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姓、氏、名字、苗字の違いは何か?

Q&A image

今は、(せい、かばね)、(し、うじ)、名字(みょうじ)、苗字(みょうじ)に違いはありません。使い分けする必要もありません。

ただ、これらは生まれた時代や由来がちがいます。最初はそれぞれの意味もちがいました。

それでは、どのようにして生まれたのか見ていきましょう。

氏姓はどこからきた?

人の名前はいつから始まったのか分かりません。言葉を使いだしたときからあるのかもしれません。

ある人の話をするのに『○○の地域の××の方向の△△の川の上流の方の...』はめんどうなので、適当にあだ名みたいなのをつけたのでしょう。

それがいつしかウジカバネと言うようになります。

それに中国から輸入された氏姓(しせい)という考え・漢字をはてはめて、氏(ウジ)姓(カバネ)になりました。

日本に氏姓が輸入されたとき、すでに中国では氏と姓のちがいはありません。同じ祖先をもつ血族集団のことです。

これを日本では、奈良を中心とした王権の統治システムに使いました。姓は役職、氏はそれを任された血族集団です。

どんな人?

(おみ)
総理大臣。
もともと大王(後の天皇)から分家した子孫。
特定の地域を支配した強大な豪族だった。
リーダーのことを大臣という。
葛城氏、蘇我氏など。

(むらじ)
総理大臣。
臣とちがって大王に政治を任された役職の意味合いが強い。
おもに軍事担当。
臣との上下関係はない。臣と連のツートップ政治。
リーダーのことを大連という。
大伴氏、物部氏など。
国造
(くにのみやつこ)
県知事。地方の有力豪族。
奈良から遠いところの豪族が多い。
奈良に近い豪族は臣・連など大王の側にいた。
いろいろ。
県主
(あがたぬし)
市区町村長。
小さい集団の部族長が任命された。
いろいろ。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。

大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。

大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰が伝説の臣下なのであてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。

しかしこれは、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかどうかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

国造と県主(くにのみやつこ。あがたぬし)

第13代 成務天皇の時代に作られたといわれる。日本ではじめて作られた地方の行政組織。(当時はヤマト王権)

国造県知事。地方裁判所の最高判事。県警本部長。
県主市長。
ヤマト周辺では王権の直轄地の長。

ヤマト王権から派遣する、もともと地方にいた豪族や集落の長を任命するなど、ケースバイケースで決めていた。

都道府県、市区町村のような地方の区割りもできた。


(くに)
都道府県

(あがた)
市区
ヤマト周辺は王権の直轄地
邑里
(むら)
町村

山や川で国と県を分け、東西南北の道で集落を邑里にまとめた。もともとの豪族の領域、集落などを分断したものではない。

(ある程度はあっただろうが。)

ほかにもありますがとりあえず有名なところだけを挙げました。

この氏姓を政治システムに使った制度を氏姓制度(しせいせいど。うじかばねせいど)といいます。

氏姓制度がいつ始まったのかよく分かりません。古墳時代だと言われます。(4,5世紀? 3世紀? 2世紀?)

制度のランクの氏姓

なぜ氏姓制度ができたのでしょうか?

独立した豪族が、それぞれ自分の地域を支配していたところに、奈良を政治の中心にして、大王(おおきみ。のちの天皇)をリーダーにした王権ができたからです。

これをヤマト王権といいます。聖徳太子の時代のもっと、もっと前。

ヤマト王権は、オラオラ系の、オレがオレがの、ワガママな豪族(氏)を大王がまとめる必要があるので、氏姓制度というルールが必要だったんですね? それだけ大変だったのでしょう。

氏姓制度のなかでは、氏も姓も大王からもらうものです。

大事な仕事を任せるから(姓)、この名前を使ってね?(氏)

これには、

すでにもっている地域の権力をもってていいから、約束するから、ヤマト王権のために頑張ってね?

