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鎌倉幕府成立は1192年に戻したほうが良い理由。いまや少数派になっちゃった話。

鎌倉大仏

ご覧のページは 7 / 8 です。先頭ページはこちら。

1192年はどういう年なのか?

1192年は後白河法皇が亡くなった年です。法皇というジャマものがいなくなったから、源頼朝は征夷大将軍という権威を手にしました。

頼朝の将軍就任は天皇の意思ではありません。当時は後鳥羽天皇ですが、12才で幼かったため、関白九条兼実(くじょう かねざね)が将軍に就任させました。

兼実は朝廷で鎌倉寄りの立場を取っていた実力者です。将軍就任について独断で決めたところがあります。じっさい5年後、後鳥羽天皇は兼実に関白を辞任させ失脚させます。

後鳥羽天皇は、頼朝の将軍就任に賛成していない感情をもっていたことが分かります。

後鳥羽天皇は30年後、承久の乱を起こして鎌倉御家人とガチンコ勝負をする。

負けて島流しの刑にあうが。

反・鎌倉を貫いた生粋の反幕派。

後白河法皇はなぜ、頼朝に権威を与えなかったのか?

後白河法皇は、頼朝が武家の棟梁の権威が欲しいことは分かっていました。だから、最後まで与えませんでした。

行政権を渡しても、各地域の警察権を渡しても、都の警護をさせても、武家の棟梁の権威は与えませんでした。

そりゃそうでしょう。法皇はあまりに頼朝が調子こいたら、別の武家勢力に頼朝追討の命令を出すカードはもっていたいですから。

頼朝に権威を与えるとそのカードを捨てることになります。

法皇は頼朝を利用しても、鎌倉が朝廷のライバル勢力になることを拒否していたんですね?

平清盛(たいら の きよもり)に太政大臣を与えたとき、自分の権力が一時無くなってしまったことを反省したのでしょう。

法皇が恐れたのは、『清盛の次は頼朝が同じことをするんじゃないか?』です。

頼朝はなぜ、権威が欲しかったのか?

なぜ、頼朝は武家の権威を欲しがったのでしょうか?

幕末の日本を見ればわかります。徳川政権は、江戸幕府という強固な政権統治システムをもっていました。しかし征夷大将軍の権威を失墜させたため、軍事・資金力など圧倒的に不利な薩長に潰されてしまいました。

頼朝は鎌倉を安定させるなかで気づいたのでしょう。政権維持には、強固な政権統治システムとそれを運用できる権威が必要なことを。

ぼくが1192年にこだわるのはここです。幕府には、

強固な武家中心の政治システム

システムを運用する権威

のふたつが必要です。

1185年は、政治システムはもっていましたが権威がありません。だから1185年じゃダメなんです。

1192年まで、朝廷から正式に権力を委ねられていません。

室町幕府、江戸幕府の成立年は権威を与えられているので、この事実は重要です。

最後の幕府、徳川政権はすべての面で薩長よりも優れていた。

その証拠に、明治新政府の実働部隊の官僚たちの多くは旧幕臣。彼らがいないと新政府は回らなかったとも言われる。

幕府のほうがむしろ、明治の近代化をする力をもっていた。足りなかったのは組織を動かすリーダーシップだけ。

当時の幕臣には地位にすがりつくだけで、何もしない人が多かったから動かしようがなかったというのもある。

それを変えられないほどリーダーシップがなかった。

頼朝は『征夷大将軍』が欲しかったのか?

頼朝は、そもそも征夷大将軍が欲しかったのでしょうか?

頼朝は、自分に都合のいい権威さえあればなんでもいいと思っていて、征夷大将軍は朝廷と鎌倉の妥協の産物だとボクは思っています。

頼朝が太政大臣を欲しがったか分かりませんが、太政大臣は朝廷にトラウマがあります。平清盛に天皇・上皇を超える権力を与えてしまったという。

だからそれは朝廷が許さないでしょう。

頼朝も太政大臣や左大臣・右大臣になると朝廷に近すぎて、清盛と同じ失敗をすると思ったかもしれません。

清盛を倒したからこそ分かっていたのでしょう。だから鎌倉から出ませんでした。

政治をするなら京都の方がだんぜんやりやすいのに。

朝廷内の権力闘争がうっとおしかったんでしょうね? 軍事力はないのに、あの手この手でやり込める達人につきあうのが。

征夷大将軍は朝廷と鎌倉にとってちょうどいい役職だったのでしょう。

平家政権は武士なのに朝廷に入り込みすぎて、朝廷政治にエネルギーをとられてしまい、全国の武士をまとめきれなかった。

武士からは『武士を代表する平家』じゃなくて、『平家のために貴族になった武士』にしか見えなかった。

それが平家滅亡の原因。

征夷大将軍はもともと軍をもたない

征夷大将軍を作ったのは第50代 桓武天皇ですが、桓武天皇は国軍をもつのをやめた天皇です。

桓武天皇は国軍の常設をやめ、軍隊は国司に任せました。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

このときから日本の国軍は、いざというときにしか集まらない臨時軍隊です。言ってしまえは寄せ集め。

この臨時国軍をまとめる総司令官が征夷大将軍。

じっさい征夷大将軍が作られたころは、いざ戦争というときに天皇が征夷大将軍を任命して、征夷大将軍が軍をもっている国司を招集して出撃していました。

戦争がないと征夷大将軍すら軍をもっていません。もしかすると、臨時職員の征夷大将軍がいちばん朝廷と鎌倉の良い距離感を保つものだったのかもしれません。

次は 今の解釈だと幕府が無いことにならないか?
前は 1192年になるまで頼朝は軍の統括権を持ったことがない
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