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第62代 村上天皇。律令政治の終わり。貴族の源氏の主流、村上源氏の祖先。

村上天皇 肖像画

歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -

第62代 村上天皇(むらかみ)は、先代で兄・朱雀天皇のときとちがって、平和で安定した時代の天皇です。

摂関政治はすでに始まっていましたが、関白太政大臣を置かず天皇親政を行いました。最後の律令政治です。

天暦の治として知られ平安時代の改革で最大級の評価を受けています。まさしく有終の美。

中世 平安時代 - 中期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 926年6月2日 ~ 967年5月25日
    延長4 ~ 康保4
    42才
  • 在位
  • 946年4月20日 ~ 967年5月25日
    天慶9 ~ 康保4
    22年
  • 名前
  • 成明
    (なりあきら)
  • 別名
  • 天暦帝

  • 藤原穏子
    (ふじわら おんし / やすこ)

    藤原基経の娘
    (ふじわら もとつね)

  • 皇后
  • 藤原安子
    (ふじわら あんし / やすこ)

    藤原師輔の娘
    (ふじわら もろすけ)

  • 女御
  • 藤原芳子
    (ほうし / よしこ)

    藤原師尹の娘
    (ふじわら もろただ)

  • その他

村上天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

菅原道真の呪いに疲れた兄

先代の朱雀天皇は、皇太子になった理由から天皇の在位中の間、ずっと菅原道真(すがわら の みちざね)の怨霊に悩まされました。

(天変地異、反乱などなど、良いことがなかった。)

24才の若さで、まだ皇子が生まれてないのに退位します。そこで即位したのが弟の村上天皇(20才)。

兄は8才で即位したので17年間天皇でした。怨霊に呪われなくても退位していたのかも知れません。

(決して異例の若すぎる退位でもない。この時代では。)

6年後に兄・朱雀上皇は亡くなります。

関白を置かない天皇親政

村上天皇には、先代からつづいて関白藤原忠平(ふじわら ただひら)がいましたが、即位してから3年後に亡くなります。

村上天皇は新しい関白を置かず、天皇親政を始めました。

村上天皇の時代は、安定して平安文化を花開かせたという評価をされ、天暦の治(てんりゃくのち)と言われます。

父の第60代 醍醐天皇の治世(延喜の治(えんぎのち))と並んで、『延喜・天暦の聖代』という言葉もあるくらい平安時代の天皇では最大級の評価。

摂関政治が絶好調を迎える直前で、律令政治の最後を飾る最後の大花火みたいなものでしょうか?

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

天皇の嫁の父・藤原実頼・師輔兄弟

村上天皇は、藤原氏のメンツが足りないからしょうがなく天皇親政をしたわけではありません。

関白・藤原忠平には優秀な政治家の息子がいます。藤原実頼(ふじわら さねより)と藤原師輔(ふじわら もろすけ)。

この兄弟は、父・忠平のあとを継いで摂関政治にこだわらず、天皇親政を目指す村上天皇にヨイショすることで出世しました。

藤原氏は天皇親政の一員という位置づけ。

左大臣藤原実頼
右大臣藤原師輔
村上天皇政権

この兄弟が太政官のツートップをつとめます。

(政権ナンバー1とナンバー2。)

この藤原氏の兄弟は、摂関政治をあきらめたわけじゃない。

村上天皇のもとではできないと思ってただけ。

じっさいに村上天皇のあと、摂関政治の実力者へとなっていく。

このときはまだタイミングを計っていたのだろう。

なぜ関白になれなかったのか? 藤原実頼

藤原兄弟の兄・実頼は、先代の朱雀天皇の嫁の父です。これを見ても分かるように、将来関白になることを約束され出世街道を走ってました。

関白は太政大臣になるのが通例なので、左大臣の実頼はもう一歩です。

(左大臣の上には太政大臣しかない。)

