歴代天皇 - 伝承上の天皇 -
綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)、 開化(かいか)。
第2代~第9代、8人の天皇は実在が確認されてない伝承上の天皇です。欠史八代(けっしはちだい)といいます。
これに初代 神武天皇(じんむ)を加えた9人の天皇が神話の世界、フィクションと言われ、実在が確認されているのは第10代 崇神天皇(すじん)からです。
先史 神話の時代 - 人代(ひとのよ) -
欠史八代(けっしはちだい)とは
第2代から第9代の8人の天皇は、歴史の資料があまりにも少なく実在が疑われている天皇です。
例えば『古事記』では、親が〇〇で、皇后が〇〇で、息子が〇〇で、〇〇才で崩御した程度の情報しかありません。
崩御(ほうぎょ)
死亡の最高の敬語。
日本では天皇・皇后、その経験者が亡くなると使われる。
あとは御陵の場所と都を〇〇へ遷したという情報くらい。
ものすごくあっさりしています。書かれた内容も歴史の事実として証明されていません。あくまでこう言われているよ? というもの。
天皇が何をしたかのエピソードについてはまったくありません。
だから『歴史が欠けた8代の天皇』で欠史八代と呼ばれます。
日本だけでなく中国の歴史書にも登場する、実際に外交の記録があるなどから第21代 雄略天皇から実在したという説もある。
(むしろ有力視されている。)
また、このあたりの天皇は異常に寿命が長い。
アクシデントがないかぎり100才以上はあたりまえで、それが普通。
存在はともかく、年齢は確実にウソでしょう。
これらから、欠史八代だけでなく第20代までフィクション・神話とも言われる。
じっさい欠史八代のあとも、神様が人間のように登場したりして神がかり的なことも多い。
第2代 綏靖天皇(すいぜい)
- 皇居
- 葛城高丘宮
(かずらきのたかおかのみや)
- 生没年
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
神武天皇29年?月?日 ~ 綏靖天皇33年5月10日
45 ? or 84 ? 才
- 在位
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
綏靖天皇元年1月8日 ~ 綏靖天皇33年5月10日
33 ? 年
- 名前
- 神渟名川耳尊
(かんぬなかわみみのみこと)
- 父
- 初代 神武天皇
(じんむ)
- 母
姫蹈鞴五十鈴媛命
事代主神の娘
(ひめたたらいすずひめのみこと)
(ことしろぬしのかみ)
- 皇后
五十鈴依媛命
母の妹
(いすずよりひめのみこと)
(伯母)
初代 神武天皇の死後
綏靖天皇の即位までには兄弟間の後継争いがありました。その中心人物が神武天皇の九州時代からの妻とのあいだに生まれた長男です。
この長男は後継ぎになるため、父の皇后(奈良に落ち着いてからの妻)に言い寄り自分の妻にしました。そして、皇后の息子3人(長男からすると義弟)を殺そうとします。
それを知った皇后は歌にのせて3人の息子に知らせ、それを聞いた義弟3人は逆に義兄を殺すことを決意します。
殺害決行のとき、直前になって3兄弟の長兄はビビッてフリーズ。そこで殺害を実行したのは3兄弟の次男です。
この弟が天皇にふさわしいとして即位しました。綏靖天皇です。
綏靖天皇の御陵は、神武天皇陵の北にある衡田(つきだ)の岡(奈良県橿原市四条町)にあります。
綏靖天皇は天照系と出雲系の両血統が入っている
綏靖天皇の母は事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘で、事代主は出雲のカミ・大国主命(おおくにぬしのみこと)の子どもです。
綏靖天皇の母方の祖父・大国主は出雲のカミで、出雲大社の主祭神として祀られています。
これには、父・神武天皇がカミの時代から対立していた天照系と出雲系を和解させ統合したというメッセージがあり、綏靖天皇はそのシンボルです。
アマテラスは天上界、スサノオは地上界を統治したカミで、綏靖天皇は天と地の統合のシンボルにもなっている。
第3代 安寧天皇(あんねい)
- 皇居
- 片塩浮孔宮
(かたしおのうきあなのみや)
- 生没年
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
綏靖天皇5年?月?日 ~ 安寧天皇38年12月6日
49 ? or 57 ? 才
- 在位
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
綏靖天皇33年7月15日 ~ 安寧天皇38年12月6日
38 ? 年
- 名前
- 磯城津彦玉手看尊
(しきつひこたまてみのみこと)
- 父
- 第2代 綏靖天皇
(すいぜい)
- 母
- 五十鈴依媛命
(いすずよりひめのみこと)
- 皇后
渟名底仲媛命
鴨王の娘
(ぬなそこなかつひめのみこと)
