ご覧のページは 5 / 8 です。先頭ページはこちら。
河内源氏のクライマックス。八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)
大阪の河内で生まれた河内源氏はとうとう東北の国司にまで広がっていきました。
八幡太郎は出羽守(でわ。山形・秋田)と陸奥守を歴任し東北をコンプリートしています。ただ、現地に土着して大きくなった源氏は出ていません。
義家が助けた藤原清衡の奥州藤原氏が出てくるので入るスキがなかったし、奥州藤原氏は親・河内源氏なのでこれでよかったのでしょう。
そういえば、東北には今でも源氏にゆかりのある話がたくさんあると聞いたことがあります。
東北の氏族というより社会に強い影響を与えたのかもしれません。
100年後に、都にも鎌倉にも居場所がなくなった源義経(よしつね)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)がすがりついたのが奥州藤原氏でした。
奥州藤原氏は3代目になっても恩を忘れていなかったのでしょう。
(義経は河内源氏本流の末裔。)
その奥州藤原氏は、100年後に鎌倉幕府を開く源頼朝(よりとも)に滅亡させられる。
頼朝は義経の兄で河内源氏。
平氏の関東で源氏が名を上げる
平忠常の乱を平定した河内源氏の祖・源頼信(よりのぶ)は、関東の坂東武士たちに一目置かれ、中には主従関係を結んだ人もいたそう。
また、孫の源義家(よしいえ)は、東北の平定に坂東平氏を連れていきました。
(義家の母は、父の正室で平直方(なおかた)の娘。直方は桓武平氏の嫡流。すでに源氏と坂東平氏の信頼関係ができていた。)
平定後に武将たちへの報酬をあげるよう朝廷に言ったところ、逆に『税金を払え!』と言われてしまいます。
困った義家は自腹を切って坂東武士たちに報酬を与えたので、坂東平氏たちに一目置かれて源氏の関東での評価が上がりました。
関東は平氏のホームですが、源氏がそこまで敵視されていないのは河内源氏の影響。
100年後、伊豆で捕虜生活を送っていた源頼朝の挙兵に坂東平氏が味方したベースには先祖の行いが少なからず影響しています。
前九年の役は、税金を払わない安倍氏の成敗のために始めた戦争で、その流れで起きた後三年の役も国家の戦争だと義家は思っていた。
国家の戦争なので当然のように陸奥国の税金を戦費にあてる。
しかし朝廷は、東北の平定に乗り出した義家は、私的にやったものと考えていたので、逆に『滞納している税金を払え!』と言い出した。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のメインキャストの武士たちの多くは坂東平氏の末裔。主人公の北条氏も。
鎌倉幕府は源氏が作ったものだが、そのほとんどは平氏の末裔が運営した。
のちの河内源氏の末裔たちは八幡太郎の子孫を意識する
八幡太郎の河内源氏への影響力は絶大です。
源頼朝(みなもと の よりとも)、足利高氏(あしかが たかうじ)、徳川家康(とくがわ いえやす)のすべての幕府の将軍氏族は、源氏というより八幡太郎の子孫だというのを強く意識しました。
木曽義仲(きそ よしなか)、新田義貞(にった よしさだ)なども八幡太郎の子孫です。
八幡太郎の登場以降、源氏を意識する人々の多くは 源氏 = 八幡太郎の子孫 を意識しました。
それだけ八幡太郎のやったことの大きさを評価していた証拠。
ちなみに、武田信玄(たけだ しんげん)は、八幡太郎の弟・新羅三郎(しんら さぶろう)の子孫です。
八幡太郎の子孫ではないですが、れっきとした河内源氏。
- P1 もともと源氏は藤原氏と双璧をなす貴族
- P2 国司になって軍団を使えるようになる
- P3 最初は失敗の連続。ポンコツの清和源氏
- P4 ひと味ちがう。河内源氏の祖・源頼信(みなもと の よりのぶ)
- P5 河内源氏のクライマックス。八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)
- P6 なぜ河内源氏だけが大きくなれたのか?
- P7 武士の源氏と八幡さま
- P8 その後の河内源氏