それなのに左大臣で止まってます。太政大臣が不在なので政権のトップではあるが。

20才で即位した村上天皇は摂政がいませんでした。過去の関白は少年天皇の摂政を務めてから関白になってます。

おそらく実頼の左大臣止まりの原因は、摂政の経験がなかったからでしょう。

村上天皇からすると、『オレには摂政がいなかったから関白もいらねー』ってこと。

次の冷泉天皇が即位するとすぐに実頼は関白になる。

やっぱり村上天皇は自分で政治がしたかったらしい。

村上天皇の義理の父・藤原師輔

藤原実頼藤原北家の長者でだれもが認める藤原氏のリーダーですが、意外なところにライバルが。

弟・藤原師輔(ふじわら もろすけ)です。

師輔の娘は村上天皇に嫁いだ安子(あんし / やすこ)。安子が憲平親王(のりひら。次の冷泉天皇)を産むとすぐに、その子は皇太子になりました。

師輔は次期天皇のお祖父ちゃんになります。皇太子の母・安子は皇后に昇格しました。

ここで、政権ではナンバー2の師輔は、『天皇の家族』として兄・実頼を超えました。

じっさい政治でも、上司・実頼より力が大きくなります。ただ師輔のパワーの源はこれだけではありませんでした。

天皇の娘にアタックするチャレンジャー・師輔

村上天皇には、美人で有名な親子ほど年がはなれた姉がいました。勤子内親王(きんし)です。

どうやら、醍醐天皇の子孫は美女が多かったみたい。

朱雀天皇の娘には『えもいわれぬ美しさ』と言われた昌子内親王(しょうし)がいた。

その『キレイなお姉ーたま』にゾッコンしてしまった4才年下の藤原師輔は、猛アタックして彼女にしちゃいました。

やっちまったもんはしょうがないということで結婚まで認められます。

前代未聞です。内親王を嫁にもらった臣下は師輔が史上初。

内親王は天皇になれる女性。その圧倒的な立場の女性が格下の天皇の部下に嫁ぐなんて、考えられませんでした。

これまでの内親王で生涯独身が多いのは、それだけ嫁ぎ先がなかったからです。

1回で終わらない。3連アタックのスナイパー・師輔

これだけじゃありません。35才で亡くなってしまった勤子のあと、今度は勤子の妹も嫁にしました。雅子内親王(がし)。

さらーに、雅子の妹、康子内親王(やすこ)も嫁にします。醍醐天皇の3人の娘(すべて内親王)を嫁にしました。

勤子内親王
(きんし / いそこ)
醍醐天皇の第5皇女。
朱雀・村上天皇兄弟の姉。
雅子内親王
(がし)
醍醐天皇の第10皇女。
朱雀・村上天皇兄弟の姉。
康子内親王
(こうし / やすこ)
醍醐天皇の第14皇女。
朱雀・村上天皇兄弟の姉。

しかーも、康子は醍醐天皇と皇后・隠子(おんし / やすこ)の子で、朱雀・村上天皇とは父と母が同じ。

1回タブーを犯して、なんだかんだで上手くいった師輔の欲望は、宇宙の彼方へ飛んでいきました。兄・実頼よりも大きな力をもつのも当然。村上天皇のアニキになったので。

(師輔は村上天皇の義理の父で義理の兄。)

天皇の娘に惚れて惚れられるいい男・師輔。

(どうやら醍醐天皇の娘がど真ん中のタイプだったみたい。)

雅子内親王は斎宮(さいぐう)だった。

斎宮はかつて斎王(さいおう)と言われた伊勢神宮の巫女のトップ。

斎宮を経験した内親王を嫁にもらった臣下は、歴史の中でも師輔ただひとり。

斎王(さいおう)     

伊勢神宮の祭主。

第11代 垂仁天皇が娘・倭姫命(やまとひめ の みこと)にアマテラスを祀る場所を探させ、そこに伊勢神宮を創建した。

そしてそのまま倭姫が斎王になったところから始まる。

そこから代々、女性皇族が祭主を務めた。

第33代 推古天皇のころから明治維新まで代々・中臣氏が祭主を務めるようになるが、中臣氏の祭主とは別に内親王が斎王になった。

(この間、内親王の斎王が途切れずに引き継いでいたかは分からない。)

