歴代天皇 - 女帝中心の時代 -
皇極天皇(こうぎょく)は、古代最大のアクシデントで自分から天皇を辞めてしまった人です。
自分から辞めたのは歴代天皇で初めてのことでした。これを譲位といいます。もちろん、天皇だった人が生きているのも初めて。
先代の舒明天皇の皇后で歴史の教科書に出てくる中大兄皇子の母。
古代 飛鳥時代
- 皇居
飛鳥板蓋宮
(あすかのいたぶきのみや)
- 生没年
- 594年 ~ 661年7月24日
推古天皇2 ~ 斉明天皇7
68才
- 在位
- 642年1月15日 ~ 645年6月14日
皇極天皇元 ~ 皇極天皇4
4年
- 名前
- 宝
(たから)
- 別名
天豊財思日足姫尊
(あめとよたからいかしひたらしひめ の みこと)
- 父
茅渟王
(ちぬ の おおきみ)
- 母
吉備姫王
(きびつひめ の おおきみ)第29代 欽明天皇の孫
(きんめい)
- 夫
- 第35代 舒明天皇
(じょめい)
ピンチヒッターの即位
先代の舒明天皇は在位13年で亡くなります。皇太子の中大兄皇子(なか の おおえのみこ)は16才でした。
皇太子・中大兄は舒明天皇の葬式で弔辞を述べています。これは『あとは私におまかせください』という意味がありますが、でもじっさいに即位したのは、舒明天皇の皇后・宝皇女(たから の ひめみこ)でした。
16才にしては若すぎるという臣下たちの反対があったと言われます。当時は20代後半でも未熟でムリという時代なのでしょうがありません。
あと、中大兄の人格が攻撃的すぎて人望がなかった、本人が天皇になる気がなかったとも言われます。ぼくはこの説もあるんじゃないかと思っています。
総合的に中大兄ではダメだと判断されたのでしょう。皇極天皇の時代は前途多難だったから。
- 異常気象の連続で経済が停滞。社会不安が広がる。
- 蘇我氏の横暴が絶頂期
- 蘇我氏 vs 反蘇我皇子の対立の激化
このころ、蘇我蝦夷(そが の えみし)が蘇我氏のトップだったが実際に仕切っていたのは息子の入鹿(いるか)。
入鹿は、蘇我氏のなかでももっとも横暴なふるまいをしていたと言われ、父の蝦夷でも抑えられないほど。
祖父の馬子に似ていたのだろう。ただやり手だったらしい。
災難その1 異常気象の連続
ピンチヒッターで皇極天皇が即位した一番の理由はこれじゃないかと思います。高極天皇が即位してからは異常気象の連続でした。
- 長雨や日照りが続く
- 冷夏・暖冬
即位1年目はとくに日照りが続きました。とうぜん作物は不作で経済的にピンチ。庶民の社会不安もあったでしょう。
蘇我蝦夷は、たくさんの仏僧をあつめて雨ごいをしましたが効き目がありませんでした。
皇極天皇も自ら雨ごいの儀式を行ないます。すると5日間雨が降りつづけました。
これで皇極天皇の評価が一気に高まります。
蘇我氏の評価は一気に下がったよう。それで偉そうにするんだからなおさら。
災難その2 蘇我氏のオラオラがピーク
皇極天皇は先代から引きつづき蘇我蝦夷を大臣に任命しました。
しかし、おもに政治を行ったのは蝦夷の息子の入鹿。この親子の時代が蘇我氏のやりたい放題のピークでした。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
蘇我親子のやりたい放題エピソード
- 皇極元年、蝦夷は葛城に自分の祖先を祀る祖廟(そびょう)を作らせ、天皇にしか許されていない『八佾の舞い』(やつらのまい)の行事を行う。
- 同年、多くの人民を使って蝦夷と入鹿の双墓(ならびのはか。古墳)を作らせる。
- 皇極2年、蝦夷が勝手に紫の冠を入鹿に与えて大臣と同じ扱いにした。(官位を与えるのは天皇にしかできない。)
- 同年、入鹿が中大兄皇子の兄で舒明天皇の第1皇子・古人大兄皇子(ふるひと の おおえのみこ)を天皇にしようとする。古人大兄の母は馬子の娘。入鹿のいとこ。
傍若無人ここに極まれりです。
蘇我氏はいままでも自分の思い通りに天皇を即位させてきましたが、天皇にしか許されていないことを勝手に行うことまではしませんでした。あくまで『天皇の意思』を利用しただけ。
それなのに入鹿の時代になると、天皇にしか許されない行為をあたりまえのように繰り返し有力皇子の殺害まで決行します。
大兄(おおえ)
『いちばん上の兄ちゃん。将来のいちばん偉い人』の意味。名前に大兄がつく人は将来の天皇候補ナンバーワンになる。
身近な人のあいだでは『○○のアニキ』といったところ。
『兄』は目上の尊敬する人に使う『様』みたいなもので『大兄』の威力は絶大。
歴史の教科書に出てくる中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)は皇太子で天智天皇になった。
ちなみに、中大兄は名前ではなく『真ん中のアニキ』『2番目のアニキ』のこと。
災難その3 聖徳太子の一族が滅ぶ
この蘇我氏の横暴に怒り狂った皇子がいます。山背大兄皇子(やましろ の おおえのみこ)。
山背大兄は先代の舒明天皇と皇位を争った有力な皇子で、蝦夷に説得されて天皇に即位しませんでした。
その蝦夷が自分が天皇かのような態度をとるので怒り爆発。
そんな中、入鹿はいとこの古人大兄皇子を天皇にするために、まだ皇位継承の有力皇子だった山背大兄を殺そうと襲撃します。
