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第52代 嵯峨天皇 平安の基礎を作ったハイスペックな男

嵯峨天皇 肖像画

歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -

第52代 嵯峨天皇(さが)は子どものころから評価が高く、じっさい平安時代の基礎を作ったと言われる優秀な天皇です。

天井知らずの能力を持っているのに調子に乗らないところもGood。

古代・中世 平安時代 - 初期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 786年9月7日 ~ 842年7月15日
    延暦5 ~ 承和9
    57才
  • 在位
  • 809年4月1日 ~ 823年4月16日
    大同4 ~ 弘仁14
    14年
  • 名前
  • 神野
    (かみの)
  • 藤原乙牟漏
    (ふじわら おとむろ)

    藤原良継の娘
    (ふじわら よしつぐ)

  • 皇后
  • 橘嘉智子
    (たちばな の かちこ)

    檀林皇后
    (だんりん)

    橘清友の娘
    (たちばな の きよとも)

嵯峨天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

天皇よりも父から好かれた『天子の器』

神野親王(かみの。のちの嵯峨天皇)は幼いころから、父で先々代の桓武天皇に『天子の器』と言われるほど優秀でした。

一方、兄で先代の平城天皇は、藤原薬子(ふじわら くすこ)との禁断の愛で父と仲たがいしています。

神野親王は平城天皇のときに皇太子になりました。平城天皇には二人の皇子が生まれていましたが、父・桓武天皇の意向がはたらいたようです。

桓武天皇は悪女にうつつを抜かす平城天皇に愛想を尽かしたのでしょう。じっさい、平城天皇の子孫は天皇になっていません。

兄と一触即発

平城天皇は3年で退位して上皇になります。嵯峨天皇が即位しました。

しかし上皇は、嵯峨天皇が即位してすぐに自分がもう1回天皇になる野心を出して、かつての都・平城京で遷都を宣言します。

(平安京から平城京へ都を移す。)

嵯峨天皇は拒否。坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)に守りを固めさせ、カウンターを食らわす準備をはじめました。

上皇は敗れて平城京で隠居。嵯峨天皇が勝利しました。

平城太上天皇の変(薬子の変)。くわしくは平城天皇のところで。

兄の政策の否定

くわしくは平城天皇のところにまかせますが、嵯峨天皇は、平城天皇が参議を廃止して観察使を置いたのを否定し、参議を復活させました。

(参議は太政官の政権の中枢の役職。初入閣の大臣みたいなもの。)

平城上皇は藤原薬子にそそのかされて野心を出しましたが、弟に否定されてブチ切れた面もあります。

政権の仕切り直し

嵯峨天皇は兄・平城上皇に勝利しましたが朝廷内はゆるんでいました。上皇についていった官僚たちがいたからです。

その中には薬子のように政権幹部もいたので、仕事はストップ、機密情報がダダ漏れの可能性もありました。

そこで蔵人所(くろうどどころ)を作りました。蔵人所は天皇直属の秘書官のような機関です。

初代長官は藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)。

藤原冬嗣はここから大出世していきます。

あとでイケイケになる平安の藤原氏は冬嗣から始まりました。

また、奈良時代から国家の基本として使ってきた律令制度を時代にあうように改訂します。

弘仁格式(こうにんきゃくしき))

格式(きゃくしき)

律令(憲法みたいなもの)を修正・加筆・削除したり、詳細を明文化した法令集。

格と式に分かれる。

格(きゃく)

律令の修正・加筆・削除の法令。(補助法令)

式(しき)

律令・格を施行するときの細かいルール。

三大格式(さんだいきゃくしき)

平安時代に行われた代表的な律令の改訂。(養老律令の改訂)

格式天皇編纂者
弘仁格式
(こうにん)
第52代 嵯峨天皇藤原冬嗣
(ふじわら ふゆつぐ)
貞観格式
(じょうがん)
第56代 清和天皇藤原氏宗
(ふじわら うじむね)
延喜格式
(えんぎ)
第60代 醍醐天皇藤原時平
(ふじわら ときひら)

改訂作業はこれ以外にも行われた。目立たないだけで。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

これが平安時代の基礎になったと言われます。父・桓武天皇の目に狂いはありませんでした。

嵯峨天皇は検非違使(けびいし)も増設しています。検非違使は首都警護の役職。警視庁みたいなもの。

上皇との戦争に備えて増設した。

デキる政治家・藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)