昭和22年以降、内親王(天皇の娘や女性子孫)が祭主を務めるように復活。

普通、神社のトップは宮司(ぐうじ)だが、伊勢神宮だけは唯一、大宮司(だいぐうじ)という。

これが今でも続く。今は天皇陛下の妹・黒田清子さま。

今の神宮は、大宮司とのツートップ体制で、斎王は『伊勢神宮祭主』という。

また平安時代以降には斎宮(さいぐう)とも呼ばれた。斎王・斎宮はどちらも『いつきのみこ』とも読む。

女性が務めるので巫女(みこ)のトップという意味。

律令政治と摂関政治の境の出来事

村上天皇は律令政治の最後の天皇です。それを示すポイントがいくつかありました。

皇后になる条件が変わる。

天皇の娘(内親王)が臣下に嫁ぐ。

皇后になる条件が変わる

これまで、天皇の嫁が皇后になる条件は嫁の実家の家柄によって決まっていました。

皇族出身。

王と呼ばれた天皇の遠縁・天皇の子孫の氏族。

有力な氏族。

その他・天皇が気に入った娘。

平安時代に入るとこの序列はくずれ、村上天皇のころには皇族出身の嫁よりも藤原氏の嫁が皇后になる逆転現象が起きてました。

(村上天皇の前に藤原氏の皇后が出ていた。)

そこに、『皇太子を産んだ人が皇后になる』という子どもの立場で母のランクも決まるようになります。

村上天皇の嫁・安子は、自分が産んだ憲平親王(次の冷泉天皇)が皇太子になってすぐに女御から皇后に昇格しました。

『嫁いだときから嫁ランクは決まっていた』から『産んだ息子の立場で母のランクが決まる』への転換です。

それだけ、皇族や皇族の遠縁、元・皇族の氏族の血統が気にならなくなったということ。

藤原氏にかぎっては。

といっても、皇太子の母が必ず皇后になることはなく、皇后でない次期天皇の母もいっぱいる。

歴代天皇の皇后で4人にひとりは皇子を産んでいない。そして、歴代天皇の母の半数近くは側室。

内親王が臣下に嫁ぐ

天皇になれる立場の内親王が臣下に嫁ぐことも、それまでは絶対にできませんでした。

これまでの権力闘争は、どれだけランクの高い嫁をもらうかも重要なポイントだったから。

第33代 推古天皇はレイプされそうになったくらい。

内親王は最高のポイントだったので、結婚する相手は天皇になりそうな人に限られてました。

古代の天皇家で親族結婚が多かった理由のひとつ。

それを打ち破ったのが藤原師輔

じつは師輔は天皇の子孫です。父・忠平は第54代 仁明天皇のひ孫で、師輔の母は源氏の人で第55代 文徳天皇の孫。

師輔は父から見ても母から見ても天皇の子孫。

村上天皇のころには藤原氏も天皇の子孫になってました。

内親王に手を出して左遷や斬首されてもおかしくないのに結婚までできたのは、師輔が天皇の子孫だったからでしょう。

藤原氏の娘が皇族の娘より嫁ランクが高くなれたのも、藤原氏は天皇の子孫になってたから。

藤原氏の長者・藤原北家の人は天皇の子孫になっていた。

絶対に超えられない『嫁ランク』『内親王の嫁ぎ先』を超えたのも藤原氏が天皇の子孫だから。

このときの天皇は、皇族も藤原北家も家族という認識だった。

成人天皇は意見をもってるからヤダ

藤原北家摂政関白太政大臣を独占するのに成功しましたが、それをつづけられませんでした。

天皇によっては関白・太政大臣を置かないこともしばしば。村上天皇もそうです。

しかも、天皇親政をした人が後世に高評価される始末。

(延喜の治をした醍醐天皇も天皇親政。)

藤原北家からすると、摂政・関白・太政大臣がなければ、ほかの氏族に負けるかも知れません。

(じっさいこのころ、天皇の子孫・源氏や藤原氏内部で覇権を争っていた。)

村上天皇のときに、ずっと摂政・関白・太政大臣を出しつづける方法を確信したのでしょう。

皇太子を早めに決める。

皇太子の母は藤原北家。

赤ん坊・皇太子の後見人に藤原氏長者がなる。

すると、幼年天皇だったらそのまま摂政になれる。

(そのまま関白へスライドできる。)

