いま学校で教える、日本史の鎌倉幕府の成立年は、正確には決められないそうです。
一番多いのは1185年で、今まで教わってきた1192年は10%未満らしい。
これはおかしいです。鎌倉幕府成立年・1192年にはちゃんと理由があります。
中世 鎌倉時代
- 鎌倉幕府成立までの源頼朝の足跡
- 激動の12年間にひとり権力の中枢に居つづけた後白河法皇
- 院政下での権力闘争を生き抜く
- 平家政権のきっかけをつくる
- 後白河法皇政権の時代
- 平家政権の時代
- 復権した後白河法皇政権 混乱の時代
- そもそも幕府とは?
- 鎌倉幕府成立年を1192年に戻さなければいけない理由
- 幕府成立年が1185年はおかしい
- 幕府成立年が1185年以前はもっとおかしい
- 1192年になるまで頼朝は軍の統括権は持ったことがない
- 1192年になるまで、頼朝は関東武士の棟梁ですらない
- 1192年はどういう年なのか?
- 今の解釈だと幕府が無いことにならないか?
- もしかして天皇制が嫌いだからわざとしている?
鎌倉幕府が成立したころは、鎌倉武士・上皇・朝廷貴族が入り乱れて、だれが政治権力をもっているのか、分かりずらい時代です。
どの目線で見るかで景色が変わります。また、『幕府』という言葉じたい当時は使われていませんでした。
だからといって1192年を否定できるものではありません。
今回は、1192年が成立年だという理由をひとつひとつ見ていきます。
ほかの成立年を全否定するものではありません。さっきも言ったように『目線』を変えると答えも変わるので。
鎌倉幕府成立までの源頼朝の足跡
鎌倉幕府の成立は、なんといっても源 頼朝(みなもと の よりとも)ですよね?
頼朝の動きを見ないと、絶対に鎌倉幕府の成立のことは分かりません。まずは頼朝が天下を取るまでの足跡をみてみましょう。
西暦 | 頼朝の出来事 |
---|---|
1180 | 挙兵 |
鎌倉入り | |
侍所設置 | |
1183 | 公文所設置 |
問注所設置 | |
上洛を要請される | |
1185 | 従二位 昇進 |
公文所を政所に改称 | |
守護設置 | |
地頭設置 | |
1189 | 弟・義経を討つ |
奥州藤原氏滅亡 | |
1190 | 権大納言就任 |
右近衛大将就任 | |
1192 | 征夷大将軍就任 |
用語の意味
用語 | 意味 |
---|---|
侍所 (さむらいどころ) | 軍事、警察組織。 頼朝軍の軍規を保つための組織。 |
公文所 (くもんじょ) | 鎌倉を拠点にするための行政組織。 |
問注所 (もんちゅうじょ) | 裁判所。 |
従二位 (じゅうにい) | 位階。上から4番目。 左大臣・右大臣クラスに相当する。 日本では、役職を務めるには相応の位がないといけない。 現在は、総理大臣などの閣僚、衆議院議長など、国家に後見した役職を経験した人が亡くなると贈られる。 従二位は、総理大臣経験者に贈られる一番下の位。 |
政所 (まんどころ) | 親王または官位が三位以上に設置権利がある家政機関。 『自分の領内は勝手にルールを作っていいよ。』という私的機関。 |
守護 (しゅご) | 警視総監、県警本部長みたいなもの。 |
地頭 (じとう) | 知事みたいなもの。 治安維持も任されていた。 守護と仕事がかぶるが、どう役割分担していたか不明。 (ケースバイケース?) |
右近衛大将 (うこのえたいしょう) | 宮中警護の責任者。 皇宮警察のトップ。 |
権大納言 | 大納言が定員オーバーしているときに与えられる大納言職。 権(ごん)は『仮』の意味。 仮でも大納言に変わりない。 大納言は政権ナンバー3。 (太政大臣も入れるとナンバー4) |
征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん) | 朝廷軍(国軍)の最高指揮官。 日本の軍事の統括権をもつ。 第50代 桓武天皇が設置した。 |
頼朝は、1185年に朝廷から左大臣・右大臣クラスの位をもらいます。左大臣は総理大臣みたいなものなので1185年説が多いんでしょうね?
