宮家(みやけ)は不思議です。
70年前まで、天皇の家族にしては血縁が遠いし、親戚といっても娘の嫁ぎ先や嫁の実家として見たらの条件つきでした。
天皇との血縁関係が宮家より近い一般人もいたのに、それでも皇族として特別な存在であり続けました。
宮家はどういうものでしょうか?
宮家(みやけ)とは?
突然ですが、徳川御三家があった理由はなにか知っていますか?
御三家は尾張・徳川家、紀伊・徳川家、水戸・徳川家です。
江戸時代、徳川を名乗れるのは将軍家と御三家だけでした。名前だけでも特別扱いだったことが分かります。
御三家の役割は、
将軍の後継の保険
将軍本家に跡取りがいなくなったら困るので、あらかじめ分家に出しておき、本家に跡取りがいなくなったら御三家から連れてくるというもの。
じっさい本家は7代目で終わりました。8代将軍・徳川吉宗(とくがわ よしむね)は紀伊から連れてきた分家の出身です。
宮家は徳川御三家の天皇版です。宮家の歴史は古く鎌倉時代までさかのぼります。
徳川御三家のほうが真似したんですね?
天皇の息子を宮家に出して、本家が途絶えたときのために備えていました。
宮家はいつ始まったのか?
鎌倉時代、第84代 順徳天皇(じゅんとく)の息子たちが宮家をたてたのがはじまりです。
順徳天皇は、承久の乱に積極的に参加して島流しの刑を受けてしまった人。
この天皇は京都を追い出されたため、息子たちが皇位継承から外されたのでしょう。泣く泣く宮家をたてなければならなかったことがうかがえます。
最初は天皇の息子たちが宮家をたてていたので、天皇の家族という感覚がありました。しかし時が経つと、天皇と親戚だけれど家族というにはほど遠い人たちでも宮家がつづきます。
このような宮家を世襲親王家(せしゅうしんのうけ)といいます。
血縁では天皇とは遠いですが、代々親王宣下を受けつづけることで親王として残った人たち。
親王宣下(しんのうせんげ)
天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。
正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。
男性が親王。女性が内親王。
天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。
天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。
はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇。
親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。
大宝律令の中で制度化したと思われる。
(正確な決まりはない。)
親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。
宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。
明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。
天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。
範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。
世襲親王家は天皇の直系子孫としては世代が遠く、ふつうなら民間人に下り宣下を受けることはないのに、天皇から親王宣下を受けつづけました。
宮家といえば伏見宮
その代表格といえば伏見宮(ふしみのみや)でしょう。
伏見宮は、室町時代(南北朝時代)の北朝第3代 崇光天皇(すこう)の息子からはじまります。この系統は1947年(昭和22年)まで皇族でありつづけました。宮家といえば伏見宮といってもいいくらい。
しかし伏見宮は、600年もさかのぼらないと、いまの天皇と男系の血脈ではつながりません。男系としてはもう親戚とはいえないでしょう。
ちなみに昭和天皇の皇后は、伏見宮系・久邇宮(くにのみや)の出身です。女系から見ると上皇陛下の親戚です。
伏見宮は天皇の皇位継承権をもっていたのに、血統は天皇の親戚とはいえないほど遠い 。
(男系から見れば。)
宮家はなんのためにあるのか?
宮家は『徳川御三家のモデル』といいましたが、宮家を作ったほんとうの目的は分かりません。
あきらかに『天皇家の後継の保険』のためにつくった宮家は、新井白石(あらい はくせき)が提唱した閑院宮(かんいん の みや)だけ。
それ以外は、天皇やそのまわりの権力者の意向としかいえません。宮家をつくる目的をさがすと色々出てきますが、決定的なものはありません。
天皇の子孫だから家柄がいい。
朝廷の役職をもらったりしてますが、歴史にでてきて大活躍する政治家などはいません。
天皇の娘の嫁ぎ先、天皇の後継者争いから外れた皇子の預け先(養子)など、皇室にいられない人のエスケープだったように見えます。
その代わり?なのか、天皇の妻になる娘を送り出す家でした。
宮家はどんどん潰れていく
宮家はなんのためにあったのか分からないことが多いです。はっきりした理由がなさすぎて。
ぼくは、天皇に都合が良くて、引き受ける宮家にも都合が良かったと思っています。
よく分からない原因はどんどん断絶していくところにもある。
宮家はそれぞれの時代につくられましたが、雪だるま式に増えませんでした。後継者がいなくてつぶれていきます。明治に入るとそれまでの宮家は伏見宮以外ぜんぶ。
宮家の不幸は、伏見宮より新しい宮家のほうが先に潰れていったこと。新しく宮家を作って増えすぎたときは古い宮家から民間人になっていたはずなのに。
(天皇と血統の遠い人から民間人になるルールがあった。(くわしくは後述。))
これが天皇と宮家の血縁関係がとてつもなく遠くなっていった理由。新しい宮家が潰れたのは悪い意味でミラクル。
なぜ伏見宮は宮家であり続けたのか?
