歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第64代 円融天皇(えんゆう)は、オラオラ藤原氏が絶頂期を迎えた最初の天皇です。
ライバル氏族がいなくなった藤原氏は内部の権力闘争が激しく、円融天皇の時代は藤原兼通・兼家の兄弟ゲンカに悩まされるだけで終わってしまいました。
円融天皇を退位させたのは犬猿の仲の藤原兼家。超絶な野心家です。
中世 平安時代 - 中期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 959年3月2日 ~ 991年2月12日
天徳3 ~ 正暦2
33才
- 在位
- 969年9月23日 ~ 984年8月27日
安和2 ~ 永観2
16年
- 名前
- 守平
(もりひら)
- 別名
覚如
(かくにょ)金剛法
- 父
第62代 村上天皇
(むらかみ)
- 母
藤原安子
(ふじわら あんし / やすこ)藤原師輔の娘
(ふじわら もろすけ)
- 皇后
藤原媓子
(こうし / てるこ)藤原兼通の娘
(ふじわら かねみち)
- 皇后
藤原遵子
(じゅんし / のぶこ)藤原頼忠の娘
(ふじわら よりただ)
- 女御
藤原詮子
(ふじわら せんし / あきこ)東三条院
藤原兼家の娘
(ふじわら かねいえ)
- 妻
その他
アホの兄? から受け継いだ皇位
先代で兄・冷泉天皇は、叔父さんで醍醐天皇の息子・源高明(みなもと の たかあきら。左大臣)が左遷された5ヶ月後、20才で退位します。
高明を追い出したのはもう一つの家族、藤原氏。
『そこまでやりたい放題やるなら勝手にどうぞ?』
になってしまったのでしょう。そこで即位したのが弟の円融天皇です。(11才)
円融天皇は、冷泉天皇が投げ出してしまった元凶・藤原実頼(ふじわら さねより)、藤原師輔(ふじわら もろすけ)兄弟が立てた皇太弟だったので、兄に代わって即位しました。
皇太弟(こうたいてい)
天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。
皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。
前代未聞。摂政が3人も変わる
11才で即位した円融天皇に政治ができるわけもありません。そこで毎度おなじみの摂政を立てました。
しかし円融天皇の摂政は、たて続けに死んでいってしまいます。結局、3人も摂政になる人が出てきました。
藤原実頼 (ふじわら さねより) | 冷泉天皇の関白。 順当な摂政就任。 (関白から摂政へスライド) 円融天皇が即位して1年も経たないうちに亡くなる。 |
藤原伊尹 (ふじわら これただ) | 藤原師輔の長男。 師輔は実頼の弟なので、前摂政の甥にあたる。 右大臣。 藤原氏長者になったので摂政になる。 摂政になって1年後に亡くなる。 |
藤原兼通 (ふじわら かねみち) | 藤原師輔の次男。 摂政のあと関白へスライド。 |
ひとりの天皇に3人も摂政がいたのは前代未聞で過去にはありません。
摂政がたて続けに死んだのは不幸ですが、円融天皇の元服が近づいていたので、『次の関白はだれだ?』の権力闘争が激しくなっていきます。
みっともない口論。藤原兼通 vs 藤原兼家
二人目の摂政・藤原伊尹(これただ)が亡くなった後、弟・藤原兼通(かねみち)が摂政になりましたが、このとき、バチバチの喧嘩が起きました。
兼通とその弟・藤原兼家(かねいえ)です。
兼家は兄・兼通を飛び越えて、自分が将来の関白になるべきだと言い出しました。
円融天皇の目の前で口論するぐらい激しいものだったようです。
このときは、『伊尹の遺言どおりに』『年功序列で』になって、兼家の意見は退けられました。
出世街道爆走・兼家
ここで登場する藤原氏で一番若い藤原兼家(かねいえ)ですが、彼には正当な言い分がありました。
一番若いのに出世が一番早かったから。
藤原伊尹(これただ)は、亡くなった父・藤原師輔(もろすけ)の残した権力を守るのに必死で、弟で期待していた兼家を参議をとばしていきなり中納言に抜擢します。
(もうひとりの弟・藤原兼通(かねみち)は参議止まり。期待されていなかった。)
叔父さんの関白・藤原実頼(さねより)に権力が移るのを恐れたのでしょう。