成年天皇でも、子どものころ後見人だった人が関白になれる。

関白は太政大臣になるのが通例なので自然と太政官のトップになれる。

ライバルが政権トップの左大臣になっても藤原北家は盤石。

こんな感じ。

憲平親王は村上天皇の次男。長男・広平親王(ひろひら)がいた。

広平親王の母は大納言・藤原元方(ふじわら もとかた)の娘。

元方は細々と生き残っていた藤原南家のながれで本流の藤原北家ではない。

二人は同じ年に生まれたが、藤原実頼・師輔兄弟が次男の憲平親王を皇太子にした。

師輔の子孫たちが摂関政治の絶頂期を作る

天皇に嫁を出し、内親王を嫁にもらう師輔の子どもたちは将来、摂関政治の絶頂期を作る主人公になっていきます。

長男藤原伊尹
(これただ)
次男藤原兼通
(かねみち)
三男藤原兼家
(かねいえ)
九男藤原為光
(ためみつ)
母は雅子内親王
十一男藤原公季
(きんすえ)
母は康子内親王

これらの5人の子どもは太政大臣までなりました。ここまで出世する息子を育てた人は歴代の藤原氏でも師輔ただひとりです。

藤原氏の摂関政治の絶頂期の主役・藤原道長(みちなが)は兼家の子。

摂関政治は絶頂期を迎えるが、師輔の子、孫たちは家族同士で激しい摂政・関白の争奪戦をくり広げる。

内部抗争が中心になっていくので藤原氏は流派が別れていき、五摂家へとつながる。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

また、院政期に天皇の嫁の実家として遠ざけられた道長の子孫たちに代わり、公季の子孫が天皇に嫁に出す家になっていき、勢力を拡大する。

この公季の子孫たちを藤原氏の閑院流(かんいんりゅう)という。

院政期の天皇は閑院流の母をもった人が多い。

貴族の一大勢力、村上源氏の生みの親

村上天皇は上皇になることなく在位中に亡くなります。22年の在位で42才でした。

摂関政治は若くして退位がスタンダードですが、天皇親政だったので平安時代では珍しい終わり方。

その村上天皇の子孫たちはがんばります。村上天皇の息子のひとり、具平親王(ともひら)の長男から臣籍降下して源氏になりました。

源師房(みなもと もろふさ)。右大臣にまでなる。)

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。

これが村上源氏の始まり。これまでも、平安時代の天皇たちから多くの源氏が出ていました。源氏の大量生産期といってもいいほど。

源氏大量生産の終わり。

その流れで村上源氏も始まりました。しかし、源氏の大量生産は村上源氏で終わります。

このあとの天皇からも源氏は出てきますが、明らかに出世していません。貴族の一大勢力の源氏は、第52代 嵯峨天皇から村上天皇までにできた源氏に限られます。

その源氏勢力を潰したのが絶頂期を迎える藤原北家。結果を見ると分かりやすいです。

村上天皇以前は、左大臣・右大臣になる源氏は数え切れないほどいるのに、その後の源氏は出世するどころか、貴族として残るのもほとんどいません。

そもそも、天皇の子孫が源氏になることが急激に減っていきます。

藤原北家のライバルになる貴族を作りたくない藤原氏の力が働いているのがもろバレ。

源氏の第1世代は天皇の孫(たまに子)なので、下っ端の役人から始めることはなかった。

将来の出世が約束されたのが源氏だから。藤原氏にとっては面倒な連中になる。

源氏貴族の最後の砦

歴史の結果から言うと、上流貴族の源氏で最後まで残ったのは村上源氏です。というか上流貴族の源氏は村上源氏だけといっていい。

絶頂期を迎えた藤原氏からあとの上流貴族は藤原氏、というイメージが強いですが、その影で村上源氏は最後まで残りました。

村上源氏も藤原氏と同じように大量の分家を作っていったので知られていませんが、明治になってもかなりの数の村上源氏が上流貴族でした。

明治維新の立役者・岩倉具視(いわくら ともみ)も村上源氏です。ということは、歌手・加山雄三も村上源氏の末裔。

(敬称略)

源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)

