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鎌倉幕府成立は1192年に戻したほうが良い理由。いまや少数派になっちゃった話。

鎌倉大仏

ご覧のページは 6 / 8 です。先頭ページはこちら。

1192年になるまで頼朝は軍の統括権を持ったことがない

頼朝は1185年の時点で、おそらく日本で一番軍事力をもっていたことは事実です。

(このときまだ、奥州藤原氏と戦っていないので断定できないが。)

だからといって、国家の軍事の統括権をもっているとは言えません。確実にもっていると言えるのは征夷大将軍に任命された1192年です。

1190年に右近衛大将に任命されたときですらもっていません。これは宮中を警護する軍の大将であって、今でいうと皇宮警察みたいなもの。日本国全体の軍事を統括しているわけではありません。

(『一番強いから天皇を守ってよ』ぐらいのもの。)

また右近衛大将は、将来、右大臣左大臣の政権トップに上がっていくステップアップの役職でした。

(右近衛大将は中納言大納言が兼務することが多かった。)

頼朝もすぐあとに権大納言に昇進するので、まだトップに上る途中。

1192年になるまで頼朝は関東武士の棟梁ですらない

当時は1192年になるまで、鎌倉で武家の安定政権ができる確証はだれももっていません。あとの時代から見ている僕らは知っているからカン違いしているだけです。

頼朝は挙兵して、関東武士を率いて大きくなりました。しかし、関東武士は頼朝の臣下ではありません。自分たちのあつかいがひどいので、何とか変えようという同士です。

上下関係はありません。1192年に征夷大将軍になるまで、いつでも頼朝を殺してだれかに替わる可能性は十分にありました。頼朝は武士の頂点に立つ権威はもっていませんでした。

頼朝の死後、鎌倉の将軍は、御家人の思惑で将軍職をはく奪されたり暗殺されたりします。

征夷大将軍の権威があっても、源氏の棟梁と関東武士の関係はこんな感じです。1192年以前はもっと不安定だったでしょう。

2代将軍・頼家(よりいえ)は、御家人から将軍職をはく奪され、鎌倉を追い出されたあと暗殺された。

3代将軍の実朝(さねとも)は、頼家の息子・公卿(くぎょう)に暗殺された。

この暗殺には鎌倉の御家人が絡んでいる。そしてそのあと、鎌倉幕府の将軍は武家の棟梁でなくなる。

次は 1192年はどういう年なのか?
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