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天皇は仏教徒になるのが当たり前だった。2つの宗教を融合させる不思議。

天皇と仏教

かつて天皇は、退位して上皇になると出家するのがあたり前でした。というかそれが常識。

歴代天皇でもそんな時代のほうが長いです。でも今は、天皇が仏教徒になるという感覚がありません。

神仏習合という言葉あるので知っている人もいるでしょうが、天皇までとは...。

どうしてこうなっちゃったのでしょうか?

ヘルプのお土産

まずは、日本に仏教が入ってきたところから見ていきましょう。日本に仏教がやってきたのは、第29代 欽明天皇(きんめい)のころです。

(在位539~571)

欽明天皇は聖徳太子のお祖父ちゃんで、推古天皇の父と言ったら分かりやすいでしょうか?

マニアックなところでは、歴代天皇の中でいちばん血統の遠いところから天皇になった継体天皇の息子です。

このころ倭(わ。やまと。後の日本)は、三国プラス任那で戦国時代だった朝鮮半島の百済(くだら)と仲がよく、戦争の助太刀を求められていました。

じっさい、兵を送りますが負けてしまいます。

欽明天皇は次の敏達天皇に『必ず新羅を討て!そして任那を復興させろ!』と言い残して亡くなりました。

そんなときに仏教は日本に入ってきます。そのときは宗教ではなく、助太刀の代わりにお土産に贈られた最新の学問・知識として。

任那(みまな) 

もともと朝鮮半島中南部に小国家群(馬韓)があり、3~6世紀中ごろは加羅(から)、もしくは伽耶(かや)と呼ばれた。

その一部にあった倭人の支配エリアを任那という。

任那は日本からみた呼び名で、加羅全体を指しているのか、倭人エリアだけを指しているのかよく分からない。

前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。

ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、任那の支配権をめぐって新羅や高句麗と対立したのが原因。

百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
天皇と仏教の変遷

初めて『仏教徒になりたい』と言った天皇

日本に仏教が入ってきましたが、まだ宗教としては取り入れられていません。

初めて天皇が宗教としての仏教に興味をもったのは、敏達天皇の次に天皇になった第31代 用明天皇(ようめい)です。

(在位585~587)

用明天皇は欽明天皇の息子で、兄・敏達天皇の次に即位しました。そして、なんといっても聖徳太子の父です。

用明天皇のころは物部氏(もののべ)と蘇我氏(そが)の対立が激しく、それに病気も重なって弱気になっていたのか、臣下に『仏教徒になりたい』と相談します。

ただそのあと仏教徒になったのかは分かりません。『仏教徒になりたい』発言が物部 vs 蘇我の争いをさらに激化させたので、グダグダになったのでしょう。

仏教徒になりたいと言って1年後に亡くなります。

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
古代
古墳
第31代 用明天皇585~587天皇が初めて『仏教徒になりたい』
と言い出す。
本当になったかは不明。
天皇と仏教の変遷

本格的に寺を作った推古天皇

日本で本格的に寺づくりが始まったのは第33代 推古天皇の時代です。

(在位592~628)

その中心にいたのが聖徳太子蘇我馬子(そが の うまこ)。

ボクが学校で習った日本でいちばん古い寺は飛鳥寺(奈良)ですが、最近は四天王寺(大阪)とも言われます。

どっちにしろ、これらの寺が建立されたのは推古天皇の時代です。飛鳥寺は馬子が建て、四天王寺は聖徳太子が建てました。

蘇我氏は仏教を保護して神道を守る物部氏と戦争をしました。聖徳太子は『仏教徒になりたい』とまで言った用明天皇の息子です。

(推古天皇は用明天皇の妹で聖徳太子の叔母。)