明治に入ると、皇室典範という皇室についてのルールをきっちり決めます。
皇室典範(こうしつてんぱん)
明治22年、大日本帝国憲法と同時につくられた皇室のルールを定めた典範。
憲法の下の法律ではなく、憲法と同格のものとしてつくられた。
これを典憲体制(てんけんたいせい)という。
1947年(昭和22)、日本国憲法の発布にあわせて、いち法律として格下げされる。
明治の典範は国会・内閣に典範を改正する権限はなく皇族がもっていた。
戦後、いち法律になったことで国会と内閣に改正する権限が移る。皇族会議はあるが最終決定権は皇族にない。
皇位継承についても皇族はタッチできないので、自分の家について意見は言えるが何もできないという問題点がある。
ここで伏見宮の規模が爆発します。
皇室典範は宮家を永世皇族にしました。いくら天皇と血筋が遠くなっても後継者がいるかぎり永遠に皇族です。
この永世皇族に、伏見宮から枝分かれした宮家がどんどん立てられました。これには、宮家から明治政府へのしつこい働きかけがあったともいわれます。
だって、いきなり増えるんだもの。伏見宮系の宮家が。
永世皇族には、すでに僧侶になっていて皇族でない人も復帰させました。ゴリ押し。
ぼくの勝手な想像ですが、ダチョウ倶楽部のギャグのようなことが起きていたんじゃないかと思います。
(際限のないループ。)
そりゃあ増えます。永世ループの間違いじゃね?
(すべてがこれではないが、こういうことがあったらしい。)
世襲親王家は明治から異論がでていた
世襲親王家はどんどん天皇と血筋が遠くなります。明治の皇室典範でも議論になりました。
どこかのタイミングで民間人にしないと、天皇家以外に特別な家ができることになる。
天皇の長い歴史から見れば大したことはない。天皇家が断絶したときのために残すべき。
結局ここでは永世皇族で残しました。でも20年後には『やっぱりダメだ』となります。爆発的に増えた永世皇族の負担が大きくなったから。
永世皇族の生活費など、もろもろのコストは国費でした。歯止めをかけるため明治40年の皇室典範の改正で制限します。
『伏見宮のゴリ押し』だというのは、たった20年で方向転換しているから。20年もたてば、政治家も代替わりしていますからね?
おかしいけど、あの人たち面倒だから...
のにおいがプンプンする。
明治の政治家は20年後が想像できないほど無能じゃない。だから不思議。永世皇族をどんどんつくった理由がなんなのか?
日本人の十八番、面倒は先送り?
GHQに廃止された11宮家は、明治40年の皇室典範の改正で、もともと民間人になる予定だった人たち。
昭和天皇が座長についた戦前の皇族会議は民間人になる人を決めるものだった。
もともと日本にあった予定をGHQが『さっさとやれ!』と強制しただけ。
『GHQに臣籍降下させられた』のは本当だが、同時にもともと民間人になる人だった。
永世皇族という制度は明治になってはじめてつくられた。それより前は養老律令の継嗣令が皇位継承の正式なルール。それでは、
親王の5世からは王とする。
ようは、
天皇の子孫だけど5世以上はなれると、いつかは皇室からはなれる。
王は皇位継承権をもたない。
(王は民間人になる予定の皇族。)
世襲親王家は正式なルールから外れている。養老律令が平安時代には忘れられていて、なし崩し的になっていたとはいえ。
明治の皇室典範はなし崩しをルールにして、もともとあった正式なルールを無視した。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
現在の宮家
いまの宮家は昭和天皇の3人の弟からはじまる新しい宮家です。目的ははっきりしています。
皇室を長くつづけるための後継者の保険
その宮家は4つ。
- 常陸宮(ひたちのみや)
- 三笠宮(みかさのみや)
- 高円宮(たかまどのみや)
- 秋篠宮(あきしのみや)
常陸宮は、上皇陛下(平成の天皇陛下)の弟・正仁親王(まさひと)の宮家です。
三笠宮は、昭和天皇の弟・崇仁親王(たかひと)からはじまります。いま当主が不在で女性しかいません。
ちなみに、この女性の中のひとり、妃・信子さまは財務大臣・麻生太郎氏の妹。
高円宮は三笠宮から分家しました。当主が不在で女性しかいません。
東京オリンピックの招致のときにスピーチをしたのが、亡くなられた高円宮さまの妻・久子さま。
秋篠宮は、眞子さま、佳子さま、悠仁親王がいます。
この4家に、上皇・上皇后両陛下、天皇・皇后両陛下、皇太子ご一家(いまは不在)を加えたメンバーが 『皇室』です。
秋篠宮家以外は消滅することが決まっています。常陸宮には当主に子供がいないので、いまの代で終わり。
三笠宮、高円宮には女性しかいないので後継者がいません。いまの法律では消滅してしまいます。