円融天皇が即位したときの次世代藤原氏のポジションを見ても、兼家は兄・伊尹に次いでナンバー2です。
藤原実頼 (さねより) | 関白・太政大臣。 円融天皇の摂政。 関白から摂政へ鞍替え。 |
藤原師尹 (もろただ) | 左大臣。 実頼・師輔の弟。 権力闘争に参加していない。 |
藤原在衡 (ありひら) | 右大臣。 ここでの中心的な藤原氏とは遠い親戚。 権力闘争に参加できない。 |
藤原伊尹 (これただ) 藤原師輔の長男 | 大納言。 左近衛大将。 正三位。 |
藤原兼家 (かねいえ) 藤原師輔の三男 | 中納言。 東宮大夫。 (皇太子直属の機関の長) 正三位。 |
藤原頼忠 (よりただ) 藤原実頼の子 | 中納言。 右近衛大将。 従三位。 |
藤原兼通 (かねみち) 藤原師輔の次男 | 参議 宮内卿。 従三位。 |
宮内省(くないしょう)
律令制の8つの役所のひとつ。
トップは宮内卿(くないきょう。事務次官)。
いまの宮内庁みたいなもの。
宮廷の掃除、修理から食事、医療など広く管理。
天皇の財産も管理した。
円融天皇が即位したときは、兼家は兄・伊尹と同じ正三位。弟を引き上げただけでなく、次の後継者に指名していたと言ってもいい。
藤原実頼と弟・師輔の立場
この兄弟は、兄・実頼が関白・太政大臣で役職は上だが、政治の立場は師輔が上だった。
理由は、師輔は天皇の娘・内親王を3人も嫁にもらっていたから。
伊尹が弟・兼家を自分と同じ位に上げてでも守りたかったのはこの力。
それだけ兼家は師輔の息子たちのなかで優秀だったということ。
(師輔は円融天皇が即位したときすでに亡くなっていた。)
方針転換? 兼家が抜かれる。
円融天皇が即位してから1年も経たないうちに摂政・藤原実頼(さねより)は亡くなります。
次の藤原氏長者は藤原伊尹(これただ)。弟・兼家(かねいえ)を大出世させた人。
しかし、右大臣のまま円融天皇の摂政になり事実上政権トップになった伊尹は、前摂政・実頼の息子・藤原頼忠(よりただ)をナンバー2にします。
円融天皇が元服すると頼忠を右大臣にしました。
(伊尹は太政大臣になる。)
(権大納言は大納言に空きがないときに与えられる『大納言じゃないけど大納言級の役』。)
微妙...
藤原伊尹 (これただ) 藤原師輔の長男 | 太政大臣・摂政。 正二位。 |
源兼明 (みなもと の かねあきら) | 左大臣。 従二位。 じつはずっと、伊尹よりも位が上だった源氏。 伊尹が出世して抜かれる。 第60代 醍醐天皇の皇子。 |
藤原頼忠 (よりただ) 藤原実頼の子 | 右大臣。 左近衛大将。 正三位。 |
太政大臣になると、これまでみたいに自分の派閥だけを考えてる場合じゃなかったのでしょう。
左大臣は源氏でも天皇の息子。太政大臣の好き勝手に見えないバランスを取った布陣です。
その割りを食ったのが兼家。
伊尹は、天下を取るまでは兼家を優秀なブレーンとして使ってきた。
いざ天下を取ると、あっさりはしごを外す。
兼家は伊尹の天下取りに利用されただけにも見える。
兼家に居場所なし。兄・兼通にも抜かれる。
これだけじゃ終わりませんでした。太政大臣・藤原伊尹(これただ)は、自分の死期が迫ると、次の人事を決めていきます。
まず、自分が摂政を辞めました。そして、藤原氏長者をいとこの右大臣・藤原頼忠(よりただ)にゆずります。
そして、弟・兼通(かねみち)を、権中納言のまま内覧・内大臣にしました。
内覧(ないらん)は、天皇に奏上する公文書を見ることができる。
関白の特権のひとつ。
内大臣は天皇のそばにつねにいる臣下で最側近。
内覧・内大臣は将来の関白に指名されたようなもの。キャリアを積む意味もある。
あれだけひいきしていた弟・兼家(かねいえ)は権大納言のまま。
伊尹の遺言は、
『オレの後は頼忠を中心に頑張れ』
『そのあとは兼通が関白になってがんばれ』
でした。
伊尹の弟・兼家に対するやさしさもある。
兼通は内覧・内大臣になっているが、位、役職は兼家のひとつランク下のままで出世していない。
(中納言を兼任。)
兼家からすれば、そのやさしさが余計に腹が立つと思うが。
(部下の方が重要な仕事をすることになるから。)
もう1回、あの口論に戻ってみよう
もう一度、あの口論に戻ってみましょう。
藤原兼家(かねいえ)の『オレが関白になる』発言はぶっ飛んでるでしょうか?