でも頼朝は左大臣ではありません。位は左大臣と同格でも役職なし。
(1190年に権大納言に就任。大納言は左大臣の2ランク下。)
政所も公的な行政機関じゃありません。朝廷から、
自分の管轄地域に組織を置いていいよ。
と言われたようなもの。
頼朝の目線で見れば幕府の成立は1185年でしょう。でも、国家権力にはもっと強力な人がひとりいます。後白河法皇です。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣 左大臣 右大臣 内大臣(令外官) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
位はあるのに役職なしってどういうこと?
と思うでしょう。
1185年の頼朝は、まちがいなく日本最強の軍事力をもっていました。朝廷もそれを無視できません。でも国家運営には参加させたくありません。
あんたは偉いことを認めるから、国家運営にはタッチしないでね?
と言ったようなもの。
あとになって限界がきて、権大納言・右近衛大将・征夷大将軍と役職もステップアップしますが。
激動の12年間にひとり権力の中枢に居つづけた後白河法皇
平家の時代から、源氏が鎌倉幕府をひらくまでの激動の12年間のあいだに、ひとりだけ権力の中枢に居つづけた人がいます。後白河法皇です。
後白河法皇は源頼朝の鎌倉幕府の将軍就任に大きく関係しています。後白河法皇の足跡を見ないと、鎌倉幕府成立のプロセスは分かりません。
こんどは後白河法皇の足跡を見てみましょう。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
院政下での権力闘争を生き抜く
後白河天皇は、ライバルの崇徳上皇に勝った保元の乱で有力武士の力を使いました。このとき武士はまだ政治勢力ではなく、皇族・貴族のボディーガードです。
このなかに、平清盛(たいら の きよもり)、源義朝(みなもと の よしとも, 頼朝・義経の父)もいました。この乱で武士が政治勢力になるチャンスをつかみます。そのきっかけを作ったのが後白河天皇です。
平家政権のきっかけをつくる
乱のあと、今度は勝ったはずの後白河上皇政権内で貴族同士の内紛がはじまります。平治の乱です。
このとき、後白河法皇が頼ったのが平清盛。清盛の存在は、後白河法皇の政権で平家なしで運営できないくらい大きくなります。
上皇は武士が政治勢力になるように引き上げた人です。
後白河法皇政権の時代
平治の乱(1159年)~ 平清盛が太政大臣に就任(1167年)するまでのあいだは後白河法皇の政権です。このあいだに清盛は、政治家としてメキメキと力をつけていきました。
(このころ、後白河上皇と平清盛は出家していた。)
平家政権の時代
平家政権の期間は2パターンが考えられます。
1167~79年は後白河法皇と平清盛が対立し、ガチンコの権力闘争をくりひろげたころ。
これを後白河政権内の内紛とするか、すでに平家政権がはじまっているかで見方が変わります。
清盛が法皇を幽閉して完全に政権から追い出した1179年からは平家政権としていいと思います。
このように、完全な平家政権は安徳天皇の在位期間(1180 ~1185)とほぼ重なります。
安徳天皇が即位したとき法皇は幽閉されていました。そのため、安徳天皇の即位は清盛が勝手に決めたとも言えます。
安徳天皇は清盛の孫で母は清盛の娘・徳子(とくし)です。
復権した後白河法皇政権 - 混乱の時代
後白河法皇が幽閉から解放されたとき、すでに世の中は混乱していました。このとき法皇は、政権を保つために平家につくのか源氏につくのか必死の行動をとります。
1180年 - そのころ頼朝は、挙兵・鎌倉入り
1180年、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が平家打倒をスローガンに挙兵します。これをきっかけに日本各地の反平家の勢いが増して各地で挙兵する勢力があらわれました。
後白河法皇はいまだ幽閉中です。
親王宣下(しんのうせんげ)
天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。
正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。
男性が親王。女性が内親王。
天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。
天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。
はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇。
親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。
大宝律令の中で制度化したと思われる。
(正確な決まりはない。)
親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。
宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。
明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。
天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。
範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
1181年 - そのころ頼朝は、鎌倉で地固め
清盛が亡くなり後白河法皇が復活します。1183 ~ 1185年にかけては法皇にとって目まぐるしく変わる年になりました。
1183年 - そのころ頼朝は、鎌倉から外に向かって動く
後白河法皇は平家からはなれ勢いのある源氏に近づきます。
源氏と言っても一枚岩ではありません。法皇はあっち行ったりこっち行ったり、落ち着きのない行動をします。
いちばん利用できる武士を探してたんでしょうね?