藤原冬嗣は、歴史上の藤原氏のなかで必ずテストに出てくるほど有名な人です。

理由は、平安時代の基礎を作った嵯峨天皇に信頼され、政策立案・実行のほぼすべてを任されたから。

蔵人所の長官もそうだし、弘仁格式の編集長もつとめました。平安時代を作ったのは冬嗣といっても過言じゃありません。

皇后が藤原氏じゃない

嵯峨天皇の皇后は藤原薬子に懲りていたので藤原氏ではありません。権力闘争で藤原氏に倒されてきた橘氏(たちばなし)の出身です。

それだけ藤原氏の信用が一気に下がっていたのでしょう。調子に乗りすぎた藤原薬子・藤原仲成の朝廷内での嫌われ方は尋常じゃありません。

次の淳和天皇の皇后も桓武天皇の皇女で非藤原氏です。

藤原氏の評価を下げたのは藤原式家です。

(式家はそのまま凋落。)

藤原氏の復活を成し遂げるのは嵯峨天皇の信頼が厚かった藤原冬嗣。

嵯峨天皇の息子・第54代 仁明天皇の妻に冬嗣の娘が嫁いで復活しました。

(冬嗣は藤原北家。)

(第55代 文徳天皇は冬嗣の孫。)

橘氏と藤原氏の因縁

皇后・橘嘉智子(たちばな の かちこ)は橘奈良麻呂(ならまろ)の孫で、橘諸兄(もろえ)のひ孫です。

諸兄は奈良時代の第45代 聖武天皇のときの左大臣で、政権トップをつとめた大物。そして、もとは皇族で第30代 敏達天皇の子孫。

臣籍降下して橘氏になる。)

嵯峨天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工
臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

当時、イケイケだった藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)の策略で、第46代 孝謙天皇のとき左大臣を辞任して失脚しました。

(年老いていたので戦う気力がなかったというのもある。)

奈良麻呂は父・諸兄が亡くなった年に仲麻呂を倒そうとしたところ、逮捕されて獄死してます。

橘奈良麻呂の乱

橘氏は天皇の血筋をもち天下を取ってもいいのに、藤原氏に対抗して潰されてきた氏族です。

30代で退位

嵯峨天皇も兄・平城天皇と同じように若くして退位しました。まだ38才です。

また嵯峨天皇は、『三筆』(さんぴつ)に数えられるほどのトップ文化人でもありました。

(三筆は書道が上手いトップ3)

嵯峨天皇
空海
(くうかい)
真言宗の開祖。
橘逸勢
(たちばな の はやなり)
橘奈良麻呂の孫。
皇后・嘉智子のはとこ。
三筆

ちなみに嵯峨天皇は三筆のひとり、空海を手厚くバックアップします。京都の東寺を与え教王護国寺を名乗ることを許しました。

天才書道家同士だったので分かりあえるものがあったのでしょう。

嵯峨上皇は退位したあとも、息子が仁明天皇に即位したときに皇太子を孫・恒貞親王(つねさだ)に指名するなど、30年以上絶大な影響力をもち亡くなりました。

若くして即位もスタンダードになる

嵯峨天皇は先代からの譲位で若くして即位したはじめての天皇です。

(24才で即位)

譲位(じょうい)

天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。

第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。

はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。

大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇

持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。

(制度化されてから2/3が譲位)

なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。

それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。

譲位の理由はいろいろ。

次世代が育つ。
そのときの権力者の都合。
自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。
(権力闘争に利用される)
病気。
仏教徒になりたい。
幕府に抗議するため。
天皇の意思。
理由なし。
あたりまえだと思っていた。

これも過去にはないことでした。『若いときに即位して若くして退位する』が天皇のスタンダードになります。

『経験を積まないと天皇になれない』

『天皇は長老』

の常識が無くなりました。これも古代とはちがう平安時代の特長です。平安時代にはあたり前に子どもの天皇が出てきますが、その道筋はこのときにできたと言えるでしょう。

嵯峨上皇は退位してから19年も影響をもちつづけました。まるで平安末期の院政のようです。

第53代 淳和天皇(弟)
第54代 仁明天皇(子)
嵯峨上皇の影響下の天皇

嵯峨上皇が亡くなったあと

嵯峨上皇の力が絶大だったエピソードがあります。承和の変(しょうわのへん)です。

上皇が亡くなるとすぐ、皇太子・恒貞親王をクビにする事件が起きました。もうひとりの三筆・橘逸勢らが恒貞親王を天皇にしようとクーデターを企んでいるという事件。

ただこれは全員無実で、藤原冬嗣の息子・藤原良房(ふじわら よしふさ)がほかの氏族を一掃するためのウソでした。

良房の計画は見事成功。

恒貞親王は命の危険を感じて皇太子を辞めたいと言っていて、そのたびに上皇は却下していました。

良房は父・冬嗣が亡くなってから上皇がいちばん信頼していた部下でした。

承和の変は上皇が圧倒的な力で抑えていたものが爆発した事件です。というか、三筆が3人とも絡んでるじゃねーか?