最初は、異例の出世街道を走っていたのに、いとこの藤原頼忠(よりただ)に抜かれ、ずっとランクが下の兄・藤原兼通(かねみち)に抜かれ...。
この間たった3年。もう1回言っとこう。たった3年で、藤原氏の勢力図が大きく変わりました。
損をしているのは兼家ただひとり。
しかも次の関白に内定した兼通は、位も役職も兼家の下。
兼家からすると内覧・内大臣は上司のオレでしょっ? てなります。じっさいそう言って口論になりました。
円融天皇の目の前で。
円融天皇は藤原兼家を嫌っていた
あとになりますが、円融天皇は干されたところから復活した藤原兼家(かねいえ)とバチバチのバトルをして退位します。
兼家のことをかなり嫌っていました。
もしかすると、円融天皇は最初から兼家のことが嫌いだったのかも知れません。
兼家の出世が止まったのは円融天皇が元服したころからはじまります。これから自分が政治をしようと思っていた円融天皇は、兼家の野心満々さがイヤだったのかも知れません。
あれだけ弟・兼家を大事にしていた兄・藤原伊尹(これただ)もそれを察知したのでしょう。
弟と一緒に干されるのだけは避けたかったのか? 父・藤原師輔(もろすけ)の力を受け継いだ責任があるので。
藤原兼通の藤原兼家追い出し計画
関白になった藤原兼通(かねみち)は、弟・藤原兼家(かねいえ)に入るスキを与えないように包囲網を作ります。
重要なポジションから外されましたが、貴族ランクは依然として高かったので。
まず元服した円融天皇に、自分の娘・媓子(こうし)を嫁がせて皇后にしました。
さらに自分の後継者に、円融天皇の最初の摂政・藤原実頼(さねより)の息子でいとこの藤原頼忠(よりただ)を指名します。
円融天皇の二人目の摂政・藤原伊尹(これただ)が亡くなったときも次の関白候補に挙がるほどの実力者です。
977年、兼通は左大臣・源兼明(みなもと の かねあきら)を皇族に復帰させ、頼忠を左大臣にしました。
関白 太政大臣 | 藤原兼通 (かねみち) |
左大臣 | 藤原頼忠 (よりただ) |
右大臣 | 源雅信 (みなもと の まさざね) 父は醍醐天皇の弟・敦実親王(あつみ)。 第59代 宇多天皇の孫。 母は藤原時平(ときひら)の娘。 |
源氏からひとり入ったのは、円融天皇がまだ天皇親政の夢をあきらめてなかったから。
オラオラの兼家を遠ざけた理由はこれ。
包囲網をくぐり抜ける藤原兼家の復活
今までずっとランクが下で、もしかすると小馬鹿にしていた兄・藤原兼通(かねみち)が太政大臣になると、弟・藤原兼家(かねいえ)は役職の停止・降格を喰らいました。
兄・兼通は、ほんとうは左遷したいくらいブチ切れていたようですが、なにか罪を犯したわけではないので、左遷する理由がなく残念がっていたようです。
そんな兼通は、円融天皇の元服の5年後、977年に亡くなります。直前には、重篤で動くこともままならないのに宮中に参内し、『次の関白は頼忠だ』と言ったそう。
それだけ、犬猿の仲の弟・兼家の復活を心配していました。
案外あっさり復活した藤原兼家
関白になった藤原頼忠(よりただ)ですが、円融天皇との親戚関係が薄いために政権が不安定でした。
一方、干された藤原兼家(かねいえ)は、円融天皇の叔父さんです。
また、先代・冷泉天皇の皇子・居貞親王(おきさだ。のちの三条天皇)が1年前に生まれていました。
兼家は居貞親王のお祖父ちゃん。
頼忠は絶大な権力をもっていましたが、将来、天皇になるかもしれない皇子のお祖父ちゃんを無視できません。
(頼忠がたった一つ持っていないものを兼家は持っていた。ひとつでもそれがデカい。)
兼家を復帰させます。しかも右大臣に出世させて。
関白 太政大臣 | 藤原頼忠 (よりただ) |
左大臣 | 源雅信 (みなもと の まさざね) 父は醍醐天皇の弟・敦実親王(あつみ)。 第59代 宇多天皇の孫。 母は藤原時平(ときひら)の娘。 |
右大臣 | 藤原兼家 (かねいえ) |
兼家の上司に天皇の孫・源雅信(みなもと の まさざね)がいるから抑えられると考えたのでしょうが、案の定、兼家には通用しませんでした。
皇子のお祖父ちゃんにだれがなるか?