木曽義仲を頼った時期
- 源氏の木曽義仲(きそ よしなか)上洛
- 平家・安徳天皇といっしょに西に都落ちすることになっていたが、それをせず比叡山に脱出
- 平家を見捨て源氏を頼る
- 都落ちした平家の追討を木曽義仲に宣下し、京都の警護も命ずる
- 平家がいなくなって空いた官位のポストに、法皇の近臣を送り込んで朝廷を掌握
- 木曽義仲に『次の天皇は以仁王の息子にすべきだ!』と言われイラつく(義仲に天皇を決める権限はない)
- 京都での義仲軍の傍若無人ぶりに困り、平家追討の出兵を命じてとりあえず京都からはなれてもらう
はじめに源氏の木曽義仲を頼る。
が、調子に乗るので京都から追い出す。
源頼朝・義経を頼った時期
- 義仲がいないスキに源頼朝(みなもとの よりとも)と交渉をはじめる
- すでに頼朝が平定した所領の支配権を認める代わりに上洛を要請
- 頼朝の官位を元に戻す(平治の乱で敗れたとき、はく奪されていた)
- 頼朝は義仲追討を要求するが和睦するようになだめる
- 京都に戻った義仲に頼朝上洛要請がバレて、逆に頼朝討伐を要請されるが拒否
- 京の近くに源義経(みなもとの よしつね)が来ていることを知る
- 義経に乗り換えるため、再び義仲に平家追討を命じ、京からはなれるよう最後通牒を突きつける
- 義仲に武力攻撃を仕掛けると思われ、逆に襲撃を受け幽閉される
- 軟禁状態の中、義仲に頼朝追討の宣下をくだす
木曽義仲のいとこ・源頼朝・義経兄弟を頼る。
が、義仲の報復にあう。
源氏同士の主導権争いでその場しのぎの命令を出し意味不明になる。
(頼朝と義仲のあいだを行ったり来たり。)
すでに平家は見ていない。
1184年 - そのころ頼朝は、本格的に朝廷とからみ始める
- 源義経が義仲を追討し法皇を救出
- 義経に平家追討・義仲軍残党の追討を命ずる
- 頼朝を従五位下から一気に正四位下に昇進させる
- 義経に、京の治安維持を担当する検非違使・左衛門少尉を任命
源氏の源義経を頼る。
兄・頼朝は鎌倉にいて京都に行こうとしない。
1185年 - そのころ頼朝は、位だけは左大臣級になる
- 平氏を滅亡させた義経を重用する
- 頼朝と仲が悪くなった義経に頼朝追討の宣下をくだす
- 義経が兵を思うように集められず悲痛のうちに京をはなれる
平氏の滅亡。
源頼朝よりも弟・義経を味方に引き入れようと画策する。
が、失敗。
義経を見捨て頼朝を頼った時期
- 義経に出した頼朝追討宣下について、頼朝に言い訳をして宣下を取り下げる
- 頼朝に地頭・守護の設置を認める
義経では頼朝を倒せないと悟ったので、兄・頼朝に近づく。
(頼朝討伐に利用しようとしていた義経を見捨てる。)
法皇はなりふりかまわずです。『アイツを倒せ!』と言ったすぐあとに、アイツと組むんですから。
義仲 -> 義経 -> 頼朝
と、短いあいだにコロコロと味方を変えました。このころの源氏は、だれが一番強いのか分からないので法皇は風見鶏状態。
1186年から1192年のあいだも、いろいろと細かい動きはしているのですが、ワケが分からなくなるのでここでは省略します。
鎌倉幕府の成立の理由は、すべて法皇が頼朝を味方にするためのおみやげです。
官位授与。地頭・守護の設置の許可など
本音は『武士ごときを政治に参加させてたまるか!』だから、与えるときはのらりくらり。
頼朝も法皇の本音は知っています。その証拠に法皇のことを、
日の本一の大天狗
と言っています。大天狗は、『妖怪』『喰えないヤツ』という意味。
(日本一の喰えないヤツ)
そもそも幕府とは?
