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第60代 醍醐天皇 民間人から天皇になった男

醍醐天皇肖像画

歴代天皇 - 藤原氏に権力を委ねた天皇たち -

醍醐天皇(だいご)は歴代天皇の中でただひとり民間人出身の天皇です。

父の宇多天皇(うだ)が民間人だったので、そのときに生まれたのが醍醐天皇でした。

生まれたときは親王でなければ皇子でもありません。その一民間人が天皇になります。

中世 平安時代 - 中期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 885年1月18日 ~ 930年9月29日
    元慶9 ~ 延長8
    46才
  • 在位
  • 897年7月3日 ~ 930年9月22日
    寛平9 ~ 延長9
    34年
  • 名前
  • 敦仁
    (あつぎみ)
  • 別名
  • 維城
    (これき。初名)

    金剛宝
    (こんごうほう)

    延喜帝
    (えんぎてい)

  • 藤原胤子
    (ふじわら いんし / たねこ)

    藤原高藤の娘
    (ふじわら たかふじ)

  • 皇后
  • 藤原穏子
    (ふじわら おんし / やすこ)

    藤原基経の娘
    (ふじわら もとつね)

  • その他

醍醐天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

どうやって民間人から天皇になったのか?

醍醐天皇は生まれたとき皇族ではありませんでした。

父は第59代 宇多天皇で一時期、第58代 光孝天皇の意向で皇族をはなれ民間人でした。そのときは源定省(みなもと の さだみ)と名乗ります。

(光孝天皇は宇多天皇の父で醍醐天皇のお祖父ちゃん。)

この民間人のときに生まれたのが醍醐天皇でした。そのときの名前は源維城(みなもと の これざね)です。

両親が皇族でない人が天皇になったのは、歴代天皇で醍醐天皇だけ。

ちなみに、醍醐天皇のおじいちゃん・光孝天皇は、たくさんの子どもがいてそのほとんどを民間人にしちゃった人です。

(大量の光孝源氏が生まれた。)

民間人になった定省は天皇の父に仕えて支えました。その仕事っぷりと人格が認められて、たった3年で皇族に復帰して皇太子になり即位します。

父が皇族に復帰するのといっしょに醍醐天皇も親王として復帰しました。名前も敦仁親王(あつぎみ)に変わりました。

じゃあ最初っから民間人にするなよ!っていう話です。

皇位継承の迷走

醍醐天皇のお祖父ちゃん・光孝天皇も天皇になるはずはありませんでした。

その前の第57代 陽成天皇(ようぜい)がおイタな人で、天皇をクビになったのでピンチヒッターで即位します。

自分の子どもたちをどんどん民間人にしたのは、自分は傍流で次は嫡流に皇統を返そうと思っていたからでした。

(嫡流は第56代 清和天皇の息子たち)

がそれは、光孝天皇を即位させた関白太政大臣藤原基経(ふじわら もとつね)が難色を示したので、自分の息子を皇太子にして宇多天皇が即位しました。

父が即位したあと、891年、敦仁親王は皇太子になります。

897年、13才のとき、父が退位して醍醐天皇が即位します。ついに民間人に生まれた源維城が天皇になりました。

醍醐天皇は、基経がNoと言わなければ光孝源氏として生きていくはずでしたが、まったく別の人生のはじまります。

醍醐天皇は官僚人生を歩むはずだった。左大臣・右大臣になる可能性もあった。

最初は宇多天皇のつづき

醍醐天皇は即位したとき13才だったので、実際は父・宇多法皇が実権をもっていました。院政みたいなもの。

(宇多上皇は出家して法皇になっていた。しかもまだ33才で若い。)

そこで、政権も法皇が用意してあげます。

宇多天皇の最側近、菅原道真をそのまま置き、その上に成長した藤原時平を置きました。

左大臣藤原時平
(ふじわら ときひら)
右大臣菅原道真
(すがわら の みちざね)

(時平は摂政関白太政大臣を歴任した藤原基経(ふじわら もとつね)の息子。)

関白・太政大臣はいません。宇多天皇は摂関政治を止めて天皇親政をしたので、それを息子にもつづけてほしかったのでしょう。

政権トップは左大臣の時平です。時平はくやしかったでしょうね? 関白・太政大臣になれなくて。

少年の醍醐天皇は勉強熱心で、法皇の言うことも素直に聞いていたそう。

自分を出したくて反抗期突入

ここでだまっている藤原時平ではありません。まだ20代後半のエネルギッシュな時平は、すでに55才になっていた菅原道真がうっとうしくなります。

経験、法皇からの信頼、役職以外はすべて上だったのでよけいに。

そして、醍醐天皇も同じで世代間ギャップがありました。醍醐天皇の皇后・穏子(おんし)は時平の妹です。時平は天皇の義理の兄でした。

天皇からするといろんな意味でアニキ的存在なので意見も合います。もしかすると道真はオヤジがつけた目付役に見えていたでしょう。

そんなとき事件が起きます。

菅原道真を左遷

藤原時平は、菅原道真に対する誹謗中傷をくり返しました。901年1月、道真が天皇の弟・斉世親王(ときよ)を天皇にして醍醐天皇をクビにしようとしているという情報を流します。

(もちろんウソ。)

それに醍醐天皇はブチ切れました。斉世親王には道真の娘が嫁いでいたので信じたのでしょう。

(すでに道真とは対立していてクーデターとでも思ったか?)