右大臣に復帰した藤原兼家(かねいえ)は、娘・詮子(せんし)を円融天皇に嫁がせました。
関白・藤原頼忠(よりただ)の娘・遵子(じゅんし)はすでに円融天皇に嫁いでいます。
ここで、将来の天皇のお祖父ちゃんレースが激しくなります。結局、皇子を産んだのは詮子。
(懐仁親王(やすひと。のちの一条天皇))
お祖父ちゃんになったのは兼家でした。
関白・頼忠は、なぜか天皇の親戚になれません。『あいつダメじゃん。』と陰口を言われていたそう。
天皇と親戚関係を作れない頼忠は、次の花山天皇の関白もつとめ、その次の一条天皇のときまで太政大臣だった。
ただ、陰口をたたかれるくらい朝廷での信頼を失い、実質、兼家の時代になる。
一条天皇のとき関白を辞めるのは、兼家が孫の一条天皇の摂政になったから。
形だけの太政大臣と言っていい。そこは父・藤原実頼(さねより)から続く、天皇の親戚になるのが下手くそだったところが大きい。
だれを皇后にするか?
関白と右大臣の娘は天皇の妻になりましたが女御です。位は高くても側室みたいなもの。
女御(にょうご)
位の高い朝廷の女官。天皇の側室候補でもあったので、天皇の側室という意味もある。
円融天皇の皇后は、亡くなっていた藤原兼通(かねみち)の娘・媓子(こうし)でしたが、皇子を産まずに亡くなってしまいます。
藤原兼家(かねいえ)が嫌いだった円融天皇は、次の皇后を関白・藤原頼忠(よりただ)の娘・遵子(じゅんし)にしました。
(皇子を産んでない方を選んだ。)
先に円融天皇の妻になっていたというのもあるが。
藤原兼家のサボタージュで退位
自分の娘が皇后になれなかったのにブチ切れた右大臣・藤原兼家(かねいえ)は、家に引きこもって出社拒否をしました。
兼家は、円融天皇と妻・息子(懐仁親王(やすひと。のちの一条天皇))を意地でも会わせません。
(当時は、生まれた皇子は母の実家で育てることになっていた。通い婚の影響。)
通い婚(かよいこん)
結婚しても一緒に住まない形態。
男性が女性の家に通うことが名前の由来。女性は男性の家に行くことはない。男性は複数の妻を持つことができた。
一夫多妻制の別居婚。
生まれた子どもは妻の実家で育つ。
『皇后にしないと離婚だー! 皇子も渡さねー!』
とダダをこねます。
困った円融天皇は退位することにしました。
ウソみたいな天皇の終わり方です。そんなことで? 以外、感想がありません。
円融天皇は27才で退位し33才で亡くなりました。
藤原氏で最大のオラオラな兼家は、ここからさらに調子に乗っていき、それが息子に引き継がれていきます。
その最高潮が兼家の息子・藤原道長(みちなが)。
道長は現役天皇をいじめ倒しました。前代未聞の調子乗り。オヤジに似てる次元を超えてパワーアップします。