(ここにも橘氏と藤原氏の因縁がある。)

源氏の生みの親

嵯峨天皇には、たくさんの妃・子どもがいました。しかし宮廷の費用が膨れ上がってしまいます。30人くらいの嫁・子どもを臣籍降下させて民間人にしました。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

言ってしまえばリストラで解雇。ペナルティではないのでアフターケアでそれなりの援助はしていたでしょうが。

そこから誕生したのが有名な源氏(げんじ)です。このあとも臣籍降下は多く行われ『源』はよく使われました。21の系統が出てきます。

源氏二十一流

そのスタートを切ったのが嵯峨天皇です。嵯峨天皇から生まれた源氏のことを嵯峨源氏(さがげんじ)と言います。

源氏は武士として有名ですが、武士の源氏のもとは国司です。

臣籍降下した源姓の人には寺の住職になったのもいるし、官僚になって自力で這い上がり左大臣までなった源氏もいます。

武士の源氏で天下をとった源頼朝(みなもと の よりとも)の系統は清和源氏(せいわげんじ)。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続いた。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

『自分の葬式は派手にしなくていい。墓は草木が生えたままでいい。』というくらい、能力はあるのに調子に乗らない嵯峨天皇らしいやり方です。

嵯峨源氏は『政治家の源氏』

嵯峨源氏は政治家に多いです。中納言・大納言、右大臣、政権中枢からトップの左大臣になった人が何人かいます。

政権中枢に置いておくほど優秀な政治家たちだったようです。そこは父親譲りなのかもしれません。

名前治世
源信
(みなもと の まこと)
第53代 淳和天皇嵯峨天皇の皇子。

831年、22才で参議。(政権入り。)
第54代 仁明天皇842年、嵯峨上皇が亡くなったあと、中納言。
(『承和の変』直後)
848年、大納言。
第55代 文徳天皇850年、皇太子・惟仁親王の教育係就任。
857年、左大臣。
源弘
(みなもと の ひろむ)
第54代 仁明天皇嵯峨天皇の皇子。

842年、弟・常の10年遅れで参議。
848年、中納言昇進。
第56代 清和天皇859年、大納言。
源常
(みなもと の ときわ)
第53代 淳和天皇嵯峨天皇の皇子。
嵯峨源氏の出世頭。

831年、嵯峨源氏で最初に公卿になる。(従三位)
832年、21才の若さで参議を経ずにいきなり中納言就任。
第54代 仁明天皇838年、大納言。20代半ばで左大臣・右大臣に次ぐ政権ナンバー3になる。
840年、右大臣。同時に、皇太子・恒貞親王の教育係になる。
842年、『承和の変』で皇太子が変わるが教育係は継続。(皇太子・道康親王(文徳天皇))。
843年、左大臣が亡くなって政権トップに。
844年、左大臣。
源定
(みなもと の さだむ)
第53代 淳和天皇嵯峨天皇の皇子。
叔父の淳和天皇の養子になる。

833年、19才で参議。
第54代 仁明天皇養父・淳和天皇が亡くなると参議を辞職。
実父・嵯峨上皇が亡くなると官職を辞職。
無職に。

848年、参議に復帰。
第56代 清和天皇859年、大納言。
源融
(みなもと の とおる)
第55代 文徳天皇856年、参議。
第56代 清和天皇864年、中納言。
870年、大納言。
872年、左大臣。政権トップに。
第57代 陽成天皇876年、部下の右大臣・藤原基経(ふじわら もとつね)が摂政になったのにブチ切れて引きこもる。
第58代 光孝天皇884年、公務に復帰。
第59代 宇多天皇891年、関白・太政大臣・藤原基経が亡くなり再び政権トップに。

20年以上左大臣だった。

平安時代の初期は、藤原氏と嵯峨源氏のツートップ政権と言っていいほど、嵯峨源氏の元皇子たちは活躍しました。

政権トップの摂政関白太政大臣の藤原氏を除けば、嵯峨源氏政権と言ってもいいくらい。

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第53代 淳和天皇 民間人になりたかった事務次官経験者
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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。


天皇の本10選

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