話は変わって、『幕府』はいつどこから生まれた言葉なのか? それを見てみましょう。
幕府という呼び方は、鎌倉、室町、江戸時代にはありません。幕府という言葉が一般的に広まったのは明治に入ってから。
(江戸時代の中ごろあたりから一部で使われ始めたらしい。)
もともと幕府は中国の言葉で、皇帝に派遣された武将が戦地で陣をはる宿営地のこと。
その武将は、戦地を安定化させるため臨時行政府を作ることが許され、皇帝から行政権を与えられていました。
これを知っていた歴史学者が、日本の鎌倉、室町、江戸の武家政権の統治システムが似てると思って『幕府』と呼んだのがはじまりです。
鎌倉時代は『鎌倉』『関東』と地名で呼ばれていました。室町時代からは『公方』(くぼう)と呼ばれるようになります。
陣幕を張ったところに作った役所(行政府) = 幕府
陣幕: 陣地に張る幕。
(今思いついた覚え方。合っているかは不明。)
中国の『幕府』と日本の武家政権のなにが似ていたのか?
幕府という言葉を使いはじめた学者たちは何が似ていると思ったのでしょうか?ポイントはたったふたつです。
皇帝が派遣した将軍に与えた権利は、
- 行政の執行権。
- それを行使できる人は将軍。(軍の正統な統括権をもつ)
これを日本に当てはめて、
- 皇帝 -> 天皇
- 将軍 -> 征夷大将軍。武家の棟梁。
が似てると思ったのでしょう。幕府の定義はこれだけです。
鎌倉幕府成立年を1192年に戻さなければいけない理由
源頼朝、朝廷の代表者・後白河法皇の足跡、幕府の定義をかんたんに見てきました。
今の歴史の教科書でおかしいところは、天皇(上皇・法皇)の存在を小さくしているところです。
幕府の定義には天皇は欠かせません。天皇に認められなければ、どれだけ武力をもってもただの私設軍隊だから。
このとき、私設軍隊を国家の軍隊に認めることができたのは後白河法皇です。法皇の存在を無視して語っています。これを見直すと、鎌倉幕府成立は1192年以外あり得ません。もう少し見ていきましょう。
幕府成立年が1185年はおかしい
まず、1185年はおかしいです。この年は、壇ノ浦の戦いに平家が敗れた年で、安徳天皇が瀬戸内海に身を投げて命を落とした年です。
また、源義経が京都でヒーローになっていたころで、源頼朝と義経が仲たがいをした年です。
後白河法皇はあとで取り消しますが、義経に頼朝追討の宣下を出した年でもありました。
(頼朝は賊軍と言っているようなもの。)
こんなに混乱しているのに幕府の成立はおかしいです。
鎌倉は全国制覇していない
またこのときは東北に奥州藤原氏がいました。東北は鎌倉の勢力範囲ではないし、西日本は朝廷の勢力下です。
おそらく当時、頼朝は日本一の武力と組織をもっていたでしょう。しかし、ひとりの有力武将程度の存在です。鎌倉が日本全体を掌握するのは1121年の承久の乱の後です。
ちなみに、義経が奥州で殺され奥州藤原氏が滅亡するのは4年後の1189年。
位はあっても役職なしに幕府は開けない
1185年は頼朝が従二位に昇進している年で、これは左大臣・右大臣クラスです。でも頼朝は左大臣・右大臣でもなければ、国軍を統括する役職もありません。
エライ人だけど国を動かす権利はもっていない、有位無官
の状態。(無位無官よりはマシですが)
位と役職がフワフワしている感じは織田信長と似ている。
地頭・守護の設置を幕府の成立とするのもちがいます。これは、各地域の行政官のトップの任命権と、治安維持の責任者の任命権をもっていますが、肝心の頼朝に役職がないので、いつでもひっくり返せます。


とだれかに命令したら終わり。