という意味もあります。

姓は役職・地位を表す名前

氏姓制度は姓と氏を決めて、その氏姓がどの地位でどのような仕事をするのか決めました。

大王が姓と氏を与えるという行為は任命行為です。今でいうと、姓は、部長の名前、課長の名前、係長の名前、主任の名前みたいなもの。

いまは役職・地位が変わっても名前は変わりませんが、当時は役職・地位が変わると人の名前も変わっていました。

その後、朝廷の官位の改定や姓と氏の与える範囲の拡大などの影響で何度か姓の種類が変わっています。

当時は姓と氏を聞いたとき、どういう家柄の豪族がどんな仕事をしていて(氏)、どのくらいの地位(姓)の人か分かっていました。

蘇我氏(そがし)は有名ですよね? 蘇我氏は、姓は(おみ)氏は蘇我です。

氏姓制度の崩壊

飛鳥・奈良時代になると、役職と地位は律令で決められた太政官に変わっていきます。

(左大臣・右大臣・大納言など。)

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣
左大臣
右大臣
内大臣(令外官)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

ただ氏姓制度が完全に消えたわけでなく、太政官のランクに合わせて姓を与えるようになります。

奈良時代には、天皇の子孫の王たちに氏姓制度にはない別の氏を与えて民間人にすることも始めました。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

役職と地位は太政官に変わっていたので、氏姓のつけ方はゆるくなっていきます。

また、律令国家を作って成功したので人口も増えていました。天皇が直接政治を行うのも限界で、いちいち氏姓を与えることもできません。

そこで、政治を行う氏族が固定化されていきます。その代表が藤原氏。ただ、同じ氏族でも出世しない人も出てきたので、氏姓だけでは役職や地位は分からなくなりました。

姓(せい、かばね)は天皇からもらうもの

氏姓制度の姓はグダグダになっていきましたが、明治維新まで残りました。その姓は8種類。

八色の姓(やくさのかばね)と言います。

684年(天武13)、第40代 天武天皇がこれまでの氏姓制度を改正して制定しました。

新設?
真人
(まひと)
第26代 継体天皇のころから使い始めた姓。
天皇の子孫、皇族にしか与えられなかった。

その後も皇族にしか与えられない姓で残る。
朝臣
(あそん)
臣下に与えられる最高位。
天皇から権力を預かる氏族に与えられた。

藤原氏、平氏、源氏、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏...

歴史上の有名な人は朝臣が多い。
宿禰
(すくね)
もともと古代の有力な臣下に与えられた称号。
伝説の臣下、武内宿禰(たけしうち の すくね)が由来。

臣、連姓の人に与えられた。
葛城氏や蘇我氏など、武内宿禰の子孫氏族に多い。

八色の姓から姓のひとつに加えられた。
忌寸
(いみき)
国造系や渡来系氏族に与えられた。
のちに渡来系氏族の代名詞になっていく。
道師
(みちのし)
記録がなく不明な点も多い。
名称から、技術系を得意とする氏族に与えられたのでは?
と言われる。

(おみ)
改正前の臣下に与える最高位。
葛城氏(かずらき)、平群氏(へぐり)、蘇我氏(そが)
など。

八色の姓の改正後、旧臣姓の氏族はほとんど朝臣になっ
た。

地方豪族に与えられる低い姓に変わる。

(むらじ)
改正前は、臣と並ぶ臣下に与える最高位だった。
大伴氏(おおとも)、物部氏(もののべ)、中臣氏(なかとみ)など。

八色の姓の改正後、旧連姓の氏族はほとんど宿禰になった。

地方豪族に与えられる低い姓に変わる。
稲置
(いなき)
不明。
一度も使われなかったらしい。
八色の姓
武内宿禰(たけしうち の すくね)

第13代~16代の成務仲哀応神仁徳の4代の天皇に仕えた。

成務天皇と同じ日に生まれ、300才まで生きたという伝説の臣下。

最初の大臣になる。のちに大臣は政治の最高責任者になるが、それをつとめた豪族は宿禰の子孫だといわれる。葛城氏蘇我氏など。

大化の改新で藤原氏が台頭するまでつづいた。

大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。

大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。

大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰が伝説の臣下なのであてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。

しかしこれは、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかどうかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

改正の特長は、改正前の最高位ランクの姓の上に新たに新設されたこと。

皇親政治のための改正

八色の姓の改正内容を見ると目的がはっきりしています。まず、皇族の子孫に使われた真人姓を制度の中に組み込んだこと。

天武天皇は、律令国家建設のキーパーソンの天皇のひとりです。この人が律令国家建設の土台を作ったと言っていいほど。

そして、律令国家の実行部隊、太政官のメンバーを皇族で固めます。日本の律令制度は天皇をリーダーにして、天皇の子どもやその子孫が官僚・政治家になって政権を動かす皇親政治です。

真人を最高位に置いたのはここから来ています。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣
左大臣
右大臣
内大臣(令外官)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

改正前の最高ランクはなぜ格下げされた?

