歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
欽明天皇(きんめい)は、先代・先々代とちがって、早いうちから皇位を受け継ぐことが決まっていた正統な後継者です。
また、古墳時代の最大のターニングポイントで、あまりにもあとの時代に影響を与えすぎていて一言でおさまりません。
まずひとつ挙げると仏教伝来。できるかぎりひとつひとつ見ていきます。
先史・古代 古墳時代
- 皇居
磯城島金刺宮
(しきしまかなさしのみや)
- 生没年
- 509年 ~ 571年4月15日
継体天皇3 ~ 欽明天皇32
62才
- 在位
- 539年12月5日 ~ 571年4月15日
宣化天皇4 ~ 欽明天皇32
32年
- 名前
- 天国排開広庭尊
(あめくにおしはるきひろにわ の みこと)
- 父
第26代 継体天皇
(けいたい)
- 母
手白香皇女
(たしらか の ひめみこ)仁賢天皇の皇女
- 皇后
石姫皇女
(いしひめ の ひめみこ)宣化天皇の皇女
- 皇妃
蘇我堅塩媛
(そが の きたしひめ)蘇我稲目の娘
(そが の いなめ)
- 皇妃
蘇我小姉君
(そが の おあね の きみ)蘇我稲目の娘
- 妻
その他
傍系の終わり。直系の復活
欽明天皇は、アラフォーになるまで皇族でなかった安閑・宣化天皇とちがって、継体天皇と皇后の間に生まれた正真正銘の『正統な継承者』です。
にもかかわらず、年齢が若すぎて即位が先延ばしされてきました。
父・継体天皇が亡くなったとき | 22才。婿入りした安閑天皇が即位 |
兄・安閑天皇が亡くなったとき | 27才。婿入りした宣化天皇が即位 |
しかも、先代・宣化天皇が亡くなったとき欽明天皇は即位を断っています。(30才)
と臣下に言います。そして皇后のところに行くと、
といって断られます。こうしたすったもんだがあって欽明天皇は即位しました。
欽明天皇の前の3代はマスオさん天皇でした(入り婿)。その前にもマスオさん天皇がいたので、皇后の血統に頼った時代がつづきました。
欽明天皇から、皇后の血統(仁徳 - 武烈ライン)に頼らない直系が復活します。
エピソード・ポイント1
30才の皇子が若くて幼いから天皇はできないという感覚は、歴代天皇を見てもあまりありません。いまの感覚では立派な大人ですし。
それだけ当時の政治は、ちょっともめるとすぐに暗殺されるので大変だったのでしょう。みんなをまとめる実力が必要でした。
古代の天皇は即位の適齢期が35才という説があります。
武烈天皇の9才
欽明天皇の30才
の即位以外、古代の天皇の即位年齢は35才前後から上です。天皇は、おじさん・おばさん、おじい、おばあ。
古代は、見た目とか年とか『長老』らしくないと天皇になれなかったのでしょう。
エピソード・ポイント2
山田皇后は春日山田皇女のことで、仁賢天皇の皇女・安閑天皇の皇后です。
史上初の女帝になる推古天皇の60年前の話。すでに皇后が政治に参加していたのが分かります。というかマスオさんは政治でもそうで、じっさいは全部仕切っていたのかも。
欽明天皇が断りつづければ史上初の女帝になっていた可能性すらあります。
大昔の日本は女性リーダーが抵抗なくいました。これを見ると、今の日本人の感覚の方が後退しているようです。
大伴氏の衰退、蘇我氏の台頭
欽明天皇は、大伴金村(おおとも の かねむら)と物部尾輿(もののべ の おこし)を大連に、蘇我稲目(そが の いなめ)を大臣に任命します。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
尾輿はここでなぜか、15年も前の出来事を金村の責任として追求しました。
(朝鮮半島の任那4県を百済へゆずったことで、任那が弱体化し新羅に降伏したこと。)
金村は病気を理由に表に出なくなりました。結局そのまま失脚して大伴氏は衰退していきます。
ここから物部氏 vs 蘇我氏の権力闘争がはじまります。
新興勢力だった蘇我氏は、重鎮の大伴氏がうっとうしくてしょうがなかったのだろう。
蘇我氏はこの失脚に関わっていないが、あとの動きを見てると、記録に残らないところでいろいろやっていたか、あえてダンマリしていたのかも。
蘇我氏の天皇家への猛烈な食い込み
欽明天皇は皇后に宣化天皇の皇女を迎えます。そのほか二人の妃も宣化天皇の皇女。
欽明天皇は父が3代前の継体天皇で、母がさらに前の仁賢天皇の皇女。先代の宣化天皇とは父が同じですがそれ以外のつながりがありません。年も40才近くはなれています。
そこで皇后・妃を宣化系から迎えました。当時は皇位継承で争うと当たりまえのように殺し合いになるのでそれを防ぐため。
傍系で福井のオッサンがつづいた二人の兄に気を使ったのでしょう。
そしてもうひとつ、蘇我稲目の二人の娘を妃に迎えます。蘇我氏の血が本格的に天皇家に流れはじめました。
後の時代に蘇我氏の影響力が大きすぎて、蘇我系皇族と非蘇我系皇族の対立が起きる。
推古天皇は蘇我系天皇のクライマックス。
645年の乙巳の変も、長年の蘇我系・非蘇我系の対立が大きく関係しています。
蘇我入鹿(そが の いるか)の横暴が気に入らないという理由だけではありません。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
仏教伝来
日本への仏教伝来は朝鮮半島の情勢が大きく影響しています。
磐井の乱にあったように、朝鮮半島では新羅の力が強くなっていました。継体天皇のとき任那を降伏させます。
任那(みまな)
もともと朝鮮半島中南部に小国家群(馬韓)があり、3~6世紀中ごろは加羅(から)、もしくは伽耶(かや)と呼ばれた。
その一部にあった倭人の支配エリアを任那という。
任那は日本からみた呼び名で、加羅全体を指しているのか、倭人エリアだけを指しているのかよく分からない。
前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。
ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、任那の支配権をめぐって新羅や高句麗と対立したのが原因。
百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。
そして欽明天皇のときは百済に攻め込もうとしていました。そこで百済の聖明王はヤマトに助けを求めて、仏像・仏具・経論(お経が書かれた本)を欽明天皇に献上します。
そのとき朝鮮使者から仏教の話を聞いた欽明天皇は感動しました。そこで仏教を受け入れるかどうかをみんなに聞きます。
欽明天皇はどうしても受けれたかったのか、お試しで稲目に崇拝させてみます。すると疫病が流行っちゃいました。
そこで欽明天皇は、尾輿と鎌子の『仏なんかを拝むからだ!』という意見を受け入れました。尾輿と鎌子は天皇の許しを得て仏像を捨て寺を焼きました。
新しいものに振り回されて迷走。
仏教を受け入れてみたけど上手くいかないからやめた。
中臣氏は代々、神事を司る役職をつとめてきた。新しい宗教に自分の立場が奪われるのが怖かったのだろう。
朝鮮出兵するが挫折
勢いに乗った新羅はだれにも止められません。562年、ついに任那を滅ぼします。
欽明天皇は、紀男麻呂(き の おまろ)を大将軍にして朝鮮に送りますが、任那を奪い返せませんでした。
よっぽど悔しかったのでしょう。欽明天皇は亡くなる前、皇太子(次の敏達天皇)に、『必ず新羅を討て。そして任那を復興させろ。』と言い残して亡くなりました。
62才でした。
朝鮮出兵失敗。新羅の勢いは止まらない。