山背大兄は逃げ出すのに成功しますが斑鳩(いかるが)に戻って自殺。皇子ひとりだけでなく一族郎党全員が自殺しました。
山背大兄は聖徳太子の息子です。全員死んだので聖徳太子の一族は滅びてしまいました。
聖徳太子の子孫はいません。いるというなら、それは詐欺か怪しい新興宗教の世界。
斑鳩(いかるが)は聖徳太子が自分の宮を建てた場所。聖徳太子のホーム。
入鹿のこの行動に父の蝦夷もやりすぎだと激怒したという。
蝦夷は、父の馬子・息子の入鹿とちがい蘇我氏のなかでは穏健派だったよう。それでも十分オラオラだが。
災難その4 ついに古代最大の事件発生(乙巳の変)
もうひとり、ひそかに蘇我氏に怒りをもっていた人物がいます。皇太子・中大兄皇子。
自分が皇太子なのに、べつの皇子を天皇にしようとしている入鹿に腹が立っていたでしょう。山背大兄が殺されたことにもイラっとしたはずです。
中大兄は、中臣鎌子(なかとみ の かまこ。のちの藤原鎌足)と古代最大の事件の計画をたてます。
入鹿の暗殺です。
山背大兄が殺されたことで、殺やらなければ自分が殺られると思ったのかもしれません。入鹿からすれば古人大兄の即位には皇太子が一番ジャマですから。
計画は、皇極天皇の目の前で三韓(高句麗・新羅・百済)の使者からの親書を読み上げる行事をしているときに襲撃するというものです。
暗殺実行に天皇がいる行事を選んだのは、天皇が参加する行事には臣下たちは武器をもってはいけないというルールがあったから。
ちなみに、この行事そのものが暗殺のためのウソ。朝鮮からの親書なんてありません。
暗殺部隊の構成です。
中大兄皇子 (なか の おおえ の みこ) | 首謀者。暗殺の合図を出す。 |
中臣鎌子 (なかとみ の かまこ) (中臣鎌足。藤原氏の祖) | 中大兄の一番の協力者。暗殺のタイミングを はかる。 |
蘇我倉山田石川麻呂 (そが の くらやまだ の いしかわまろ) | 協力者。入鹿のいとこ。 三韓の親書を読み上げて暗殺実行の時間稼ぎ をする。 |
その他の臣下たち | 武装して待機。暗殺の実行を行う。 |
いよいよ暗殺のとき
ついに実行のときがきました。皇極天皇4年(645)6月12日です。
突撃がないのでビビッて大量の汗が出る。
刺された入鹿が天皇ににじり寄る。
皇極天皇はなにも言わずその場を去る。
入鹿は臣下たちにとどめを刺される。
遺体はそこらへんの庭に放置。
これが乙巳の変です。
ある年齢以上の人は乙巳の変(いっしのへん)と聞いて、『なんですか?』でしょう。
昔は大化の改新(たいかのかいしん)と言いました。
でもこのときは『大化』という言葉はなかったので、いまは乙巳の変といいます。
大化の改新は、次の孝徳天皇のもとで中大兄皇子と中臣鎌足が中心になって行なっていく政治改革のこと。
(大化という元号は孝徳天皇のときにできた。)
蘇我氏宗家滅亡
事件はまだ終わりません。中大兄皇子は、法隆寺にこもって蝦夷との最終決戦の準備をします。また、蝦夷に味方しようとする軍勢に使者を送って思いとどまらせました。
味方の軍勢がなくなってしまった蝦夷は自害しました。これで蘇我氏宗家が滅亡し、あれだけやりたい放題だった蘇我氏の時代が終わります。
蘇我氏のリーダーの名前を見ると特長がある。
- 稲目(いなめ)
- 馬子(うまこ)
- 蝦夷(えみし)
- 入鹿(いるか)
横暴になっていったところから動物の名前。蝦夷にいたっては差別語。
(都から離れた、とくに東北の人たちのことを『蝦夷』と呼んでいた。文明が未発達の野蛮人という意味。)
まともな名前は稲目くらい。
これは、蘇我氏を倒した人々が、後世の人に蘇我氏がどれだけ悪事を働いてきたかを知らせるために字を当てたとも言われる。
責任を取って退位(初の譲位)
皇極天皇は事件の2日後に退位しました。このように、生前に天皇を次へ譲ることを譲位(じょうい)と言います。
これが歴史上初の譲位。最初の譲位は皇太子が天皇の目の前で重臣を暗殺するというショッキングな事件のアクシデントでした。
アクシデントで始まった譲位は、時代が経つにつれて『天皇が譲位するのは当たり前でしょ?』ぐらいにまで一般的なものになっていきます。
事実上の初の上皇
もちろんですが、天皇経験者が天皇を辞めたあとに生きているのも歴代天皇で初めてです。
もう少し時代がたつと『太上天皇(上皇)』という呼び方ができるのですが、このときはアクシデントで急に起きたのでそのようなものはありません。
そこで退位した皇極天皇は皇祖母尊(すめみおやのみこと)と呼ばれます。『偉大なる天皇の母』のようなもん。
上皇という呼び方がないだけで、皇極天皇は歴史上初の上皇です。
皇極天皇は、歴代天皇の史上初3冠を達成。
- 譲位
- 事実上の上皇
- 重祚
これだけ異例づくしなのは、皇極天皇の4年間はそれだけ激動だったということ。
重祚(ちょうそ)
一度退位した天皇が再び天皇になること。二度目のときの名前は新しくつけられる。
男性天皇は1人も重祚していない。女帝だけ。
退位した皇極上皇は皇位をゆずった弟のあと、また天皇に即位します。第37代 斉明天皇です。『斉明』は重祚したときの名。皇極天皇と斉明天皇は同一人物です。