そしてもうひとつ、改正前の最高位ランクを大きく格下げしたこと。これは改正する動機から来ています。

氏姓制度が末期にもなると、氏族が名乗る姓がぐちゃぐちゃになっていました。天皇が与えてないのに最高位の臣や連を名乗るヤカラもいたくらい。

(歴代の大王(天皇)はちょくちょく氏姓制度の改正をしている。理由は上に同じ。)

八色の姓は、グチャグチャになった氏姓を再配置します。だから、旧・臣、連の人は朝臣・宿禰になりました。

逆にそれからもれた氏族が勝手なことをしたヤカラ。臣や連のまんまの人は『アイツ、なんちゃってだったんだねー』と陰口をたたかれていたでしょう。

『見えない姓』と『主張する姓』

奈良時代以降、氏姓制度がグダグダになって律令国家になると、2つの姓が残ります。

『八色の姓』と『それ以外の姓』。

どちらも天皇からもらいます。というか天皇以外からもらう姓は日本にはありません。

八色の姓以外の姓は有名なものばかり。

藤原、橘(たちばな)、源、平、豊臣...

これらは、血族集団としての意味合いもあるので、氏(うじ)にもなります。

(氏の説明はあとで。)

no image person
姓と氏のちがいは?

と聞かれたら答えは、

『八色の姓以外の姓は氏と同じ。』

『藤原、源、平、豊臣は姓でもあるし氏でもある。』

『足利、織田、徳川は氏。』

天皇からもらったかどうかが基準になります。

姓は2種類ある。

『八色の姓』と『氏と同じ意味の姓』

一般的に知られてるのは氏と同一の姓。

偉い人は2つの姓をもっている

姓は天皇からもらうものなので一般庶民には関係ありません。権力に近い人だけに与えられる特権でした。

そして、その人たちは、ひとりで2つの姓をもちます。

たとえば豊臣秀吉は『豊臣朝臣秀吉』

セカンドネーム
(ファミリーネーム)
ミドルネームファーストネーム
豊臣朝臣秀吉
氏と同一の姓八色の姓名前

また、『氏と同一の姓』をもっている人は、普段使う氏をもっている人がいます。

(これも後で説明。)

日本の歴史では3つの幕府がありましたが、本名を見ると全員もれなく同じ姓をもった同じ一族だということが分かります。

幕府創設者本名
鎌倉源頼朝源朝臣頼朝
(みなもと の あそん よりとも)
室町足利高氏源朝臣高氏
(みなもと の あそん たかうじ)
江戸徳川家康源朝臣家康
(みなもと の あそん いえやす)

『八色の姓』は実印みたいなもの

本名が知られないのは、正式の場でしか使わず普段は使われていないから。

正式の場は、天皇の御前とか目上の人に会うとき、外国との交渉のときなど。徳川家康も外交文書では『源』を使っています。

ほとんどの人には知られてなかった『八色の姓』は明治維新まで残りました。

源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の姓を知らない人は多いですよね?

もう何度も言っちゃったけど、答えは『朝臣』。権力をもっていただけあって臣下の最高位ランクです。

今でも皇族は姓を持たない

姓は天皇から与えられる名前です。ということは、天皇および皇族方は姓を持ちません。天皇に姓を与えるほどの地位が日本には存在しないから。

これはずっとつづいています。いまでも天皇、皇族方には姓がありません。報道などでもファーストネームか宮家の名称でしか呼ばれないのはそのため。

いまの日本で姓をもたないのは皇族方だけ。昔は姓をもつほうが珍しかったのに。不思議な感じ。

姓は中国の影響が大きいですが、一番トップの統治する人に姓がないのは日本のオリジナルです。

中国では絶対的な皇帝が姓をもっていて、変なことをしたら別の姓の人に倒されるので、易姓革命(えきせいかくめい)で王朝交代が起きました。

易姓は『皇帝になる人の姓が変わる』という意味。中国は易姓革命のくり返しの歴史です。

日本の天皇には姓がないので王朝交代は起きませんでした。これからもないです。天皇には姓がないのだから。

中国から伝わった姓は男系思想と関係が深いと言われます。氏姓制度ができたころに日本に男系思想が入ってきました。

男系思想は、

  • 家を継いでいくのは男じゃないとダメ!
  • 社会の中心は男!
  • 女はそのために男を支えろ!