(かものきみ)
綏靖天皇の第1皇子として生まれ21才で皇太子になったそうです。8年後、綏靖天皇が亡くなると即位しました。
そして、都を葛城高丘宮から片塩浮孔宮に遷しました。片塩の所在地は意見が分かれていて、河内、大和などと言われます。
安寧天皇の御陵は、畝傍(うねび)山の南くぼみ(奈良県橿原市吉田町)にあります。
第4代 懿徳天皇(いとく)
- 皇居
- 軽曲峡宮
(かるのまがりおのみや)
- 生没年
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
綏靖天皇29年?月?日 ~ 懿徳天皇34年9月8日
45 ? or 77 ? 才
- 在位
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
懿徳天皇元年2月4日 ~ 懿徳天皇34年9月8日
34 ? 年
- 名前
- 大日本彦耜友尊
(おおやまとひこすきとものみこと)
- 父
- 第3代 安寧天皇
(あんねい)
- 母
- 渟名底仲媛命
(ぬなそこなかつひめのみこと)
- 皇后
天豊津媛命
息石耳命の娘
(あまとよつひめのみこと)
(おきそみみのみこと)
安寧天皇の第2皇子として生まれ16才で皇太子になったそうです。27年後に安寧天皇が亡くなると即位しました。
懿徳2年、都を軽の曲峡宮に遷します。軽(かる)は古代には知られた地名で第8代 孝元天皇のときも都でした。奈良県橿原市大軽町あたりです。
懿徳天皇の名には耜(すき)という農具を表す文字が入っているので、農業にかかわりの深い天皇だったのでは? と言われます。
懿徳天皇の御陵は、畝傍山の南の繊沙谿上陵(まなごのたにのかみのみささぎ)(奈良県橿原市池尻町)にあります。
第5代 孝昭天皇(こうしょう)
- 皇居
- 掖上池心宮
(わきのかみのいけごころのみや)
- 生没年
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
懿徳天皇5年?月?日 ~ 孝昭天皇83年8月5日
93 ? or 113 ? 才
- 在位
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
孝昭天皇元年1月9日 ~ 孝昭天皇8年5月8日
83 ? 年
- 名前
- 観松彦香殖稲尊
(みまつひこかえしねのみこと)
- 父
- 第4代 懿徳天皇
(いとく)
- 母
- 天豊津媛命
(あまとよつひめのみこと)
- 皇后
世襲足媛命
瀛津世襲の妹
(よそたらしひめのみこと)
(おきつよそ)
懿徳天皇の皇子として生まれ18才で皇太子になったそうです。12年後に懿徳天皇が亡くなると即位しました。
即位した年の7月、都を掖上(わきのかみ)の池心宮(いけごころのみや)に遷しました。奈良県御所市池之内のあたりです。
孝昭29年に皇后を迎え、皇后は天足彦国押人尊(あめたらしひこくにおしひとのみこと)と日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにのみこと)を産みました。
2人の皇子の名前にある『たらしひこ』は流行りのカッコいい名前だったようで、このように呼ぶ習わしがあったみたいです。
最上級の『太郎』みたいなものでしょう。
孝昭天皇の御陵は、掖上の博多山の上(奈良県御所市三室)にあります。
第6代 孝安天皇(こうあん)
- 皇居
- 室秋津島宮
(むろのあきづしまのみや)
- 生没年
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
孝昭天皇49年?月?日 ~ 孝安天皇102年1月9日
123 ? or 137 ? 才
- 在位
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
孝安天皇元年1月7日 ~ 孝安天皇102年1月9日
83 ? 年
- 名前
- 日本足彦国押人尊
(やまとたらしひこくにのみこと)
- 父
- 第5代 孝昭天皇
(こうしょう)
- 母
- 世襲足媛命
(よそたらしひめのみこと)
- 皇后
押媛命
天足彦国押人尊の娘
(おしひめのみこと)
(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
孝昭天皇の息子として生まれ孝昭68年に皇太子になったそうです。15年後に孝昭天皇が亡くなると即位しました。
孝安2年、都を室(むろ)の秋津島宮(あきづしまのみや)に遷しました。奈良県御所市室あたりといわれます。
『日本書紀』では、皇后・押媛命は孝安天皇の姪で天皇の兄の娘ではないか? と書いています。
孝安天皇の御陵は、玉手の丘の上(奈良県御所市玉手)にあります。
第7代 孝霊天皇(こうれい)
- 皇居
- 黒田庵戸宮
(くろだのいおどのみや)
- 生没年