この二人が国家運営の中心になったので寺を建立することが国家事業にまでなりました。

四天王寺は、蘇我 vs 物部の蘇我軍に参加した聖徳太子が、劣勢をはね返すのを願うために建てた。

飛鳥寺は蘇我氏の氏寺(うじでら)で、馬子が一族を守ってもらうためにホトケを祀って建てた。

と言われている。

日本最初の寺は分かっていない

飛鳥寺や四天王寺は『日本最古の寺』と言われますが、確定していません。

昔は今ほど建築技術がないので完成までに時間がかかるし、大きい寺は長い時間をかけて増築してるので、どのタイミングを建立としていいのか分からないから。

また、さらに大昔に渡来人が帰化したときに、仏像を持ち込んで小さなお堂を建てて祀っていたとも言われます。

(小さくても寺といえば寺。)

ちなみに四天王寺の建立は592年(推古元)、飛鳥寺は596年(推古4)です。

福岡の対馬には日本最古の寺と言われる梅林寺もあります。

欽明天皇の時代に日本に仏教が入ってきたときに、仏像が対馬に残ってそこに寺を建てたらしい。)

『日本最古の寺』の争奪戦が激しいですね?

個人的にはここまで来るとどうでもいいです。なんなら、ぜんぶ見に行ったろうかと思っちゃいます。

法隆寺は、現存する最古の木造建築物で最古の寺ではありません。

建立されたのは607年(推古15)、同じ時期です。

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
古代
古墳
第31代 用明天皇585~587天皇が初めて『仏教徒になりたい』
と言い出す。
本当になったかは不明。
古代
飛鳥
第33代 推古天皇592~628本格的な寺院を造り始める。
やまと(奈良)が中心。
天皇と仏教の変遷

初めて出家した聖武天皇

推古天皇の時代にたくさんの寺が作られたあと、100年くらいは目立った動きはありませんでした。

仏教が当たり前になったこともあるだろうし、この間は明治維新に匹敵する、それ以上の近代化(律令国家の建設)の最中です。それどころじゃなかったのでしょう。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

それを打ち破ったのが、第45代 聖武天皇(しょうむ)です。

(在位724~749)

聖武天皇は仏教マニアで、東大寺(奈良の大仏)を建立しました。ただ、政治でリーダーになりたがらない人でした。

また、日本中に『国分寺』という地名・駅名がありますが、それを全国に作らせたのも聖武天皇。

聖武天皇は国家運営に仏教がからんでくると積極的だったようです。

聖武天皇は生前退位(譲位)した最初の男性上皇です。そしてすぐに出家しました。

最初の法皇(ほうおう)と言ってもいいです。当時はその呼び方はありませんが。

譲位(じょうい)

天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。

第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。

はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。

大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇

持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。

(制度化されてから2/3が譲位)

なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。

それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。

譲位の理由はいろいろ。

次世代が育つ。
そのときの権力者の都合。
自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。
(権力闘争に利用される)
病気。
仏教徒になりたい。
幕府に抗議するため。
天皇の意思。
理由なし。
あたりまえだと思っていた。

聖武天皇は最初の男性上皇。

そして最初の法皇。

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
古代
古墳
第31代 用明天皇585~587天皇が初めて『仏教徒になりたい』
と言い出す。
本当になったかは不明。
古代
飛鳥
第33代 推古天皇592~628本格的な寺院を造り始める。
やまと(奈良)が中心。
古代
奈良
第45代 聖武天皇724~749上皇が初めて出家して仏教徒になる

(と同時に、初めての男性上皇)
天皇と仏教の変遷

出家したあと天皇になった称徳天皇

第48代 称徳天皇聖武天皇の娘で女帝です。父・聖武天皇に似て仏教マニアでした。

(在位764~770)

しかも称徳天皇、即位したときすでに出家していて尼さんになっていました。すべてを確認していませんが、仏教徒の現役天皇はこの人だけじゃないかな?

なんで仏教徒が天皇になったのか?