天皇の子孫の氏族の源氏には21の系統がある。その総称。

天皇の息子・孫を臣籍降下して民間人にするのに源(みなもと)姓は多く使われ、第52代 嵯峨天皇の息子から始まる。

平安時代の初期から中期にかけて、天皇は源氏を作るのが常識なほど一番多く作られた。

ペースは徐々に落ちていくが、戦国時代の第106代 正親町天皇の系統が江戸時代初期に作られたのが最後。

1第52代 嵯峨天皇嵯峨源氏
(さが)
最初は、左大臣・右大臣など、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。
徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなる。

渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など知る人ぞ知る武士に残った程度。
2第54代 仁明天皇仁明源氏
(にんみょう)
嵯峨源氏と同じく、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。

仁明源氏の中から平氏に枝分かれしたのもいる。
仁明平氏

徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。
3第54代 文徳天皇文徳源氏
(もんとく)
前例と同じく藤原氏と並ぶ政治家一門だった。
徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。
4第56代 清和天皇清和源氏
(せいわ)
政治家としてはパッとしない。
国司や軍事専門の地方役人などに多くの人を輩出する。

それらが武士となり、日本最高の武家一門に成長する。
源頼朝、足利高氏など有力武将は数知れず。

貴族としては公卿にギリギリ滑り込んだ程度。
唯一残っていた竹内家がつづき明治に華族になった。

21の源氏の中でもっとも有名になった家。

村上源氏以外でただひとり、足利義満が太政大臣になった。
5代57代 陽成天皇陽成源氏
(ようぜい)
多くの公卿を輩出する政治家一門だったが、これまでの源氏と比べ見劣りする。
その後も目立った貴族、武士などはいない。
6代58代 光孝天皇光孝源氏
(こうこう)
最初は、中納言を輩出するなど政治家一門だったがフェードアウト。

その中でひとり、康尚(こうしょう)が仏師になり日本仏教彫刻の最大勢力、慶派(けいは)を作っていく。
鎌倉時代の有名な彫刻家、運慶湛慶(うんけい・たんけい)もその子孫。

その他、数々の天才彫刻家は数知れず。
慶派は幕末の動乱まで仏師の主流だった。
(日本の彫刻界の中心だったと言ってもいい。)
7第59代 宇多天皇宇多源氏
(うだ)
最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。

鎌倉時代には綾小路家・大原家など公卿の中堅に多くを出した。
明治になると多くが華族になる。

佐々木氏など有力武士も多いが天下取りを争うほどではない。
8第60 醍醐天皇醍醐源氏
(だいご)
最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。
その後、貴族ではあったが地下家(じげけ)で上流貴族になれていない。

地方に散らばり武士になった人も多いがメジャーではない。
9第62代 村上天皇村上源氏
(むらかみ)
多くの源氏が朝廷でフェードアウトする中、最後まで上流貴族を保った。
(天皇の子孫の意地を見せた。)

藤原氏にかくれているが、貴族の源氏と言えば村上源氏というくらいの勢力。

源氏で最大の3人の太政大臣を出す。

明治維新の岩倉具視(いわくら ともみ)を出した。
武士では北畠氏(きたばたけ)を出した。
10第63代 冷泉天皇冷泉源氏
(れいぜい)
作られた当初から存在感がない。
本当にあったのか? と思うほど。
11第65代 花山天皇花山源氏
(かざん)
ギリギリ上流貴族の半家に白川伯王家(しらかわはくおう)が残っただけ。
1家で頑張ってきたが昭和になって断絶した。
12第67代 三条天皇三条源氏
(さんじょう)
貴族では最初からパッとしない。
僧侶や天皇の妻などになり目立たない。
13第71代 後三条天皇後三条源氏
(ごさんじょう)
ひとりだけ源氏になった源有仁(みなもと の ありひと)は左大臣までなったが後継者がいなくて断絶。

武士の中には後三条源氏を名乗るものがいたが自称の可能性が高い。
14第77代 後白河天皇後白河源氏
(ごしらかわ)
反平家の挙兵をした以仁王(もちひとおう)ひとりだけ。

