同年に23才で亡くなりました。

後白河上皇は二条天皇派の残党(その後六条天皇派)と争うよりは、じっくりと自分の地盤を固めようと思っていたのでしょう。

後白河天皇と平清盛はお互いに利用し利用されることで互いの権力基盤を強固にしていきます。六条天皇退位の1年前である1167年、清盛は太政大臣になり、翌年出家しました。

後白河上皇の力は頂点に達していました。六条天皇は在位4年、5才で退位して上皇になります。そして、後白河上皇の息子である次の高倉天皇に譲位しました。

高倉天皇が即位したときは8才でした。もちろん、後見人は父親である後白河上皇です。これで、後白河上皇は朝廷内の実権を完全に掌握しました。

後白河上皇からすれば、自分の孫を退位させ自分の息子を天皇にすることで、二条天皇派を抑え込むと同時に、自分の院政が強化されたことを意味します。

また、高倉天皇の母親は平清盛の妻の妹である平滋子(たいらの しげこ)です。清盛も後見人といってよい立場になりました。

  • 高倉天皇の即位で、二条天皇派との内紛に勝利する
  • いっそう平清盛に近づいていく

これで平和になると思うところですが、長くは続きませんでした。今度は、絶頂期の後白河法皇と平清盛の2人が対立していきます。

続く。

第77代 後白河天皇 平氏・源氏を翻弄する稀代の大政治家
次のページ
天皇・皇室のおすすめの本
post-cta-image

天皇や、皇室に関する書籍をご紹介します。

内容がかんたんで頭に入りやすいものを選びました。かんたんだからと言って内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身に付くでしょう。


くわしくはこちら

SNSでも記事を配信しています。
コメントを残す

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

この記事を気に入ったらぜひシェアも!!