地頭・守護は、何かあったとき日本の正当な軍として、各地域で軍を編成する権限をもっていません。頼朝にそれを命令する権限もありません。頼朝自身に国家の軍事の統括権がないのだから。
地頭には、いざとなったら鎌倉に集結する義務がありました。でもこれは、地頭職につく見返りに鎌倉と御家人が交わした約束です。地頭という職業にある義務ではありません。
守護にも鎌倉の護衛をする武士を選定する仕事がありました。ただこれも『鎌倉』という組織を守るためです。
国軍のためのものではありません。
御家人(ごけにん)
鎌倉時代の幕府に従う武士。
家人(けにん)を丁寧な言い方にしたもの。家人は『主人の家の人』という意味で主人に従う人という意味。
鎌倉の力が圧倒的だったので、家人にも『御』をつけるくらい気を使った。
御家人の主人は鎌倉の将軍ではなく鎌倉武士の組織だった。そのため、鎌倉幕府が消滅すると御家人も消滅する。
(全員死んだわけではない。武士のひとつの形が消滅した。)
鎌倉時代の言葉として使われることが多く、ほかは『家臣』と同じ意味で使われる程度。
幕府成立年が1185年以前はもっとおかしい
1185年以前にいたっては論外です。
侍所、公文所、問注所を設置しているからでしょうが、これらは源頼朝と関東武士が勝手に作った鎌倉ルールです。日本国家全体のルールでもないし国家の行政機関でもありません。
また、1183年に後白河上皇から上洛の要請を受ける代わりに、いろいろな独立した権限を引き出したからとも言えますが、これも当てはまりません。
織田信長が上洛したあと朝廷からいろんな権限をもらっていますが、『安土?岐阜?幕府成立』とは言いません。そんなものは日本の歴史上ないですよね?
このときは、勝手に挙兵して、勝手に関東武士を仲間にして、勝手に関東近隣を制圧しているだけの私設軍隊です。立場が変わればただの無法者にされてもおかしくありません。
1183年、征”東”大将軍に任命されて、軍事の統括権を与えられた木曽義仲は、源義経に討たれてます。
これは、後白河法皇も支持しています。それよりも頼朝の立場はあやうい。
このときの頼朝の制圧した地域は幕府にしてはあまりに小さいです。関東、静岡、山梨、+αぐらいしか勢力範囲がありません。
近畿をのぞく西日本、四国、九州にいたっては平家の勢力範囲です。
1192年になるまで頼朝は軍の統括権は持ったことがない
頼朝は1185年の時点で、おそらく日本で一番軍事力をもっていたことは事実です。
(このときまだ、奥州藤原氏と戦っていないので断定できないが。)
だからといって、国家の軍事の統括権をもっているとは言えません。確実にもっていると言えるのは征夷大将軍に任命された1192年です。
1190年に右近衛大将に任命されたときですらもっていません。これは宮中を警護する軍の大将であって、今でいうと皇宮警察みたいなもの。日本国全体の軍事を統括しているわけではありません。
(『一番強いから天皇を守ってよ』ぐらいのもの。)
また右近衛大将は、将来、右大臣や左大臣の政権トップに上がっていくステップアップの役職でした。
(右近衛大将は中納言・大納言が兼務することが多かった。)
頼朝もすぐあとに権大納言に昇進するので、まだトップに上る途中。
1192年になるまで頼朝は関東武士の棟梁ですらない
当時は1192年になるまで、鎌倉で武家の安定政権ができる確証はだれももっていません。あとの時代から見ている僕らは知っているからカン違いしているだけです。
頼朝は挙兵して、関東武士を率いて大きくなりました。しかし、関東武士は頼朝の臣下ではありません。自分たちのあつかいがひどいので、何とか変えようという同士です。