という男尊女卑の考え方。日本は女性の血統も大事にしたので、皇族に姓がないのはその影響もあります。

氏(し、うじ)は自分から名乗ることもできた

氏はそれぞれの土地で力をもった豪族の血族集団、同族集団の家のことです。この『家』というものに大きな意味をもちます。

姓は天皇からもらうものですが、氏も同じように目上の人から名付けてもらいました。

さっき言った、天皇からもらう『姓と同一の氏』も氏のひとつです。

でも氏は、自分で勝手に名乗ることもありました。

  • 俺たちは天皇からもらった栄誉ある氏(姓)だぞ!!
  • 俺たちは同じ家に所属する仲間だぞ!!
  • この土地で力をもってるぞ!!

と、周りに示していました。有名な蘇我氏(そがし)も氏(うじ)です。

血統にこだわらない日本の氏(家)

日本の氏(家)には世界でも珍しい特長があります。それは、

血統にこだわらない。

これがややこしい。さっき『氏は血族集団』と言ったばかりなのに、日本では血統にこだわりません。

ふつう家(いえ)は同じ血統で引き継いでいくから『家』なんですが、日本の家は『○○家を継いでいく』が一番大事です。

血族で継いでいくために家がある。

ではなく、

まず家があって、それを血族で継いでダメだったら家だけでも守りたい。

を大切にします。

家がつづけば引き継ぐのはだれでもいいです。正確には『家を継がせたいほど優秀』ならだれでもいい。

日本の家は株式会社

養子縁組は典型です。世界では女性ばかりが生まれた家はつぶれますが、日本では養子縁組で優秀な男を入れることで家を継いできました。

(だから昔は世界共通で一夫多妻が多い。)

息子をほかの家に出したあとに継ぐ人がいなくなって、優秀な他人の養子に継がせるなんてこともありました。それが家を守るために必要だからです。

日本の○○家は『株式会社〇〇』のようなもの。だから高度成長期は『社員は家族』という言葉もありました。

日本では氏(家)は会社名です。創業家がダメになったらいつでもだれかに替えられます。

どうして源氏、平氏は武家の中でも特別なのか?

源氏・平氏は、平安時代に天皇から八色の姓じゃない姓(氏)を与えられて民間人になった天皇の息子からはじまっています。

源氏・平氏は、天皇の子孫で栄誉ある氏だと知られていました。だから武士になっても格が上に見られます。

源氏も平氏も最初から武士だったわけではありません。武士というより貴族や高名な僧侶に多くいました。じっさいに左大臣や右大臣を務めた源氏の人がいます。

源氏・平氏はもともと天皇の子孫で国司

源氏や平氏の役人には、そこまで出世できず地方に飛ばされる人もたくさんいました。国司や軍事専門の役人(軍人)になる人も出てきます。

平安時代以降、日本の軍隊は常備されず国司のもつ軍事力(国司は軍の司令官)の寄せ集めなので、国司のもってる武力は絶大です。その中から赴任地をあたかも自分の領地のようにふるまう人が出てきました。

武士です。武士の成り立ちはこれだけではありません。ここでは省略します。

平清盛、源頼朝の祖先は国司です。

この人たちは、自分のもっている領地を守るために血族、同族を大事にするようになります。

だんだん氏の性質が強くなって、元皇族というより栄誉ある名前をもった豪族のほうがしっくりくるようになりました。

平氏も源氏も武士というイメージがあるのはそのためで、平氏・源氏は皇族からはじまり少しずつ豪族に変わっていった人たちです。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

なんで頼朝は本名なのに、尊氏と家康は違うの?

源頼朝、足利尊氏、徳川家康。

なぜ、尊氏と家康は頼朝と同じ源氏なのに、名前で源氏を名乗っていないのでしょうか?

