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鎌倉幕府成立は1192年に戻したほうが良い理由。いまや少数派になっちゃった話。

鎌倉大仏

ご覧のページは 4 / 8 です。先頭ページはこちら。

幕府成立年が1185年はおかしい

まず、1185年はおかしいです。この年は、壇ノ浦の戦いに平家が敗れた年で、安徳天皇が瀬戸内海に身を投げて命を落とした年です。

また、源義経が京都でヒーローになっていて、源頼朝と義経が仲たがいをしたころ。

後白河法皇はあとで取り消しますが、義経に頼朝追討の宣下を出した年でもありました。

(頼朝は賊軍と言っているようなもの。)

反乱軍に認定されているのに幕府の成立はおかしいです。

鎌倉は全国制覇していない

またこのときは東北に奥州藤原氏がいました。東北は鎌倉の勢力範囲ではないし、西日本は朝廷の勢力下です。

おそらく当時、頼朝は日本一の武力と組織をもっていたでしょう。しかし、ひとりの有力武将程度の存在です。鎌倉が日本全体を掌握するのは1121年の承久の乱の後です。

ちなみに、義経が奥州で殺され奥州藤原氏が滅亡するのは4年後の1189年。

位はあっても役職なしに幕府は開けない

1185年は頼朝が従二位に昇進している年で、これは左大臣・右大臣クラスです。でも頼朝は左大臣・右大臣でもなければ、国軍を統括する役職もありません。

偉い人だけど国を動かす権利はもっていない。有位無官の状態。

(無位無官よりはマシだが。)

位と役職がフワフワしている感じは織田信長と似ている。

地頭・守護の設置を幕府の成立とするのもちがいます。これは、各地域の行政官のトップの任命権と、治安維持の責任者の任命権をもっていますが、肝心の頼朝に役職がないので、いつでもひっくり返せます。

後白河法皇
後白河天皇 image
武力で脅して地方自治をムリヤリ奪った。
後白河天皇 image
役職がないから勝手にやっている。討て!

とだれかに命令したら終わり。

地頭・守護は、何かあったとき日本の正当な軍として、各地域で軍を編成する権限をもっていません。頼朝にそれを命令する権限もありません。

頼朝自身に国家の軍事の統括権がないのだから。

地頭には、いざとなったら鎌倉に集結する義務があった。

でもこれは、地頭職につく見返りに鎌倉と御家人が交わした約束。地頭という職業の義務ではない。

守護にも鎌倉の護衛をする武士を選定する仕事があった。ただこれも『鎌倉』という組織を守るため。

国軍のためのものではない。

御家人(ごけにん)

鎌倉時代の幕府に従う武士。

家人(けにん)を丁寧な言い方にしたもの。家人は『主人の家の人』という意味で主人に従う人という意味。

鎌倉の力が圧倒的だったので、家人にも『御』をつけるくらい気を使った。

御家人の主人は鎌倉の将軍ではなく鎌倉武士の組織だった。そのため、鎌倉幕府が消滅すると御家人も消滅する。

(全員死んだわけではない。武士のひとつの形が消滅した。)

鎌倉時代の言葉として使われることが多く、ほかは『家臣』と同じ意味で使われる程度。

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