歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
福井のアラフォー・オッサンが、まわりの流れに乗っかってたら天皇になる。宣化天皇(せんか)はそんな人です。
天皇になるはずないところから父が天皇なり、同じく兄が天皇になり、どう考えてもありえないところで即位しました。ウソみたいなシンデレラストーリー。
先史・古代 古墳時代
- 皇居
檜隈廬入野宮
(ひのくまのいおりののみや)
- 生没年
- 467年 ~ 539年2月10日
雄略天皇11 ~ 宣化天皇4
72才
- 在位
- 536年12月 ~ 539年2月10日
宣化天皇元 ~ 宣化天皇4
3年
- 名前
- 檜隈高田
(ひのくま の たかた)
- 別名
武小広国押楯尊
(たけおひろくにおしたて の みこと)
- 父
第26代 継体天皇
(けいたい)
- 母
目子媛
(めのこひめ)尾張連草香の娘
(おわり の むらじ くさか)
- 皇后
橘仲皇女
(たちばな の なかつひめみこ)仁賢天皇の皇女
福井のアラフォー・オッサンが...
宣化天皇は継体天皇の第2子で先代の安閑天皇の弟です。もうすぐ40才になろうかというころまで越前三国(福井)で暮らしていました。
ところが父が即位することになり、兄が皇太子になりと目まぐるしく環境が変わる中で一緒に行動します。
そして、子どもがいないまま安閑天皇が亡くなったので即位します。69才でした。
歴代天皇の最高齢即位は光仁天皇の61才。それを8才も上回っている。
(宣化天皇の時代は年齢の正確性に欠けるので参考記録。)
宣化天皇には、ヤマトの血を受け継いだ正統継承者の弟がいました。のちの欽明天皇です。
(欽明天皇は継体天皇と皇后の間の皇子。安閑・宣化は福井時代からの妻との間の子)
安閑天皇が亡くなったとき弟は27才。もうりっぱな青年ですが当時の天皇は35才前後にならないとなれなかったようです。
(古代の天皇即位の適齢期は35才という説がある。)
そこで宣化天皇が即位しました。古代の天皇は老人にならないとなれませんでした。『長老』のイメージでしょうか?
毎度おなじみのマスオさん計画
宣化天皇も、父の継体天皇や兄の安閑天皇と同じように、ヤマトの人にすんなり受け入れられたとは思えません。
継体・安閑天皇と同じで、ヤマトが納得できる仁賢天皇の皇女(橘仲皇女)を妃に迎えます。
宣化天皇も父や兄と同じように血統が信用されていないようで、皇后の血統に頼る必要がありました。
宣化天皇は才能や地位をひけらかすことはなかったようです。3代目マスオさん(入り婿)にもなると『いいマスオさんになるには?』が分かっていたのでしょう。
蘇我氏の台頭のきっかけを作る
宣化天皇は、 大伴金村(おおとも の かねむら) と物部麁鹿火(もののべ の あらかひ) を大連に任命します。これは父の継体天皇のときからの再任用。
宣化天皇はもうひとつの大臣に蘇我稲目宿禰(そが の いなめ の すくね)を抜擢しました。
これをきっかけに蘇我氏は大きな権力をもちはじめます。その力は天皇よりも大きくなるくらい。
蘇我氏は武内宿禰の子孫氏族。この系統は本当に強い。
宿禰本人が亡くなったあと、同族の葛城氏(かずらき)が史上初の臣下から皇后を出すほど隆盛する。
葛城氏が没落すると、今度は同族の平群氏(へぐり)が隆盛する。
平群氏が没落したのは第25代 武烈天皇の時代。ほぼ間を開けず蘇我氏が出てきた。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
外交では任那の擁護
この時代の外交政策は大事です。外交をどうするかで国内の権力闘争や皇位継承の争いにまで影響したから。
このときの天皇の外交方針は『任那を守る』。親・百済といってもいいです。
そして、新羅・高句麗と戦争することにためらいません。これは継体天皇のときも同じです。そのときは磐井の乱で中途半端に終わりましたが。
宣化天皇は、新羅に攻められていた任那に金村の息子2人(磐(いわ)、狭手彦(さてひこ))を送っています。
任那(みまな)
もともと朝鮮半島中南部に小国家群(馬韓)があり、3~6世紀中ごろは加羅(から)、もしくは伽耶(かや)と呼ばれた。
その一部にあった倭人の支配エリアを任那という。
任那は日本からみた呼び名で、加羅全体を指しているのか、倭人エリアだけを指しているのかよく分からない。
前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。
ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、任那の支配権をめぐって新羅や高句麗と対立したのが原因。
百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。
宣化天皇は在位3年で亡くなります。即位したとき69才で高齢だったのでしょうがありません。
(死因は分かっていない。)