これには3人の源氏の中での立場のちがいがあります。

日本全国に源さん、平さんがいっぱい

源氏・平氏は、天皇が息子を民間人にするときの姓(氏)として多く使ったので、日本全国津々浦々に源・平の人、その子孫が芋づる式に増えていきました。こうなると区別がつきません。

そこで、本当は源・平だけど普段は別の名前を名乗るようになり、それぞれ血族集団としての氏になっていきます。

源頼朝は源氏です。

足利尊氏は源氏で足利氏です。

徳川家康は源氏で徳川氏です。

氏はひとつだけもつというルールはありません。あくまで血族集団としての名前なので、分家した人々は本家と自分の家の氏の両方をもちました。

源頼朝は本家の人なので源氏だけです。

頼朝は本家、尊氏は分家、家康はウソつき

頼朝は源氏の本家本流の家に生まれたので源氏以外の氏をもちません。尊氏は源氏の分家で何代かさかのぼると頼朝とつながります。

木曽義仲(きそ よしなか)、新田義貞(にった よしさだ)も源氏です。分家した人たちはそれぞれの場所で独自の氏を名乗りました。

(本拠地にちなんだ氏が多い。)

家康は出世していく中で、無理やり自分を源氏の人間だと家系図を改ざんした疑いがあります。

家康は三河の国で独立を保つために、朝廷から三河守(みかわのかみ)(いまの県知事)の地位をもらおうと考えました。そこで、源氏の流れをくむ新田氏(新田義貞など)出身だといいはじめます。

足利・徳川の氏はニックネームです。徳川家康の名前は、

源氏の出身で朝臣の姓をもった家康という名。

ふだんは徳川を名乗る。

になります。

最後の会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)も本名は源朝臣容保(みなもとのあそんかたもり)。

これは新選組の隊長だった斎藤一に送った感謝の手紙などに見られます。

歴史の教科書で習った名前はニックネームがたくさんあります。例えば、織田信長は平朝臣信長(たいらのあそんのぶなが)。

戦国時代の武将は氏をコロコロ変える人がいました。織田信長は『藤原』だったことがあると言われます。

このときすでに

  • これを名乗るとカッコいい!
  • ステータスが上がる!

になっていて、血統なんかどこへやら、力さえあればだれでも氏になっています。

将軍は源氏しかなれない

いつの頃からか、武家の棟梁・征夷大将軍は、

姓は朝臣(あそん)

氏は源(みなもと)

がなるという常識ができました。

源頼朝は、武家の棟梁の地位を求めて征夷大将軍になりました。それから鎌倉、室町時代と、ずっと征夷大将軍=朝臣・源氏だったので、それが常識になります。

結局、朝臣・源氏だけが幕府の将軍になりました。

幕府創設者本名
鎌倉源頼朝源朝臣頼朝
(みなもと の あそん よりとも)
室町足利高氏源朝臣高氏
(みなもと の あそん たかうじ)
江戸徳川家康源朝臣家康
(みなもと の あそん いえやす)

豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、源氏じゃなかったから。

じっさい、源氏になろうとして失敗したから関白を目指しました。

(室町幕府の最後の将軍・足利義昭の養子になろうとして断られる)

征夷大将軍はもれなく朝臣

征夷大将軍が作られたときは臨時国軍の総司令官でした。つねに軍を率いていたわけではありません。

初代の大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)の姓も朝臣です。そこから歴代の征夷大将軍はもれなく朝臣でした。

朝臣は朝廷の位が五位以上の人に与えられる姓で、弟麻呂が征夷大将軍に任命されたときは従四位。

『征夷大将軍の姓は朝臣』の常識は最初から、『征夷大将軍は源氏』の常識は鎌倉幕府の将軍から始まります。

姓と氏のまとめ

長々となっているのでここで一度まとめます。

八色の姓正式な場でのミドルネーム。
ふだんは使わない。
天皇からしかもらえない。
本家の氏
(天皇からもらう八色とは別の姓)
正式な場でのセカンドネーム(ファミリーネーム)。
ふだんは使わない。
自分の氏ニックネーム。
ふだん使っているセカンドネーム。
ファーストネーム。
どこでも使う。

氏は、人からもらってもよし、自分で名乗るのもよし、ルールもなくゆるーい感じになります。

天皇からもらった栄誉ある氏

力でのし上がった氏

太古の昔からある歴史ある氏

地域に根ざした氏。

いろいろな氏があってアピールするため多く使われました。そのため、いまでもなじみのある名前になっています。

名字(みょうじ)は平安時代にはじまる

平安時代は藤原氏が天皇の親戚になって力をふるった時代で、藤原氏が日本各地の国の土地を荘園としてどんどん奪っていました。

荘園(しょうえん)