称徳天皇は第46代 孝謙天皇と同一人物です。孝謙天皇の時代に退位して上皇になり出家して法皇になりました。

(このとき法皇という呼び方はなかったが。)

そのあと、皇位を譲った第47代 淳仁天皇をクビにして、もう1回天皇に返り咲いたのが称徳天皇です。

『仏教徒が天皇になる』はワケが分かりません。天皇は神道の祭主だからです。最高クラスの神主が仏教徒としては弟子クラスのようなもん。

重祚がなせる技でしょう。

重祚(ちょうそ)

一度退位した天皇が再び天皇になること。二度目のときの名前は新しくつけられる。

男性天皇は1人も重祚していない。女帝だけ。

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
古代
古墳
第31代 用明天皇585~587天皇が初めて『仏教徒になりたい』
と言い出す。
本当になったかは不明。
古代
飛鳥
第33代 推古天皇592~628本格的な寺院を造り始める。
やまと(奈良)が中心。
古代
奈良
第45代 聖武天皇724~749上皇が初めて出家して仏教徒になる

(と同時に、初めての男性上皇)
古代
奈良
第48代 称徳天皇764~770仏教徒が天皇になる。
歴代天皇でもおそらく唯一人。
天皇と仏教の変遷

聖武・孝謙・称徳天皇がパイオニア

聖武天皇の4代前・第41代 持統天皇のとき、『天皇が生前退位したら上皇になる』というルールが決められました。

そして持統上皇から、『天皇が生きているうちに退位する(上皇になる)』常識が始まります。

聖武天皇はこれに仏教のテイストを加えました。それを孝謙称徳天皇が引き継いで『1回かぎりの聖武のきまぐれ』ではなくなります。

天皇を退位する。

上皇になる。

出家する。

法皇になる。

平安時代にはこの流れがスタンダードになります。『天皇と仏教』には二人の女帝が大きく関わっていたことは興味深いですね?

(世の中には、女帝の功績を意地でも排除しようとする人がいるが。)

称徳天皇のように『現役の天皇が仏教徒』まではスタンダードにならなかった。

神道と仏教の融合といっても、そこまではできなかったよう。

『現役の天皇には神道の祭主に集中してもらって、引退したら好きにしていいよ?』

ぐらいに収めたものが続いていく。

奈良の仏教を捨て新しい仏教を導入

これまで天皇が保護して国家事業で仏教を守ってきましたが、奈良時代には仏教を使って成り上がろうとする人が度を越していました。

その代表格が称徳天皇の時代の弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)。

平安時代の扉を開いたのは第50代 桓武天皇ですが、桓武天皇は平安京遷都のとき、これまで国が保護していて大きくなっていた寺を奈良に置いていきました。

桓武天皇
桓武天皇 キャラクタ
これ以上、政治に絡んでくるんじゃねー。

という意思表示です。

そこで新しい仏教を取り入れました。その代表が最澄(さいちょう)と空海(くうかい)。

最澄は比叡山延暦寺(滋賀)、空海は高野山金剛峯寺(和歌山)を開きます。

両方とも総本山は山奥にあります。桓武天皇は仏教のメンバーチェンジをしましたが、取り入れたニュー仏教も都から離しました。

『仏教は政治に絡んでくるな』を守ります。

天皇の仏教は真言宗

桓武天皇の息子、第52代 嵯峨天皇は、空海の真言宗を手厚く保護しました。平安京に造られた東寺(とうじ)を空海に与え、教王護国寺(きょうおうごこくじ)を名乗るのを許します。

教王護国寺は字のとおり、国を守る国立の寺で天皇と深い関わりのある寺。

ここから天皇家の仏教は真言宗になりました。このあと、皇族が住職になるような天皇と深く関わる寺ができていきますが、宗派は真言宗です。

いまでは東寺・教王護国寺は真言宗の総本山になっています。

(高野山が本物の総本山。)

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
古代
古墳
第31代 用明天皇585~587天皇が初めて『仏教徒になりたい』
と言い出す。
本当になったかは不明。
古代
飛鳥
第33代 推古天皇592~628本格的な寺院を造り始める。
やまと(奈良)が中心。
古代
奈良
第45代 聖武天皇724~749上皇が初めて出家して仏教徒になる