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
孝安天皇51年?月?日 ~ 孝霊天皇76年2月8日
116 ? or 128 ? 才
- 在位
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
孝霊天皇元年1月12日 ~ 孝霊天皇76年2月8日
76 ? 年
- 名前
- 大日本根子彦太瓊尊
(おおやまとねこひこふとにのみこと)
- 父
- 第6代 孝安天皇
(こうあん)
- 母
- 押媛命
(おしひめのみこと)
- 皇后
- 細媛命
(ほそひめのみこと)
磯城県主大目の娘
(くわしひめのみこと)
(しきのあがたぬしおおめ)
孝安天皇の皇子として生まれ、孝安76年に皇太子になったそうです。
26年後に孝安天皇が亡くなってもすぐには即位せず、都を黒田庵戸宮へ遷してから即位しました。奈良県磯城郡田原本町の黒田、宮古あたりです。
孝霊天皇の御陵は、片岡の馬坂の上(奈良県北葛城郡王寺町本町)にあります。
桃太郎のお父さん
孝霊天皇には、側室との間に『四道将軍』のひとりで桃太郎伝説のモデルになった吉備津彦命(きびつひこのみこと)が生まれています。
また、『三輪山伝説』に登場する倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は孝霊天皇の娘です。
百襲姫は有名な箸墓古墳(はしはかこふん)の主で、女王・卑弥呼と同一視される説があるほど、シャーマニズムの能力がずば抜けた巫女。
シャーマニズム(Shamanism)
宗教のひとつのかたち。
神のお告げや占い・呪術で悩みや未来の不安を解決する。これを行なう人をシャーマンという。
日本の土着宗教・神道もシャーマニズム。巫女、イタコ、陰陽師は日本のシャーマン。
日本人の占い好きはシャーマニズムの影響。
第8代 孝元天皇(こうげん)
- 皇居
- 軽境原宮
(かるのさかいはらのみや)
- 生没年
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
孝霊天皇18年?月?日 ~ 孝元天皇57年9月2日
57 ? or 116 ? 才
- 在位
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
孝元天皇元年1月14日 ~ 孝元天皇57年9月2日
57 ? 年
- 名前
- 大日本根子彦国牽尊
(おおやまとねこひこくにくるみのみこと)
- 父
- 第7代 孝霊天皇
(こうれい)
- 母
- 細媛命
(ほそひめのみこと)
- 皇后
鬱色謎命
鬱色雄命の妹
(うつしこめのみこと)
(うつしおのみこと)
孝元天皇の皇子として生まれ、19才で皇太子になったそうです。40年後に孝元天皇が亡くなると即位しました。
孝元4年、都を軽の境原宮に遷します。奈良県橿原市大軽町あたりです。この地は第4代 懿徳天皇も都にしました。
皇后との間に、『四道将軍』のひとり、大彦命(おおひこのみこと)や次の開化天皇が生まれています。
側室との間にもうけた彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、武内宿禰のお祖父ちゃんです。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
孝元天皇の御陵は剣の池の嶋の上(奈良県橿原市石川町)にあります。
第9代 開化天皇(かいか)
- 皇居
- 春日率川宮
(かすがのいざかわのみや)
- 生没年
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
孝元天皇7年?月?日 ~ 開化天皇60年4月9日
63 ? or 111 ? 才
- 在位
- ?年?月?日 ~ ?年?月?日
孝元天皇57年11月12日 ~ 開化天皇60年4月9日
60 ? 年
- 名前
- 稚日本根子彦大日日尊
(おおやまとねこひこおおひひのみこと)
- 父
- 第8代 孝元天皇
(こうげん)
- 母
- 鬱色謎命
(うつしこめのみこと)
- 皇后
伊香色謎命
大綜麻杵の妹
(いかがしこめのみこと)
(おおへそき)
孝元天皇の皇子として生まれ、16才で皇太子になったそうです。35年後に孝元天皇が亡くなると即位しました。
開化元年、都を春日の率川宮に遷します。奈良県本子守町率川あたりです。
皇后の伊香色謎命は、次の天皇になる崇神天皇を産みますが、もともとは開化天皇の父・孝元天皇の妃だった人です。開化天皇は父の妻を皇后にしました。
欠史八代の最後の天皇ですが、実在が確認されている崇神天皇の父親なので、伝承と歴史をつなぐキーパーソンとして実在したんじゃないかとも言われます。
(それを言い始めたら全員実在することになるんじゃね? ...個人的な感想。)
開化天皇の御陵は、率川の坂の上(奈良県奈良市油阪町山之寺)にあります。