743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。

農園と言われることがあるが鉄の生産など工業も行われた。

室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。

豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。

もともと名田(みょうでん)という土地の区画の単位があり、そこから取れるコメを税金として収めるのに使われていました。

平安時代から荘園でも名田の単位を使うようになります。名田と税について専門的な知識をもった名田経営をする人もでてきました(名主)。

企業の顧問税理士みたいなもの。名主は力をもちはじめます。

このように、平安時代は律令制が崩壊して各地の名田に力をもちはじめた人が出てきます。その中に武士もいました。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

そして、名田で力をもった人が、

オレはこの名田で力をもってるぞ!

とアピールするため、ニックネーム((あざな))をつけて名乗ります。

田にちなんだ = 名字

の誕生です。

名字と武士の氏

この時代、武士が名田で力をもちはじめたので、武士の名前は名字に由来するといえます。

木曽義仲、足利尊氏、新田義貞などはその土地にちなんだ名字。

no image person
足利氏、新田氏って氏(うじ)がついてるよね?

と思うかもしれません。

名字を名乗るということは、自分の力を誇示したいというメッセージがあります。もちろん、その力を自分の息子たちに引き継ぎたいという想いが出てきます。

この想いが募ると血族・同族を大事にするようになります。このようにして名字が氏に変化していきます。

出世したけれど、まともな姓がなければステータスのある姓をもらいます。

名字から氏へ、そして姓をもらうストーリー

名字から氏、そして姓をもらうまで

を見るには、豊臣秀吉が分かりやすいです。この人ほど名前のステップを1歩ずつふんだ人はいません。

Step 1. ファーストネームしかない

木下 藤吉郎 秀吉

秀吉は農民出身なので名字をもっていませんでした。木下は嫁さんの実家の名字。もちろん氏も姓もありません。

藤吉郎は若いころの名前です。当時は昔の名前や幼名をミドルネームに使っていました。出世すると使わなくなります。

Step 2. 名字を自分でつくる

羽柴 藤吉郎 秀吉

羽柴 筑前守 秀吉

出世しはじめた秀吉です。

羽柴は上司の丹羽長秀(にわ ながひで)と柴田勝家(しばた かついえ)から一字ずつもらって自分でつけました。

ヨイショですね?

また、当時の武将に流行っていた国司の役職名をつけるようになります(筑前守)。

筑前守はいまでいう福岡県知事。当時の秀吉はまったく筑前と関係ありません。『かっこいい』と思ったか織田信長につけてもらったのでしょう。

国司は現地は部下に任せ、京都まわりに常駐する人もいた。一度も現地に行かなかった国司もいる。

戦国武将が関係ないのに名乗れるのは、もともと国司はゆるい感じだった。

Step 3. 名字から氏になる

出世街道まっしぐらの中で名字から氏になります。天下を取った秀吉はこの『羽柴』の氏を有力武将に与えはじめました。

前田利家(まえだとしいえ)は有名な武将ですが、最後の名前は『羽柴 筑前守 利家』です。秀吉から『羽柴』をもらったうえに『筑前守』までもらいました。

これは意外と知られていません。

利家はそれだけ秀吉に信頼されていた証拠です。秀吉からすると敵になると怖かったのかも。

これもヨイショ。秀吉は相手のふところに飛び込む天才です。

Step 4. スーパー氏を手に入れる

藤原 秀吉

近衛 秀吉

これも意外に知られていません。秀吉には藤原の時代があります。

秀吉は天下を取ったのはいいけれど農民出身がバレバレでした。家康のようにウソをついて源氏を名乗ることもできません。

そこで秀吉は、室町幕府の最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき。源氏)の養子になって征夷大将軍になろうとします。が断られてしまいます。

征夷大将軍をあきらめた秀吉は、『それなら朝廷のもっと上を目指そう!』と考え、近衛前久(このえさきひさ)の養子になってステータスのある藤原氏になりました。

この最高級の氏を手に入れた秀吉は関白になります。

藤原氏は、古代国家の建設に貢献した中臣鎌足(なかとみ の かまたり)が亡くなったとき、天智天皇が贈った名誉ある姓(氏)。

秀吉は最高の姓もゲットしていた。

近衛前久は藤原氏の筆頭の家柄・近衛家の当主で、左大臣・太政大臣関白を歴任した超大物です。

Step 4. 天皇から姓と氏をもらう

豊臣 朝臣 秀吉

秀吉の最後の名前です。藤原は出世するためのレンタルだったので、藤原に匹敵する氏を天皇からもらいました。それが『豊臣』です。

(豊臣は、天皇からもらってるので姓でもある。)