(と同時に、初めての男性上皇)
古代
奈良
第48代 称徳天皇764~770仏教徒が天皇になる。
歴代天皇でもおそらく唯一人。
平安第50代 桓武天皇781~806平安京遷都のとき、奈良に既存仏教
の寺を置いていく。
代わりに、最澄と空海に新しい仏教
を任せた。

最澄:比叡山延暦寺。天台宗の開祖

空海:高野山金剛峯寺。真言宗の開
祖。
平安第52代 嵯峨天皇809~823空海に平安京の東寺・教王護国寺を
与える。
天皇の仏教は真言宗になる。
天皇と仏教の変遷

民間人を経験した天皇が最初の法皇

上皇が出家し始めた150年くらいは、出家するとつけられる名前を名乗っただけで、呼び方がありませんでした。

そして平安時代の中ごろに、出家した上皇のことを『太上法皇(法皇)』と名乗る人が出てきます。

第59代 宇多天皇です。(在位887~897)

宇多天皇は歴代天皇のなかでも稀(まれ)なキャリアをもった人で、天皇の息子なのに皇族をはなれ民間人を経験しています。

源定省(みなもと の さだみ)という名前で活動し、父・第58代 光孝天皇(こうこう)のそばで政府高官をしていました。

その仕事ぶりが認められ、たった3年で皇族に復帰して皇太子になり天皇になった人です。

また宇多天皇は天皇経験者としてはじめて寺の住職になりました。これまでの出家した天皇経験者との決定的なちがい。

個人的には、寺の住職になった元・天皇につけられた称号が『法皇』だと思う。

天皇とゆかりのある寺は、皇族で皇位継承者が外れた皇子の預け先になっていく。

歴史を振り返っても仁和寺はよく出てくる。

それ以外の寺でも、皇族が預けられた寺は天皇経験者が建立に深く関わっている。

(みなもと)は、皇族が民間人になるときに天皇から与えられる姓でよく使われた。

鎌倉幕府を開く源頼朝(みなもと の よりとも)の先祖も天皇。

ただし、頼朝の先祖は第56代 清和天皇(せいわ)で宇多天皇と直接のつながりはない。

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
古代
古墳
第31代 用明天皇585~587天皇が初めて『仏教徒になりたい』
と言い出す。
本当になったかは不明。
古代
飛鳥
第33代 推古天皇592~628本格的な寺院を造り始める。
やまと(奈良)が中心。
古代
奈良
第45代 聖武天皇724~749上皇が初めて出家して仏教徒になる

(と同時に、初めての男性上皇)
古代
奈良
第48代 称徳天皇764~770仏教徒が天皇になる。
歴代天皇でもおそらく唯一人。
平安第50代 桓武天皇781~806平安京遷都のとき、奈良に既存仏教
の寺を置いていく。
代わりに、最澄と空海に新しい仏教
を任せた。

最澄:比叡山延暦寺。天台宗の開祖

空海:高野山金剛峯寺。真言宗の開
祖。
平安第52代 嵯峨天皇809~823空海に平安京の東寺・教王護国寺を
与える。
天皇の仏教は真言宗になる。
平安第59代 宇多天皇887~897歴代天皇ではじめて天皇経験者が寺
の住職になる。
出家した上皇に『太上法皇(法皇)
』の称号をつける。
天皇と仏教の変遷

天皇と仏教の分離(明治時代)

最後に法皇を名乗ったのは、江戸時代の第112代 霊元天皇(れいげん)です。

(在位1663~1687)

そのあと天皇と仏教が断絶したわけではありません。江戸時代はすでに神道と仏教は融合してて当たり前で、神社と寺が同じ敷地内にあるくらいです。

あえて法皇を名乗る必要がなかったのでしょう。

天皇と仏教が断絶したのは明治になってから。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と言われるものです。

キリスト教の欧米にならって『天皇の純粋な神道化』がすすめられました。不純物の仏教を取り除く作業です。

欧米の近代国家は元をたどるとキリスト教があるので、日本はそこに神道をあてはめたんですね?