皇籍を剥奪され懲罰で源氏になった。
討伐軍に追われて戦死。
15第84代 順徳天皇順徳源氏
(じゅんとく)
ひとり左大臣を出した。
室町幕府 第3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)のときに最後の一人が出家してしまい断絶。
16第88代 後嵯峨天皇後嵯峨源氏
(ごさが)
源惟康(みなもと の これやす)ひとりだけ。
鎌倉幕府 第7代 征夷大将軍になる。

親王のままの将軍は都合が悪いから源氏になった可能性が高い。
17第89代 後深草天皇後深草源氏
(ごふかくさ)
鎌倉幕府 第8代 将軍・久明親王(ひさあきら)の孫が源氏になる。

大納言にまでなったがあとが続いていない。
18代90代 亀山天皇亀山源氏
(かめやま)
特筆する人はない。
19第84代 後二条天皇後二条源氏
(ごにじょう)
特筆する人はいない。
20第96代 後醍醐天皇後醍醐源氏
(ごだいご)
後醍醐天皇の孫が源氏になったと言われるが、詳細がない。
(信憑性はないかも?)

武家の大橋氏、神社を代々守る社家の氷室氏など末裔を名乗る氏族はいる。
21第106代 正親町天皇正親町源氏
(おおぎまち)
正親町天皇は織田信長・豊臣秀吉のころの天皇だが、江戸時代にその子孫が源氏になる。
広幡家(ひろはた)

摂関家に次ぐ清華家になるなど格別の待遇を受けた。
明治になると華族になる。

源氏として活躍したのは平安中期までに作られた源氏で、村上源氏で勢いは止まる。

その後は活躍する人が出ていない。鎌倉時代は幕府の将軍が大きく関係している。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。

貴族の家格(かかく)

平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。

(主に藤原氏と天皇の子孫の源氏

鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。

1摂関家
(せっかんけ)
摂政関白太政大臣になる。
五摂家。
すべて藤原北家の流れ。
2清華家
(せいがけ)
摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。

江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。
(江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。)

三条(さんじょう)
西園寺(さいおんじ)
徳大寺(とくだいじ)
久我(こが)
花山院(かざんいん)
大炊御門(おおいのみかど)
菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ)
の7家。

久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。
村上源氏

ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。

江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。
広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏
醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。
3大臣家
(だいじんけ)
清華家の分家。
摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。
大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。
(まれに右大臣になる人もいた。)

太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。

正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが)
-> 三条家の分家。藤原氏。

三条西(さんじょうにし)
-> 正親町三条の分家。藤原氏。

中院(なかのいん)
-> 久我の分家。村上源氏。

の3家。
4羽林家
(うりんけ)
近衛少将・中将になる。
参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。

軍事を担当する。
江戸時代には大名家に与えられた。

藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家)
藤原南家: 4家
村上源氏: 8家(久我の分家)
宇多源氏: 3家

数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。
4名家
(めいけ / めいか)
序列は羽林家と同じ。
最高位も同じで大納言
(例外で左大臣になる人もいた。)

天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。
羽林家は武門に対して名家は文官。

藤原北家: 25家
桓武平氏: 3家

平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。
5半家
(はんけ)
大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。
(上流貴族でも政権中枢に入れない)

特殊技能を使って朝廷の仕事をした。

藤原北家: 2家
清和源氏: 1家
宇多源氏: 2家
花山源氏: 1家
桓武平氏: 2家
菅原氏(すがわら): 6家
清原氏(きよはら): 3家
大中臣氏(おおなかとみ): 1家
卜部氏(うらべ): 4家
安倍氏(あべ): 2家
丹波氏(たんば): 1家
大江氏(おおえ): 1家

いろいろな氏族が入っている。
菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。

清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。

大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。
古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。

卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。

安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。
(神話の話で信憑性も薄い。)

安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。
陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。

丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。
医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。

大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。
土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。
(ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。)

上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。
堂上家

表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。

堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。

堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。

また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。

これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。

正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
堂上家無条件に清涼殿への出入りが許される。
政権中枢の人しかいない。

今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
殿上人本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。
実態は堂上家が認め天皇が追認。

この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。

今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。

正六位上
以下
地下家清涼殿への出入りが許されない。
位階と家柄

朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。

位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

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