そして太政大臣になりました。太政大臣は官位の中で最高の位。

太政大臣になった秀吉は、とうとう八色の姓の最高位『朝臣』をもらいました。名前だけを見ても名字もない、氏もない、姓もないところからトップまで上り詰めたことが分かります。

木下藤吉郎秀吉名字もない。氏もない。姓もない。
名字はレンタル。
藤吉郎は幼名。
羽柴藤吉郎秀吉
羽柴筑前守秀吉
出世しはじめたのでオリジナルの名字をつける。
氏・姓はない。
藤原(近衛)秀吉トップを目指すために氏をレンタルする。
羽柴を氏として有力武将に与えはじめる。
豊臣秀吉関白になったのでオリジナルの氏を天皇からもらう。
豊臣朝臣秀吉太政大臣に上り詰めたので最高位の八色の姓をもらう。

名字なし。氏なし。姓なし。役職なしから最高の氏、最高の姓まで上り詰めた人は後にも先にも秀吉ひとりです。

名前のサクセスストーリーでは日本最高の男。

苗字(みょうじ)は江戸時代にはじまる

苗字は江戸時代にはじまります。苗には『遠い子孫』という意味があり、そこから『自分の家が子々孫々つづきますように』という願いを込めて、苗字をつけるようになりました。

これには時代背景があります。当時の武士階級は、徳川将軍家のさじ加減でお家断絶や転封など自分の家が安定してつづくことがむずかしい時代でした。

その中で自分の名前に苗字として願いを込めたのでしょう。

転封(てんぽう)

徳川将軍家が大名を別の土地へ国替えすること。

大名に罰を与えるために行うこともあった。

貴族、武士以外はどうだったの?

江戸時代は、貴族・武士以外苗字をもつことは許されませんでした。氏姓や名字のように名前をもつのが特別なことだったので、苗字も特権だったのでしょう。

いつ始まったのか分かりませんが、商人であれば屋号(やごう)がありましたし、その他の農民や漁民なども周りの人と区別するための(あざな)をもっていました。

人間が集団で生活するわけですから、こういうものは自然と生まれるものですよね? 今でもあだ名とかつけますから。

個人的には『あだ名』の語源は『字(あざな)』が何らかの形で入ってるんじゃないかと思う。

国語にくわしい人いないかな?

いまは、姓、氏、名字、苗字に違いはない

いまは姓・氏・名字・苗字に違いはありません。明治の近代化で統一することにしました。

もともと日本人は自分の名前に執着していませんでした。複数の名前をもつことも当たり前だし何かあるたびに名前を変えていました。

  • 元服したら変える
  • 別の土地に引っ越したら変える
  • 出世するごとに変える
  • 嫌なことが起きると縁起がいい名前に変える
  • 長男じゃないので独立して名前を変える
  • 相手の立場によって使い分ける

近代は国民国家です。国民ひとりひとりを特定して、納税や軍役など個人が国家に対して責任をもつのが基本です。

もちろん、名前がなかったりコロコロ変えたりするのは不都合です。だから今は、『姓名』、『氏名』、『名字と名前』は同じで、国民は必ず氏名があります。

(苗字は絶滅した。)

このように、日本語には人の名前を表現する言葉がたくさんあります。

  • 『姓名』判断
  • 『氏名』・年齢
  • 名字と名前

見事に『姓(せい)』『氏(うじ)』『名字』を使い分けてますね?

日本人なら感覚的にわかっているところです。『氏名判断』『姓名・年齢』『姓と名』『氏と名』とは言いませんから。

『姓と名』は使う気もしますが、なじみがありません。

氏名フルネームのこと。
文書にフルネームで書く欄は『氏名欄(シメイ)』。
姓名氏名と同じフルネームのことだが、文書に書くときなど名字と名前が分けられるときに使う。

『姓欄 (セイ)』
『名前欄 (ナマエ)』
『姓・名欄(セイ・メイ)』
名字と名前名字と名前が完全に独立したときに使う。
『名字が変わる』

名前はフルネームでも使う。
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