そして長い間の常識だった『退位して上皇になる』も無くなり、『天皇は死ぬまで天皇』がルール化されました。

どっちみち法皇は無くなっていました。ベースにある上皇が無くなったので。

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
古代
古墳
第31代 用明天皇585~587天皇が初めて『仏教徒になりたい』
と言い出す。
本当になったかは不明。
古代
飛鳥
第33代 推古天皇592~628本格的な寺院を造り始める。
やまと(奈良)が中心。
古代
奈良
第45代 聖武天皇724~749上皇が初めて出家して仏教徒になる

(と同時に、初めての男性上皇)
古代
奈良
第48代 称徳天皇764~770仏教徒が天皇になる。
歴代天皇でもおそらく唯一人。
平安第50代 桓武天皇781~806平安京遷都のとき、奈良に既存仏教
の寺を置いていく。
代わりに、最澄と空海に新しい仏教
を任せた。

最澄:比叡山延暦寺。天台宗の開祖

空海:高野山金剛峯寺。真言宗の開
祖。
平安第52代 嵯峨天皇809~823空海に平安京の東寺・教王護国寺を
与える。
天皇の仏教は真言宗になる。
平安第59代 宇多天皇887~897歴代天皇ではじめて天皇経験者が寺
の住職になる。
出家した上皇に『太上法皇(法皇)
』の称号をつける。
江戸第112代 霊元天皇1663~1687歴史上、最後の法皇。
近代
明治
第122代 明治天皇1867~1912廃仏毀釈で神道と仏教が分かれる。
『死ぬまで天皇』がルール化されて
上皇を廃止。
ともに法皇もなくなる。
天皇と仏教の変遷

今の常識は非常識

いま、『上皇が仏教徒(法皇)』は非常識です。でも歴史から言えば、1000年以上、法皇がいるのが常識でした。

そもそも『上皇がいること』が常識に戻ったのが令和になってからです。

そういえば政府の有識者会議で、『死ぬまで天皇でいろよ!』と駄々をこねてた『自称』専門家がいましたね?

じっさい政府は、上皇陛下を死ぬまで平成の天皇にしようとしていました。上皇陛下の思いをガン無視、国民の支持をガン無視してまで。

天皇が譲位すると、内閣支持率がアップすることが分かってひっくり返したけど。

譲位(じょうい)

天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。

第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。

はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。

大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇

持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。

(制度化されてから2/3が譲位)

なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。

それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。

譲位の理由はいろいろ。

次世代が育つ。
そのときの権力者の都合。
自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。
(権力闘争に利用される)
病気。
仏教徒になりたい。
幕府に抗議するため。
天皇の意思。
理由なし。
あたりまえだと思っていた。

もし、上皇陛下が出家する『常識』の意思を示されたらどうなるんでしょうか?

また、ギャーギャーわめき散らす人が出てくるんでしょうね?

自称『常識人』の非常識な人たちが。

いまでも法律では、上皇が常識になっていない。特別措置法で『1代かぎりの特別な上皇』ということになっている。

上皇が常識に戻るには皇室典範という法律の改正が必要。

皇室典範(こうしつてんぱん)

明治22年、大日本帝国憲法と同時につくられた皇室のルールを定めた典範。

憲法の下の法律ではなく、憲法と同格のものとしてつくられた。

これを典憲体制(てんけんたいせい)という。

1947年(昭和22)、日本国憲法の発布にあわせて、いち法律として格下げされる。

明治の典範は国会・内閣に典範を改正する権限はなく皇族がもっていた。

戦後、いち法律になったことで国会と内閣に改正する権限が移る。皇族会議はあるが最終決定権は皇族にない。

皇位継承についても皇族はタッチできないので、自分の家について意見は言えるが何もできないという問題点がある。

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
古代
古墳
第31代 用明天皇585~587天皇が初めて『仏教徒になりたい』
と言い出す。
本当になったかは不明。
古代
飛鳥
第33代 推古天皇592~628本格的な寺院を造り始める。
やまと(奈良)が中心。
古代
奈良
第45代 聖武天皇724~749上皇が初めて出家して仏教徒になる