上下関係はありません。1192年に征夷大将軍になるまで、いつでも頼朝を殺してだれかに替わる可能性は十分にありました。頼朝は武士の頂点に立つ権威はもっていませんでした。
頼朝の死後、鎌倉の将軍は、御家人の思惑で将軍職をはく奪されたり暗殺されたりします。
征夷大将軍の権威があっても、源氏の棟梁と関東武士の関係はこんな感じです。1192年以前はもっと不安定だったでしょう。
2代将軍・頼家(よりいえ)は、御家人から将軍職をはく奪され、鎌倉を追い出されたあと暗殺されます。
3代将軍の実朝(さねとも)は、頼家の息子・公卿(くぎょう)に暗殺されました。
この暗殺には鎌倉の御家人が絡んでいます。そしてそのあと、鎌倉幕府の将軍は武家の棟梁でなくなります。
1192年はどういう年なのか?
1192年は後白河法皇が亡くなった年です。法皇というジャマものがいなくなったから、源頼朝は征夷大将軍という権威を手にしました。
頼朝の将軍就任は天皇の意思ではありません。当時は後鳥羽天皇ですが、12才で幼かったため、関白の九条兼実(くじょう かねざね)が将軍に就任させました。
九条兼実は朝廷で鎌倉寄りの立場を取っていた実力者です。将軍就任について独断で決めたところがあります。じっさい5年後、後鳥羽天皇は九条兼実に関白を辞任させ失脚させます。
後鳥羽天皇は、頼朝の将軍就任に賛成しているとは言えない感情をもっていたことが分かります。
後白河法皇はなぜ、頼朝に権威を与えなかったのか?
後白河法皇は、頼朝が武家の棟梁の権威が欲しいことは分かっていました。だから、最後まで与えませんでした。
行政権を渡しても、各地域の警察権を渡しても、都の警護をさせても、武家の棟梁の権威は与えませんでした。
そりゃそうでしょう。法皇はあまりに頼朝が調子こいたら、別の武家勢力に頼朝追討の命令を出すカードはもっていたいですから。
頼朝に権威を与えるとそのカードを捨てることになります。
法皇は頼朝を利用しても、鎌倉が朝廷のライバル勢力になることを拒否していたんですね?
平清盛(たいら の きよもり)に太政大臣を与えたとき、自分の権力が一時無くなってしまったことを反省したのでしょう。
法皇が恐れたのは、『清盛の次は頼朝が同じことをするんじゃないか?』です。
頼朝はなぜ、権威が欲しかったのか?
なぜ、頼朝は武家の権威が欲しかったのでしょうか?
幕末の日本を見ればわかります。徳川政権は、江戸幕府という強固な政権統治システムをもっていました。しかし征夷大将軍の権威を失墜させたため、軍事・資金力など圧倒的に不利な薩長に潰されてしまいました。
頼朝は鎌倉を安定させるなかで気づいたのでしょう。政権維持には、強固な政権統治システムとそれを運用できる権威が必要なことを。
ぼくが1192年にこだわるのはここです。幕府には、
強固な武家中心の政治システム
システムを運用する権威
のふたつが必要です。
1185年は、政治システムはもっていましたが権威がありません。だから1185年じゃダメなんです。
1192年まで、朝廷から正式に権力を委ねれていません。
室町幕府、江戸幕府の成立年は権威を与えられているので、この事実は重要です。
最後の幕府、徳川政権はすべての面で薩長よりも優れてました。
その証拠に、明治新政府の実働部隊の官僚たちの多くは旧幕臣です。彼らがいないと新政府は回らなかったとも言われます。
幕府のほうがむしろ、明治の近代化をする力をもっていました。足りなかったのは組織を動かすリーダーシップだけ。
頼朝は『征夷大将軍』が欲しかったのか?