道真を太宰権師(だざいごん の そつ。太宰府の長官)にして九州に左遷、道真の子どもたちを全員クビにしました。

それを聞いた宇多法皇は説得しようと宮中へ行こうとしますが、醍醐天皇は会おうともしません。

宇多法皇の影響力はなくなり、醍醐天皇は自分で政治を行おうとします。そこで頼りにしたのが時平。

時平がひとりで政治のすべてを引き受けることになりました。

斉世親王のその後は出家して、父・宇多法皇が住んでいた仁和寺に引っ込んだ。

延喜の治(えんぎのち)

醍醐天皇はただの反抗期ではありません。後世に語り継がれるほどの改革をどんどん実行していきます。

荘園整理令の発布力さえあれば私有地(荘園)をどんどん増やせるのを抑える政策。
不正が横行していた。
延喜格式いわゆる憲法改正。法律の制定・改訂。
『日本三大実録』の編纂六国史(りっこくし)に数えられる正史を作る。
格式(きゃくしき)

律令(憲法みたいなもの)を修正・加筆・削除したり、詳細を明文化した法令集。

格と式に分かれる。

格(きゃく)

律令の修正・加筆・削除の法令。(補助法令)

式(しき)

律令・格を施行するときの細かいルール。

三大格式(さんだいきゃくしき)

平安時代に行われた代表的な律令の改訂。(養老律令の改訂)

格式天皇編纂者
弘仁格式
(こうにん)
第52代 嵯峨天皇藤原冬嗣
(ふじわら ふゆつぐ)
貞観格式
(じょうがん)
第56代 清和天皇藤原氏宗
(ふじわら うじむね)
延喜格式
(えんぎ)
第60代 醍醐天皇藤原時平
(ふじわら ときひら)

改訂作業はこれ以外にも行われた。目立たないだけで。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

また、紀貫之(き の つらゆき)に初の勅撰和歌集『古今和歌集』(こきんわかしゅう)を作らせました。

これらの政策は天皇親政の教科書とも言われるくらいで、室町時代の第96代 後醍醐天皇も参考にしました。

(だから後醍醐天皇。)

醍醐天皇のこれらの治世を『延喜の治』と言います。平安時代の有名な政治改革のひとつ。

強大な怨霊に呪われて死亡

菅原道真は左遷された九州で悔しい思いをしながら亡くなりました。そのあと不幸なことがつづきます。

39才の若さで左大臣・藤原時平が亡くなる。
21才の若さで皇太子・保明親王(やすあきら)が亡くなる。
皇太孫・慶頼王(よしよりおう)が5才で亡くなる。

皇太孫は皇太子の孫バージョン。
皇太子の急死で次期天皇に指名されていた。

醍醐天皇が指名した次期天皇がなぜか亡くなってしまいます。こんなことは歴代天皇の中でほかにいません。

みな、道真が怨霊になったからだと恐れました。923年、道真の怒りを鎮めるために右大臣に戻します。

(もちろん死んでいるので名誉回復の意味。)

が時すでに遅し。宮中に雷が落ちて公卿(くぎょう)が数人焼け死ぬという大惨事まで起きました。

(公卿は政権中枢の貴族のこと。)

同じ年、醍醐天皇の体調がだんだん悪くなっていき、終わりを悟ったのか寛明親王(ゆたあきら。次の朱雀天皇)に皇位を譲って7日後に亡くなります(46才)。

こうも不幸がつづくと、菅原道真の怨霊に呪い殺されたと言われて、さもありなん。

(怨霊の祟りは次の朱雀天皇のときもつづく。)

清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)は今でいうと、首相官邸で会議をするため閣僚が集まっているときに雷が落ちて死人が出たようなもの。

亡くなった人には政権ナンバー3の大納言・藤原清貫(ふじわら きよつら)もいた。

清貫は左遷された菅原道真の動向を探るスパイをしていたとされ、それが道真怨霊の噂の大元になった。

天満宮(てんまんぐう)は怨霊を鎮めるための神社

日本全国に天満宮と言われる神社はたくさんあります。この神社に祀られているのは菅原道真。

天満宮はもともと強大な怨霊になってしまった道真を鎮めるために作られました。

いまでは学問の神さま(天神さま)と言われますが、これはあと付け。道真が優秀な学者だったことから言われるようになりました。

天神さまは本当は受験生を守ってくれる優しい神さまではなく、恐ろしい怨霊の神さまです。なにせ三大なので。

から雷を落としたさま。)