(と同時に、初めての男性上皇)
古代
奈良
第48代 称徳天皇764~770仏教徒が天皇になる。
歴代天皇でもおそらく唯一人。
平安第50代 桓武天皇781~806平安京遷都のとき、奈良に既存仏教
の寺を置いていく。
代わりに、最澄と空海に新しい仏教
を任せた。

最澄:比叡山延暦寺。天台宗の開祖

空海:高野山金剛峯寺。真言宗の開
祖。
平安第52代 嵯峨天皇809~823空海に平安京の東寺・教王護国寺を
与える。
天皇の仏教は真言宗になる。
平安第59代 宇多天皇887~897歴代天皇ではじめて天皇経験者が寺
の住職になる。
出家した上皇に『太上法皇(法皇)
』の称号をつける。
江戸第112代 霊元天皇1663~1687歴史上、最後の法皇。
近代
明治
第122代 明治天皇1867~1912廃仏毀釈で神道と仏教が分かれる。
『死ぬまで天皇』がルール化されて
上皇を廃止。
ともに法皇もなくなる。
近代
令和
第126代 今上天皇2019~150年ぶりに上皇が復活。
将来、法皇も復活するかも?
天皇と仏教の変遷

天皇は仏教彫刻の生みの親

最後のおまけでもうひとつ。宗教の仏教ではなくアートの面から。

仏教のアートと言えば彫刻があります。平安時代の中期から幕末の騒乱まで仏教彫刻の主流は慶派(けいは)でした。

この慶派を作ったのが、第58代 光孝天皇の息子たちを臣籍降下させて生まれた源氏光孝源氏)の流れから仏師になった康尚(こうしょう)です。

鎌倉時代の天才彫刻家、運慶湛慶(うんけい, たんけい)も康尚の子孫。つまり光孝天皇の子孫。

そのほか天才仏師は数知れず。アートの面でも天皇の子孫たちは大活躍しました。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。

初めての法皇・宇多天皇の兄弟の子孫が仏教彫刻を繁栄させた。

時代天皇在位期間仏教徒の関わり
古代
古墳
第29代 欽明天皇539~571百済ヘルプのお土産で入ってくる。
(最新の学問・知識)
古代
古墳
第31代 用明天皇585~587天皇が初めて『仏教徒になりたい』
と言い出す。
本当になったかは不明。
古代
飛鳥
第33代 推古天皇592~628本格的な寺院を造り始める。
やまと(奈良)が中心。
古代
奈良
第45代 聖武天皇724~749上皇が初めて出家して仏教徒になる

(と同時に、初めての男性上皇)
古代
奈良
第48代 称徳天皇764~770仏教徒が天皇になる。
歴代天皇でもおそらく唯一人。
平安第50代 桓武天皇781~806平安京遷都のとき、奈良に既存仏教
の寺を置いていく。
代わりに、最澄と空海に新しい仏教
を任せた。

最澄:比叡山延暦寺。天台宗の開祖

空海:高野山金剛峯寺。真言宗の開
祖。
平安第52代 嵯峨天皇809~823空海に平安京の東寺・教王護国寺を
与える。
天皇の仏教は真言宗になる。
平安第58代 光孝天皇884~887光孝源氏から日本仏教彫刻の最大流
派・慶派が生まれる。
平安第59代 宇多天皇887~897歴代天皇ではじめて天皇経験者が寺
の住職になる。
出家した上皇に『太上法皇(法皇)
』の称号をつける。
江戸第112代 霊元天皇1663~1687歴史上、最後の法皇。
近代
明治
第122代 明治天皇1867~1912廃仏毀釈で神道と仏教が分かれる。
『死ぬまで天皇』がルール化されて
上皇を廃止。
ともに法皇もなくなる。
近代
令和
第126代 今上天皇2019~150年ぶりに上皇が復活。
将来、法皇も復活するかも?
天皇と仏教の変遷
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正一位, 従三位ってなんだ? 位階とか官職とか官位の細かなちがい。
最澄と空海。相性最悪の仏教2大スター。日本仏教の礎でも方向性がまるでちがう。
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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。

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