歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
仲哀天皇(ちゅうあい)は早く亡くなったため、当時としては短い在位です。九州討伐に遠征に行くほどのアグレッシブな人でした。
嫁は、かつて歴代天皇に数えられた、女性皇族最強の女傑です。
先史・古代 古墳時代
- 皇居
穴門豊浦宮
(あなとのゆらのみや)筑紫橿日宮
(つくしのかしいのみや)
- 生没年
- 148年?月?日 ~ 200年2月6日
成務天皇18年 ~ 仲哀天皇9年
52? 才
- 在位
- 192年1月11日 ~ 200年2月6日
仲哀天皇元年 ~ 仲哀天皇9年
9? 年
- 名前
- 足仲彦尊
(たらしなかつひこ の みこと)
- 父
日本武尊
(やまとたける の みこと)
- 母
両道入姫命
(ふたじ の いりびめ の みこと)第11代 垂仁天皇の娘
(すいにん)
- 皇后
気長足姫尊
(おきながたらしひめ の みこと)神功皇后
(じんぐう)気長宿禰王の娘
(おきなが の すくね の おおきみ)
ヤマトタケルの息子が即位
先代・成務天皇は皇子がいませんでした。そこで後継者に指名され成務天皇が亡くなったあと即位します。仲哀天皇です。
仲哀天皇は古代のヒーロー・日本武尊(やまとたける の みこと)の第2皇子で、4世紀後半の人といわれます。
仲哀2年、皇后を迎えます。有名な神功皇后です。かつては歴代天皇に数えられ、歴代の女性皇族史上、最強の女傑といっていいほどの人でした。
天皇の皇子だが天皇になれなかったヒーロー、ヤマトタケルが父。
カミに逆らったのが運のつき
神功皇后を迎えた年(仲哀2年)、熊襲(くまそ。南九州の豪族)が貢物をしませんでした。
『なんでお前の言うこと聞かないといけないんだ?』ってことですね?
熊襲はヤマト王権になかなか従わない最強軍団で、仲哀天皇の父・ヤマトタケルが成敗してやっと従順になった。
しかしヤマトタケルは死んだので、『息子のお前にまで従う義理はねー!』になる。
熊襲の大将はヤマトタケルにだまし討ちで殺されていたのでリベンジの意味もあった。
これを成敗するために、天皇自ら九州遠征を行ないます。神功皇后、伝説の臣下武内宿禰もいっしょに。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
橿日宮(かしいのみや。香椎宮)に陣をかまえ、みんなで都を留守にしてどうするんだ? というくらいの全員攻撃です。
ただここで、カミサマに振りまわされます。神功皇后にカミが降りました。イタコですね?
朝鮮(新羅)のことです。でも天皇は疑問をもちました。
仲哀天皇は亡くなってしまいます。
この時代は、日本昔ばなしのような現実と夢が入り混じったことが多くあります。現実には熊襲から放たれた矢にあたって死んだともいわれます。戦死ですね?
熊襲の討伐は失敗。戦争に負けた。
仲哀天皇を殺したのは住吉三神
仲哀天皇を殺したカミは住吉三神です。住吉神社にまつられています。
海のカミで、海上安全、交通安全のカミサマとして有名ですね? いまは日本全国に住吉神社はあります。
仲哀天皇が殺されたので、あとを引きついだ神功皇后はこのカミを大事にしました。
最初の住吉神社は神功皇后が創建させたと言われます。
それが縁で、住吉神社には神功皇后もまつられています。
このあたりの日本人の感覚は変わらない。本当は恨んで良いはずのカミをむしろ大事にするところが。
日本人は恨みよりも祟りの方に恐怖を覚えるから。そもそも仲哀天皇は住吉さまを無視して祟られて死んでるし。