頼朝は、そもそも征夷大将軍が欲しかったのでしょうか?
頼朝は、自分に都合のいい権威さえあればなんでもいいと思っていて、征夷大将軍は朝廷と鎌倉の妥協の産物だとボクは思っています。
頼朝が太政大臣を欲しがったか分かりませんが、太政大臣は朝廷にトラウマがあります。平清盛に天皇・上皇を超える権力を与えてしまったという。
だからそれは朝廷が許さないでしょう。
頼朝も太政大臣や左大臣・右大臣になると朝廷に近すぎて、清盛と同じ失敗をすると思ったかもしれません。
清盛を倒したからこそ分かっていたのでしょう。だから鎌倉から出ませんでした。
政治をするなら京都の方がだんぜんやりやすいのに。
朝廷内の権力闘争がうっとおしかったんでしょうね? 軍事力はないのに、あの手この手でやり込める達人につきあうのが。
征夷大将軍は朝廷と鎌倉にとってちょうどいい役職だったのでしょう。
平家政権は武士なのに朝廷に入り込みすぎて、朝廷政治にエネルギーをとられてしまい、全国の武士をまとめきれませんでした。
武士からは『武士を代表する平家』じゃなくて、『平家のために貴族になった武士』にしか見えませんでした。
それが平家滅亡の原因です。
征夷大将軍はもともと軍をもたない
征夷大将軍を作ったのは第50代 桓武天皇ですが、桓武天皇は国軍をもつことをやめた天皇です。
桓武天皇は常設の国軍をもつことをやめ、軍隊は国司に任せました。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続いた。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
このときから日本の国軍は、いざというときにしか集まらない臨時軍隊です。言ってしまえは寄せ集め。
この臨時国軍をまとめる総司令官が征夷大将軍。
じっさい征夷大将軍が作られたころは、いざ戦争というときに天皇が征夷大将軍を任命して、征夷大将軍が軍をもっている国司を招集して出撃していました。
戦争がないと征夷大将軍すら軍をもっていません。もしかすると、臨時職員の征夷大将軍がいちばん朝廷と鎌倉の良い距離感を保つものだったのかもしれません。
今の解釈だと幕府が無いことにならないか?
鎌倉幕府の成立年が1192年でないなら、鎌倉幕府ではなく鎌倉政権と呼べばいいと思います。鎌倉政権なら1185年の成立が正しいでしょう。
平家政権のことをだれも『平家幕府(福原幕府?)』と呼ばないですよね?
豊臣政権のことをだれも『豊臣幕府(桃山幕府?)』と呼ばないですよね?
平家も豊臣も、当時、最強の武力をもった武人の政権です。それを幕府と呼ばない理由を、歴史教科書を書いた人に説明してほしいです。
今の解釈だと説明できないと思うのですが...
幕府の成立年を1192年にすれば説明できます。
最強の武力をもった勢力が政権を取ることが幕府ではない。
征夷大将軍という国軍の統括権をもった、武家の棟梁の権威をもった人が政権を取るから幕府
なんだと。
もしかして天皇制が嫌いだからわざとしている?
ぼくには、1192年を無視するのは意図的に後白河法皇の存在を消しているように見えます。
源頼朝を見ると少しずつステップアップしているのが分かります。それを小出しにしていたのが法皇。
武家が政治勢力になる過程で必ず顔を出して影響を与えた人が、死ぬまで武士に権威を与えなかった意思を伝えることが歴史の本当の教育でしょう?
頼朝が幕府を開くことを知っている今の人が、それを基準にして見ると当時の状況を見誤ります。
当時の人に幕府の発想はないし頼朝も意識していなかったでしょう。目の前の困難をクリアしていったらそうなっていた、というところではないでしょうか?
自分の嫌いなものを無視は歴史でやってはダメです。石田三成が嫌いと言って三成抜きで関ケ原の戦いを語れますか?
語れるというならそれは、歴史ではなくファンタジーでしょう。