日本三大怨霊

菅原道真

平将門(たいら の まさかど)

第75代 崇徳天皇

平将門は次の朱雀天皇のときに怨霊になる。道真の祟りのつづきにも見える。

天満宮は日本全国にたくさんあります。その中でも総本山とされているのが京都にある北野天満宮(きたのてんまんぐう)。

また、道真が亡くなった場所にある太宰府天満宮も総本山と同じ扱いにされることがあります。

総本山が二つある神社はめずらしい。それだけ怨霊が強烈だったということか?

結果的に摂関政治をパワーアップさせる

醍醐天皇の治世は天皇親政で後世の人もその評価をしています。が一方で、摂関政治、藤原北家がパワーアップするきっかけも作っています。

これがなかったら藤原最強はあったのか怪しいくらいのことが。

藤原出身の皇后が復活

第51代 平城天皇のチョンボで、60年間、藤原氏から皇后は出せませんでした。

系図を見れば分かりますが、それでも天皇の妻に藤原氏(北家が主)からコンスタントに出しています。

そして天皇の母も藤原氏でした。天皇家と一体になってるくらい。

(おばあちゃん、ひいおばあちゃんも藤原氏。)

醍醐天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

そんな藤原出身の妻は、天皇の妻の最高ランク、皇后・后妃になれてません。天皇家の一員でも天皇の妻として信用されてませんでした。

醍醐天皇からそれが変わります。醍醐天皇の皇后・穏子(おんし)は藤原氏の長者の出身です。60年ぶりに藤原氏出身の皇后が復活しました。

藤原氏の信頼を落としたのが没落した藤原式家だったのと、半世紀もすぎると天皇家の一員として頑張ってきたので、もういいだろうになったのでしょう。

皇族出身を超える藤原氏出身の妻

それだけなら納得です。しかしこれだけではありません。醍醐天皇にはもうひとり妻がいました。叔母さんの為子内親王(ためこ)です。

為子内親王はもうひとつの最高ランクの妻・后妃で正室ですが、皇后がいるときは『もうひとりの正室』になります。若干、皇后よりランクは低い。

これまでの歴代天皇では絶対にありえないことでした。天皇の妻は、

皇族出身

遠縁の皇族

有力豪族出身

その他

でランクが決まっていました。

遠縁の皇族と有力豪族出身の順番は微妙ですが、少なくとも皇族の中の皇族、内親王と有力豪族では雲泥の差がありました。

醍醐天皇の妻はそれが逆転しています。為子内親王は天皇の子で天皇の妹、そして天皇の妻なのに。

藤原氏と天皇家の一体化が進んで、内親王と家族の藤原氏の娘は同じ身内に見えたのかも知れません。

穏子が皇太子を産んだのが決定打になったと言いたいところですが、これまでは、内親王の皇后以外の妻に皇太子が生まれても妻ランクが逆転することはありませんでした。

内親王の皇后はあくまで皇后。皇太子を産んだそれ以外の妻は最上位でも后妃。

この大きな変化はデカい。

内親王より藤原氏出身の天皇の妻のランクが上になるのは初。

天皇の妻の序列が変わった。

摂関政治を完成させた藤原忠平の登場

藤原忠平(ふじわら ただひら)は、摂政関白太政大臣を歴任する家に生まれたサラブレッドです。

おじいちゃんの良房(よしふさ)は初めて臣下で摂政(人臣摂政)になり、初めて臣下で太政大臣になりました。

父・基経(もとつね)は、摂政・太政大臣にくわえ関白にもなった初めての人です。

兄・時平(ときひら)は呪われて死ななければ、天皇親政でなければ同じようになっていたでしょう。

そんな家に生まれた忠平が、兄・時平が亡くなったあと醍醐天皇のもとで猛烈に出世して右大臣になり左大臣になります。

忠平は醍醐天皇にものすごく頼りにされていました。性格がガツガツ行くタイプでなく、温厚でそれでいてものすごく優秀だったから。

この絶大な信頼を得た忠平が摂関政治のベースを完成させます。天皇親政のために一生懸命に働いた人が天皇親政を壊すものを完成させたという皮肉な話。

藤原忠平は、天皇家と一体化していた藤原北家の本流だったことも大きい。

忠平は醍醐天皇の義理の兄で、時平よりも醍醐天皇と年が近い。もっと身近なアニキだった可能性がある。

天皇だって他人より家族を信じるのはあたり前。

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第71代 後三条天皇 摂関政治を壊した先駆者
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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。


天皇の本10選

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